異説か真実か!誰も触れなかった真の長崎の姿を検証する。NO,9
「おお、神宮寺が燃えている。」
神宮寺は、推古天皇5年(597)に百済から来朝した淋聖太子が妙見尊皇(北斗星)修法道場としたのを、 弘仁年中(810~823)、嵯峨天皇の勅願で寺が建立され、長崎はその寺領となった。
今の諏訪神社、諏訪公園、知事公舎、桜馬場中学校を含む広大なものであった。
長崎の神社仏閣を調べてみると、創立がほとんどが1600年以降となっているのに気がつくであろう。
これは、長崎の歴史で起こった、キリシタンによる神社仏閣の大々的な焼き打ち事件のせいである。
御存じのとおり、長崎は、1571年、ポルトガル等の貿易のため開港された。
そして、権力者秀吉による1587キリシタン禁止令が出されている。
その後、徳川幕府による本格的なキリシタン教禁止令が発せられた。
(1613)この年以降、長崎を中心に殉教の嵐が吹き荒れた。
キリシタンの話はさまざまな本に詳しく書かれているので、ここでは詳細を省くが、この時期では、長崎の神社仏閣いわいるキリシタンにとっての異教徒の迫害が、頻繁に起こっていたのだ。
それにより重要な寺院などは焼き打ちされ、壊されていった。
この時期に、日本でも珍しい宗教戦争が行われたのである。
長崎の神社や仏寺が、外国の神の教徒に焼き打ちされるのを日本の宗教家が指をくわえてみてるとは思えない。
日本に、ヨーロッパのエッセンスを持つキリシタンが、命さえ神に捧げた宣教師たちの決死の努力で徐々にではあるが広まりつつあった。
織田信長は、宗教というものより、ヨーロッパの風を受ける事が、商業の発展に多大なる影響を受ける事を知りつくしており、寛容な態度を見せる。
ただヨーロッパの使者達は宗教だけを持ち込んだのではなかった。
その動物的な行動様式までもが、一緒に流れ込んだのだ。
ポルトガル人の一部が日本女性を奴隷としてインドに輸出している事などが公になったり、キリシタンになった日本人信徒が、神社仏閣を破壊し僧侶を迫害し始めた。
記録に残っている焼き打ちの事実を挙げてみよう。
正覚寺 真宗 1607年放火により全焼 深崇寺 浄土真宗 キリシタン宗徒の迫害により廃字に追い込まれる
斉道寺 天台宗 最盛期は支院36坊があったが、 すべてキリシタンのために全滅した。
神宮寺 天台宗 支院30坊余がすべて破壊される。
鎮道寺 天台宗 破壊される。 神通寺 真言宗 1574年破壊される。
万福寺 神宮寺の末寺を破壊される。
伊勢宮神社 破壊される。
渕神社 神宮寺の末寺を破壊される。
桜馬場天満宮 何度か破壊される。
簡単に調べただけでもこれだけある。
長崎の地は、デウスの神を叫ぶ異教徒たちによる破壊の嵐が吹き荒れていた。
僧侶、神主たちは、戦々恐々とし、出歩くのをためらわれるほどであった。
其の国郡の者を近付け門徒になし、神社仏閣を打破らせ前代未聞に候。 国郡在所知行等給人に下され候儀は当座の事に候。
松浦家文書
宗教はすべからく爆発的な力を持っている。
長崎におけるキリスト教の悲劇は、信徒ではなくその指導者達にあると思われる。
長崎の支配者大村純忠は長崎をキリシタンの町へ変えていった。
その結果様々な場所のキリシタン達が長崎市内に流れ込んだが、流れてきたのは信者達ばかりではなかった。
九州の戦乱を逃れた武士達や無頼の徒、無宿人達も大勢長崎を目指した集まってきたのだ。
1571年の開港当時 1500人ほどといわれた長崎の人口は1681年には5万3000人という人口に膨れ上がっていた。
そういう一種の混乱期の中で、神社仏閣の焼き討ちなどが多発したのはパニック状態 のなせる技であったのだろう。
その後国策の変化で、キリシタン禁教が試行された。
この後の悲劇はみなさんのご存じの通りである。
ただ神社仏閣の焼き討ち事件が、日本人のこれまでの宗教観からかけ離れていたことは、とうぜんで、それ故に日本教徒呼ばれている、神仏混合のあいまいな宗教観からするとキリスト教の恐怖がわき上がったのも理解できるのだ。
長崎に起こった「宗教戦争」は確かにあった。
だが残念ながら、これを知らない人は多い。
なぜ知らないのだろうか。
僕はその事が不思議である。
著 竹村倉二
■新長崎伝説 長崎のミニコミ月刊誌「ながさきプレス」連載の短編