徐福伝説と吉野ケ里
photo by Takemura
この伝説はあまりにも有名で、日本各地に伝説があり、各地が本家争いをしている。
秋田県、青森県、三重県、和歌山県、京都府、愛知県、山梨県、宮崎県、佐賀県、福岡県、鹿児島県
これだけの県に、神社や伝説があり「徐福の渡来」はただの伝説ではすまないようである。
また、この伝説は朝鮮にもある。
済州島における徐福渡来説
そして当の中国では徐福の渡来は「事実」であり、疑う者はほとんどいないようだ。
佐賀県には、吉野ヶ里という最高級の遺跡がある。そして、この場所にも徐福伝説が存在する。
徐福伝説
『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの、
「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。ウィキペディア
徐福が中国を出港したのは2回あると言われ、1回目は紀元前219年、2回めが紀元前210年とされている。これは事実なのである。
秦王国の理性的な学者である「徐福」が、本当に不老不死の薬を探しに行ったのだろうか。
どう考えてみても、秦王国を脱出したと見るべきだろう。
「若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つ」と記述にある。これが全て本当ではなくても、複数で他国への亡命を図ったと断言できる。
ここは重要だと思う。
夢のような薬を求めて旅立ったのか、複数の人達を伴って計画的に亡命を実行したのかで、徐福伝説のリアリティーが変わってくるからである。
私は計画的に亡命をしたと判断した。
そうすれば、秦王国に関係を持っていない国で、実際に船で行ける場所。それは日本というのが限りなく浮かび上がってくるのだ。
徐福の人物像
徐福が夢見る夢想家なのか、用意周到で計画的な人物なのかはわからない。
中国では「徐福村」の存在を明らかにしているが、日本からの観光客を狙った村おこしではないかとの指摘もあり全面的に信用は出来ない。
例えば、徐福は倭国の人間だったかもしれない。
縄文晩期、弥生時代早期には倭国では国という概念が薄かった。さらに倭国は海洋民族でもある。
倭人たちは人のあんまり住んでいない朝鮮半島を足がかりに、中国大陸に広がっていった可能性がある。
朝鮮半島に日本人のDNAが多く存在する事を考えれば、縄文時代から大陸で暮らす倭人達がいたと考えたほうが自然だ。
もし徐福が倭国出身の一族ならば、始皇帝の悪政から逃れるために、故郷の倭国目指して一族の動ける者たちを引き連れて日本へ旅立ったという推理も、当然可能である。
吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里の遺跡は、徐福の時代と重なる時代に存在していたと考えられている。
現在の吉野ヶ里丘陵は内陸になるが、縄文時代には縄文海進により近くまで海が存在していた。
その為紀元前4世紀頃には、自然発生的に定住するものが増え集落が出来上がったとされる。
写真を見ればわかるが吉野ヶ里遺跡は堅固に要塞化されている。
弥生時代前期に、これだけ堅固に柵をめぐらすという感覚が、倭人たちにあっただろうか。
弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)南の丘陵を一周する大きな外環壕が掘られます。首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も見られます。
集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。
吉野ケ里公園HP
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=2
倭国大乱(わこくたいらん)という記述が中国の複数の史書にある。
時期的に言えば弥生時代後期の2世紀後半である。
吉野ケ里公園HPの解説では紀元前2~紀元1世紀に大きな外環壕が作られたと書いている。
解説どおりだとすれば、紀元前2世紀から倭国大乱を終了させた邪馬台国の卑弥呼の時代まで300年以上も争いが続いたことになる。
しかし、それだけ長期間の戦闘が九州で行われていたとは考えられないし、その形跡も発見されていない。
倭国大乱が、もし100年続いていたとすれば、紀元前2世紀くらいから大きな外環壕を作る意味が不明である。
吉野ケ里が守りを固めた理由
なぜ吉野ケ里では紀元前2世紀くらいに、集落を守る必要があったのか。
そして、その仮想敵とはどこなのかという疑問が湧いてくる。
もし吉野ケ里遺跡に徐福が関係していれば、答えは簡単である。
仮想敵は秦の始皇帝なのだ。
万里の長城を完成させた始皇帝の力は徐福は当然理解している。
始皇帝なら、自分たちを追って日本まで攻め込むかもしれないと考えたのだろう。
そのために、外環壕をつくって万が一の敵襲に備えたのである。
徐福がどこにたどり着いたかは不明だが,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれている。
「平原広沢」は、「へいげんこうたく」と読み 「広い平野と、湿地」という意味だ。
諌早平野、佐賀平野、筑紫平野、熊本平野のいずれかが「広い平野」 湿地とは「干潟の有明海沿岸」
そう考えて何の不思議もないのだが・・。
この文章は2010年6月8日に書かれたものを2018年11月に、修正加筆したものです。
タイトルも徐福伝説と道教から徐福伝説と吉野ケ里に変更しました。
徐福が来てたならなんで日本には紀元前から漢字がないんや
コメントありがとうございます。そうですね。その考えも一理ありますね。しかし何故日本人は漢字を5世紀から6世紀まで使用しなかったのかという謎があります。卑弥呼の時代にはすでに中国大陸の王朝と関係があり、漢字の存在は知っていたのに、取り入れようとしなかったのはなにか理由があるのだと思います。現代の私達も英語の重要性は知っているのに、日本語が英語にならない理由と同じかもしれません。
徐福について
(※;徐福が、大船団を組んで九州倭国に来航したことを前提とします)
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〇「始皇帝」の援助で「徐福」が東海に船出した(紀元前219)時代の「倭国」状況。
(※;紀元前の時代の倭国内国々状況が分かりませんので魏志倭人伝で書かれた国々を参考にします)
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「斯馬国(伊万里湾を国内にする)」を盟主王とする韓半島体制の渡来人国が多数あり、「対馬国、壱岐国」、九州西北湾面に「斯馬国、末盧国、伊都国、奴国、末盧国」。そして、有明海北面の筑紫平野に面して複数国が在りました。
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そして、倭国内での渡来人盟主王は、「斯馬国」ですが、その上位に韓半島先端の「狗邪韓国」がありました。
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倭人体制の国々は、「佐世保湾、大村湾、橘湾」面の三ヶ国、「島原湾、有明海」面の熊本平野」内四ヶ国の計七ヶ国の盟主王が、「島原半島、経ヶ岳、長崎半島」を国内にする「弥奴国」が盟主王です。
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八代海内側に面した七ヵ国の盟主王が、天草上下島の「好古都国」です。
(※;盟主王国は、対面する陸地(国)との間に狭まれた水路を持っています)
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〇 上記倭国内に向かって、「始皇帝」の援助を受けた「徐福」船団が向かう訳ですが、、
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「始皇帝」からの援助内容が、童男童女3000人、五穀の種、百工等、そして、これらを載せる船と船員、護衛兵。
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これらの援助の元に「徐福」の最初の仕事が、韓半島先端で倭国内の渡来人体制を統率する「狗邪韓国」を占領することでした。
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しかし、一度目に失敗し、故郷に帰っているときに「始皇帝」から二度目の援助を得ての航海で成功し、「狗邪韓国王」を捕らえて倭国に同伴しました。
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「始皇帝」からの援助品と「狗邪韓国」の占領は、倭国も占領する計画であったと考えます。
(※;「狗邪韓国(後世の任那)」や対馬が倭国領になったのは、「狗邪韓国」を占領し「狗邪韓国王」を倭国に伴った「徐福」が倭国に定住したからです)
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大船団を率いた「徐福」が、倭国に着いて、常識であれば、九州西北部の港に入りますが、「徐福」船団は、九州島西側を南下し橘湾に向かいました。この航海中か橘湾に入ってか、元寇を襲ったと同じ自然災害に襲われました。
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海、船に不慣れな中国船団は、混乱の中で船を損傷し、兵士は、武具の重さで海に沈みました。
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助かった船団の人々は、倭人に助けられて、有明海北面で当時、湾の満潮時は有明海の奥湾となる筑紫平野面の渡来人体制国に預けられました。
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ここで、「徐福」に伴った民は、中国からの利器を使って、筑紫平野の水田化を進め、「徐福」は、倭国に同伴した「狗邪韓国王」の元に渡来人国を集結しました。
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そして、倭国内三ヵ国盟主王が組織した倭国統一三ヵ国王連合を拘束し「邪馬壱国」内に軟禁しました。そして、倭国内の倭王権を代行する体制を作りました。
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この体制が、「徐福」~「卑弥呼」へと継承し、紀元前の時代から「卑弥呼」が死ぬ西暦248年まで続くことになります。
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〇 「徐福~卑弥呼」に対する日本歴史記録名? … ”次に国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成せる神の名”と大層な前書きによって書かれた … 宇摩志阿斯華備比古遅神。
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倭人伝文中の「卑弥呼」の母国「邪馬壱国(筑紫平野)」に四人の官がいます。三官は、歴代の倭国統一三ヵ国盟主王です。
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官;伊支馬(弥奴国) … 島原半島、経ヶ岳、長崎半島を領有。
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官;彌馬升(斯馬国) … 伊万里湾、九十九島地区面領土を領有。
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官;彌馬獲支(好古都国王) … 天草上下島。
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〇 古事記文「天地の初発の時」として書かれた神も三柱です。
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。
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〇 残りの官;「奴佳鞮」は、「徐福」が「狗邪韓国」から連れてきた「狗邪韓国王」の子孫です。
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〇 日本国内には、「徐福」上陸地が多数ありますが、
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魏志倭人伝文中の「投馬国(緑川で囲まれた内側で宇土半島を国内にする)」の官「弥弥(狗奴国王)、弥弥那利(倭国統一三盟主王)」が連合して「卑弥呼」体制を攻撃制圧し「卑弥呼」を死亡させます。
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(※;「倭女王・卑弥呼」の倭国と戦争中の「狗奴国」体制は、「卑弥呼」の母国「邪馬壱国」を占領し、倭国統一三ヵ国盟主王を収容して同盟を結び、「官;弥弥、副官;弥弥那利」として「投馬国」に駐屯する)
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その後、「邪馬壱国」同盟国を率いた「壱与」は、「弥弥、弥弥那利」体制と共に日本統一に向かい、各地に領土を確保して「徐福」伝承を残したと考えます。