「東北のエミシ」と「アイヌ」は兄弟
日本古代史において、朝廷に刃向かった東方の勇者として語られる「エミシ(蝦夷)」。そして、北の大地で独自の豊かな精神文化を築き上げた「アイヌ」。この二つの集団は、まったく別の民族だったのか、それとも同じルーツを持つ仲間だったのか。
歴史ファンなら一度は抱くこの疑問だが、結論から言うと、両者は「同じ縄文人の親から生まれた兄弟のような関係」であったと考えられている。
最新の人類遺伝学、言語学、考古学の成果を手がかりに、エミシとアイヌの深い繋がりに迫ってみよう。
大元のルーツは同じ「縄文人」
日本列島には、数万年前から狩猟採集を行っていた縄文人が暮らしていた。その後、大陸から稲作技術を持った渡来系の人々(弥生人)が西日本にやってきて混血が進み、現代の本州人の基盤が形成されていく。
しかし、本州の北端(東北)や北海道では、縄文の血と生活様式が色濃く残り続けた。
-
東北のエミシ: 縄文人の強い遺伝的基盤を受け継ぎつつ、南からの渡来系集団との交流や混血が徐々に進んでいた人々。
-
北海道のアイヌ: 縄文人の遺伝的特徴を最も濃厚に保持しながら、のちに樺太・シベリア方面からやってきたオホーツク文化人とも交わって形成された人々。
つまり、二つの集団はどちらも「縄文人」という共通の幹から枝分かれした血族だったのである。
東北に残された無数の「アイヌ語地名」
エミシとアイヌが兄弟関係にあった決定的な証拠の一つが、東北地方に残る数々の「地名」である。
北海道の地名には「〜ナイ(沢・川)」や「〜ベツ(川)」が多いことで知られている(稚内、登別など)。実は、これと全く同じ言葉が東北北部(青森・岩手・秋田・宮城)にも無数に残されている。
-
今別(いまべつ/青森県): アイヌ語の「インマ・ペッ(越える川)」に由来。
-
目名(めな/青森県): アイヌ語の「メナ(細い小川の源流)」。
-
小友(おとも/岩手県・秋田県): アイヌ語の「オ・トゥ・ム(群れ集まる場所)」。
文字を持たなかった古代東北の人々が、かつてアイヌ語と極めて近い言語を話していたことは間違いない。ヤマト王権が「エミシ」と呼んで恐れた東北の人々の多くは、現在のアイヌ民族の直接の先祖や同族であったのだ。
朝廷が名付けた「エミシ」という言葉の正体
ここで整理しておきたいのが、「エミシ」という言葉の持つ意味である。
「エミシ」とは、民族の名前というよりも、古代のヤマト王権(京都や奈良の中央政府)の支配や律令制度に従わなかった東国・北国の人々を指す「政治的な呼び名」であった。
朝廷側から見れば、自分たちのルールに従わない者はひとまとめに「エミシ」と記録された。その中には、狩猟採集を中心とする人々もいれば、馬を育てて農耕を行う人々もいた。多様な集団が含まれていたものの、その中核にあったのが縄文・古アイヌ系の文化を持つ人々だったのである。
運命を分けた二つの道
同じ縄文の血を引く兄弟たちであったが、平安時代から鎌倉時代にかけてその運命は大きく分かれていく。
坂上田村麻呂らによる蝦夷征討などを経て、東北のエミシの多くは朝廷の支配下に組み込まれた。彼らの一部は「俘囚(ふしゅう)」として日本各地に移住させられ、やがて武士の源流(奥州藤原氏や東国武士団)へと溶け込み、現在の東北・本州の人々へと繋がっていった。
一方、津軽海峡を越えて北へと拠点を置いた人々、あるいは北海道にとどまり続けた人々は、本州や北方大陸との交易を活発に行いながら、12〜13世紀頃に「アイヌ文化」という独自の洗練された文化体系を完成させていった。
東北の「エミシ」と北海道の「アイヌ」は、対立する別々の民族ではなく、歴史の荒波の中で異なる道を選んだ「兄弟」であった。
東北の山河に残るアイヌ語の響きや、東北地方の素朴で力強い伝統芸能の中には、今もなお北の大地と響き合う縄文の記憶が確かに息づいているのである。



