イギリスとイスラム 「多文化共生」という幻想の終焉

イギリスの現実と日本の滑稽な周回遅れ

「多様性を認め合い、手を取り合って共に生きよう」――耳にタコができるほど聞かされた美しいスローガンである。リベラルな知識人や政治家が好むこの耳当たりの良いお題目が、現実の社会でいかに無残な破綻を遂げているか。その最も鮮やかな実験場となったのが、かつて「太陽の沈まぬ帝国」を誇ったイギリスであり、いま急速にその轍を踏もうとしているのが我が日本である。
 

AIイメージ画像

 
現実を直視できないお花畑の理想論を排し、冷徹なリアリズムの視点から、この「不可能な共生」という名の喜劇を解剖してみたい。

 

かつての帝国を飲み込む「並行社会」

イギリスの現状は皮肉そのものである。19世紀から20世紀にかけ、大英帝国はインドや中東を植民地化し、「世界最大のイスラム帝国」として君臨した。当時の英国人は、自分たちが支配者として君臨し続けると信じて疑わなかったはずだ。

 

ところが戦後、労働力不足を補うために旧植民地から大量の移民を受け入れた結果、いまや国内のムスリム人口は約400万人、人口の6%を超えた。ロンドン市長をはじめ政財界の中枢にムスリムが就任する一方で、バーミンガムやブラッドフォードといった都市部では、完全にイギリス主流社会から切り離された「パラレル・ソサエティ(並行社会)」が出現している。

 

彼らはイギリスの法律よりもイスラム法(シャリーア)の規範を重んじ、コミュニティ内部で結婚し、独自の価値観で完結した生活を送る。イギリス人が何世代もかけて築き上げた「言論の自由」や「個人の権利」「ジェンダー平等」といった近代西洋の価値観は、彼らの絶対的な宗教規範の前では単なる「不道徳な異教徒のルール」に過ぎない。

 

「多文化主義」という美名のもとで放置された結果、生まれたのは豊かな文化の融合ではなく、互いに交わらず不信感を募らせる冷たい分断であった。耐えかねたイギリス世論がブレグジット(EU離脱)を選び、いま必死になってビザ発給の年収基準を引き上げ、移民の締め出しに躍起になっている姿は、かつての傲慢な帝国が見せる哀れな後始末と言うほかない。

 

なぜイスラムはこれほどまでに拡大するのか

世俗化した先進国の人間から見れば、「1日5回の礼拝に断食、酒も豚肉も禁止など、窮屈で敬遠されるに決まっている」と思えるかもしれない。だが、それこそが西欧的な傲慢と無理解の産物である。

 

イスラム教が世界で約19億人もの信徒を集め、今なお拡大を続けている最大の理由は、その「徹底した明快さ」と「強固な共同体性」にある。

 

キリスト教のように複雑な神学や原罪の概念に悩む必要はない。「神は唯一であり、ムハンマドはその使徒である」と唱え、決められた行動(五行)を実践すれば、神の前で誰もが完全に平等とされる。迷える人間に「何をすれば正しく生きられるか」という人生の取扱説明書を極めて具体的に提供してくれるのだ。

 

さらに、富める者が貧しい者を助ける喜捨(ザカート)の制度や、世界中の信徒が同じ方角を向いて祈る一体感は、個人主義と資本主義の競争に疲れ果て、孤独に苛まれる現代人にとって強力な精神の避難所となる。自由すぎて何を信じればいいか分からない近代社会よりも、厳格な枠組みの中で絶対的な帰属感を与えてくれる宗教の方が、人間にとってよほど居心地が良い。この身も蓋もない真実に、リベラリズムは敗北し続けているのである。

 

欧州の手詰まりと、周回遅れの日本

この圧倒的な求心力を持つ異文化集団を前に、ヨーロッパ各国はそれぞれ異なるアプローチで挑み、等しく壁にぶつかっている。

 

  • フランス: 「ライシテ(厳格な世俗主義)」を掲げ、学校でのスカーフ着用を禁じるなど徹底した「同化」を強要した結果、郊外(バンリュー)で怒れる移民2世・3世の暴動を招いた。
  • ドイツ: 経済のための労働力として受け入れつつ、難民急増に耐えかねて国境審査を復活させ、国内の極右政党の台頭を許している。
  • イギリス: 多文化の共存を試みた結果、社会の分断と治安の悪化を招き、国境管理の厳格化へと引き返した。
いずれの国も、「異なるコアな価値観を持つ集団を、一つの国家の中で円満に融和させることなど不可能だ」という苦い現実に直面している。
 

 

では、我が日本はどうだろうか。

 

欧州が数十年かけて壮大に失敗した実験結果を目の前に見せつけられているにもかかわらず、日本政府がやっていることは「育成就労」や「特定技能」の枠組みを拡大し、なし崩し的に外国人労働者――すなわち将来の定住者――を呼び込むことである。「移民政策ではない」と言い張りながら、実質的な移民受入のアクセルを踏み込むその姿は、滑稽を通り越して不気味ですらある。

 

ゴミ出しの分別や深夜の騒音といった生活レベルの摩擦ですら大騒ぎし、自治体の日本語教育支援や教育現場の多言語対応はすでにパンク寸前。それでいて、「外国人と心を通わせる多文化共生社会を」などと綺麗事を並べ立てているのだから恐れ入る。

 

「分かり合えない」から始める冷徹なリアリズム

文化や宗教の根幹が違いすぎる人間同士が、心から理解し合い、仲良く手を取り合って暮らすなどということは、歴史上ただの一度も成立したことがない幻想である。

 

「神の法」を至上とする人々と、「世俗の法律と個人の自由」を重んじる人々が同じ空間に暮らせば、絶対に譲れない価値観の衝突が起きるのは必然だ。どちらかが屈服するか、互いに激しく憎み合うかの二者択一しかない。

 

もし日本が欧州のような致命的な社会の分断を避けたいのであれば、まず「文化が違っても分かり合える」という甘ったれたお花畑思想を完全に捨てることだ。「根本的な価値観は絶対に相容れない」という冷徹な事実を出発点にしなければならない。

 

共生などという情緒的な夢を見るのはやめ、国家の法秩序、言語、暗黙のルールを100%受け入れること(郷に入っては郷に従うこと)を厳格に義務付け、それができない者には退去してもらうという冷徹なルールを敷くこと。それだけが、異なる文化を持つ者同士が破綻せずに同じ地面の上で息をするための、唯一の現実的な境界線なのである。

コメントを残す