ありふれた青春 バタフライエフェクト
【あらすじ】
よくある青春の恋愛が時代を経て再び成就する。その成熟したはずの恋愛は突然予期しない方向に流れ出した・・・
昭和30年代。敗戦から立ち直ろうとする日本は、不思議な熱気と勢いを帯びていた。
東京オリンピックの開催により各家庭に白黒テレビが普及し始め、明るい未来への予感が芽生えていた。誰もが豊かさを追い求めて少しずつ前進している、そんな時代だった。
フォークソング、反戦運動、ビートルズ、ヒッピー。さまざまなキーワードに飛びつき、振り回されながら少年は青年になり、九州の西の果てから誰もが憧れた東京の大学に進学した。
周りも貧乏な奴ばかりで、新聞販売店に住み込みで通う先輩や、バイトだけで生活費と学費を稼ぎ授業に出てこない同級生もいた。
時代の寵児だった女性タレントのグラビアを撮るカメラマンという職業に憧れを抱き、本格的にプロを目指したのは大学卒業間近の夏の事だ。
1970年代のオイルショックによる経済混乱から、大学の新卒者は就職難に見舞われた。自由に大学生活を満喫していた若者たちも髪を切りヒゲを剃って、就職活動用のスーツを着込んだ。
そんな同級生たちを横目に、彼は長髪にTシャツ姿のまま、先輩の紹介で写真スタジオのアシスタントになった。
高卒でアシスタントになる人がほとんどで、大卒者は珍しかった。毎日が掃除と荷物運びとロケバスの運転。給料は極端に少なく、生きていくだけでぎりぎりの生活。
先の見えない焦燥と自分の才能のなさ——不安と苦悩の間を往復する日々が始まった。
俊之、25歳の夏だった。
父親はピアニスト、母親は声楽家という芸術一家の一人娘。
3歳からピアノ、バイオリン、クラシックバレエと稽古場と学校しか知らない少女だった。高校生の時、親に内緒で行った映画館。
そこで見たリバイバル上映の『ウエスト・サイド物語』に心を揺さぶられた。そんなどこにでもいるような少女の憧れを抱き、彼女は成長していった。
地元東京の音楽大学に進学。
だが、いくつものクラシックピアノコンクールに出場しては入賞を逃し、不振の時期を迎えていた。
不安といらだちから、初めて両親に反抗する。長くきれいな髪を振り乱して泣き叫び、父親にメトロノームを投げつけた。
その日は自分の部屋に閉じこもり、一晩中ベッドに顔を埋めて泣き明かす。
困惑した母親はドアの外で泣き崩れ、共に一晩を過ごした。翌朝、二階の部屋の窓が開いたままになっていた。
小さなスーツケースをひとつ手にして家を出た娘は、渋谷駅のホームにいた。
愛子、22歳の夏だった。
ありふれた出会い
俊之が愛子と初めて出会ったのは、師事するカメラマンに連れられて入ったジャズの流れる小さな酒場だった。
狭いステージの奥で、長い髪と小柄で細身の体を大きくしならせながら、ジャズ酒場では珍しい「リベルタンゴ」を奏でている女性がいた。
リズミカルで哀愁を帯びた切ないメロディーに、俊之の心は激しく揺さぶられた。
思わず舞台に近づき、いつも持ち歩いているカメラで彼女を撮影した。
シャッター音に気づき、顔を上げて俊之を見る。
俊之と愛子の視線が、初めて交わされた瞬間だった。
俊之はわずかな生活費を何とか工面し、一杯分の酒代をジーンズのポケットに突っ込んで、一人でその店に通うようになった。
気軽に女性に声をかけるタイプではない俊之は、カウンターの隅でピアノを弾く愛子をじっと見つめるだけだった。
高校時代に初恋はあったが、それは淡く消えていった。
大学時代にも何人かの女性と付き合ったが、田舎育ちで無骨な俊之の純情さは、結果として自ら女性を遠ざけてしまっていた。
これほど積極的な気持ちになったのは、初めてのことだった。
愛子は週3回、アルバイトとしてその酒場でピアノを弾いている。
1ステージ千円という時代。それでも生活の足しにはなった。
両親とは連絡を絶ち、小さなアパートでの一人暮らし。友人とジャズバンドを組み、メジャーデビューを夢見る日々を送っている。
もちろん演奏だけで食べていけるはずもなく、普段はピアノ教室の講師をメインにしていた。
音楽教室側は彼女の本格的なクラシックの才能と、性格の良さや美貌に目をつけ、何度も正社員として勧誘したが、芯の強い愛子は頑なに拒み続けていた。
音大時代に男性経験はあったものの、彼女の美貌や体目当てで寄ってくる男ばかりで、軽々と心を開くことはなかった。
そんな愛子も、時折店にやってくるジーンズとTシャツ姿の俊之の存在には気づいていた。
いきなり写真を撮ってきた青年であることに間違いはない。しかしそれ以降、一度も話しかけてくることはなく、短時間カウンターに座っているだけだった。
カメラを構えたときの、あの情熱的で澄んだ瞳が忘れられない。
これまで寄ってきた強引な男たちとは違う、不器用な誠実さを秘めていることがよく分かった。
ありふれた恋
ある日、俊之は一機の写真パネルを大切そうに抱えて酒場に現れた。
愛子の演奏が終わり、帰ろうと店を出たとき、俊之は彼女の前に立ちふさがった。
無言のまま、半切サイズの白黒写真のパネルを差し出す。愛子がピアノを弾いている瞬間のカットだった。
愛子は警戒して後ずさる。
俊之は「あの時は失礼しました。写真をパネルにしたんです。受け取ってください」と一言、懸命な口調でつぶやくと、パネルを愛子に押しつけるようにして走り去った。
愛子はそのパネルを見つめた。白黒の豊かなグラデーションを持った美しい写真だった。愛子は写真が好きで、写真家を目指す友人もいた。彼らから感想を求められると素直に答え、その見立ては常に的確だった。
俊之の写真は技巧に走らず、素直で嫌みがない。
音楽家に例えるなら、ベートーヴェンのようなスケールの大きさと繊細さを兼ね備えていた。
写真に心を動かされた愛子は、思わず俊之の後を追った。
渋谷駅の前で、愛子は彼をようやく見つける。
小走りに寄っていき、声をかけた。それが、二人の恋の始まりだった。
それから3ヶ月後、二人は同棲を始める。
古いアパートでの4畳半の生活は、ごっこ遊びのようでもあり、肩を寄せ合って暮らす兄妹のようにも見えた。
俊之はこれほどまでに人を愛せる自分に驚き、愛子は初めてできた恋人に身も心も捧げた。
二人のデートは、もっぱら近くの公園だった。
愛子がおにぎりを作り、二人で散歩をする。昼時には水筒のお茶とおにぎりを頬張った。愛子の健気で賢い人柄を、俊之は心から信頼していた。
俊之は時折、空にカメラを向ける。何をしているのかと尋ねると「雲を撮っているんだ」と答えた。何気ない自然の輝きを切り取ろうとする俊之の優しさに、愛子は満ち足りた気持ちになった。
互いの不安をなぐさめ合い、励まし合う日々が2年ほど続いた。
ありふれた成功
そんな二人に転機が訪れる。愛子のジャズピアノが口コミで話題となり、メジャーレーベルから声がかかったのだ。
愛子は喜んだが、それ以上に俊之が歓喜した。愛子のピアノの実力を誰よりも理解していたからこそ、世間に認められる日を心待ちにしていたのだ。
その夜、小さなテーブルに向かい合い、缶ビールで乾杯を交わした。
幸せの予感に、二人とも涙ぐむほど感動していた。
愛子の華奢な肩を抱きしめ、唇を重ねる。愛子の白い肌と張りのある胸、くびれた腰はどんな女性よりも愛おしく、何度抱きしめても飽きることはなかった。
俊之の引き締まった体は愛子を求め続け、二人は明け方まで愛を確かめ合った。
愛子のデビュー以降、話はトントン拍子に進んだ。CDは好評で仕事の幅はどんどん広がっていく。俊之は誰よりも率先して応援し、身の回りの雑用をすべて引き受けた。
愛子の成功は加速し、全国ツアーや海外公演まで企画されるようになる。
住まいも古い4畳半から、広々とした3LDKのマンションに変わった。メディア露出が増えた愛子の衣装は瞬く間に増え、彼女は眩しいほど美しくなっていった。
そんな愛子を、俊之はどこか眩しそうに見つめる日が増えていった。
仕事が多忙を極めると、愛子のいない夜が増えた。一人で過ごすには広すぎる3LDK。
調度品はすべて愛子の趣味で揃えられ、洗練されてモダンだった。
深夜、ラジオに耳を傾けながら、俊之は自分の唯一の持ち物であるカメラを手入れする。3本のレンズとボディを丹念に拭き上げていく。
不意に涙が溢れ出し、レンズの上にポトリと落ちた。
ハッと気づき、急いでシリコンクロスで拭き取る。悲しみや寂しさの涙ではない。
九州男児としての気質を持つ俊之は、自分の情けなさに涙が出たのだ。努力は人一倍し続けている。
アシスタント仲間の中には独立していく者がちらほら現れ、成功の話題も耳に入るようになった。
しかし、今の自分には独立の兆しすらなく、将来はまったく見えてこない。自分一人で暮らしているならまだしも、共に暮らす愛子は華々しい成功の道を歩み、生活費のほとんどを彼女が支払っている。
愛子は時折暗い顔をする俊之を気遣い、人一倍明るく振る舞った。だが、その気遣いすらも俊之の心を深く沈ませる原因になっていった。
ありふれた別れ
ある日、週刊誌に愛子と業界有名人との恋愛スキャンダルが掲載された。ほとんどがデタラメの、悪意に満ちた記事だった。
愛子は「バカバカしい」と笑い飛ばした。
当然、俊之も愛子を疑ったことなど一度もない。しかしこの件をきっかけに、俊之は愛子が置かれている世界と彼女の可能性に改めて気づかされたのだった。
うだつの上がらない自分よりも、愛子を真に幸せにできる男がいるのではないか。どれほど愛していても、何ひとつ与えてやることができない自分に、猛烈な嫌気がさしてきたのだ。
秋の気配が漂う9月。
愛子の誕生日に、俊之は彼女の好きなケーキを用意していた。「仕事で遅くなる」と言っていた愛子が、夜10時過ぎに帰宅する。
連日のコンサートで疲労困憊だったが、俊之と誕生日を祝いたい愛子は周囲の誘いをすべて断り、マンションに辿り着いたのだ。二人きりのささやかなお祝いだったが、微笑み合いながら乾杯した。
乾杯を終え、俊之は作っておいた料理を取りにキッチンへ向かう。両手にオードブルを抱えて戻ると、愛子はテーブルにうつ伏せになったまま眠りに落ちていた。
限界まで働き詰めていたのだ。美しい顔にはうっすらとやつれが見えた。
そっと抱きかかえてベッドへ運び、眠らせる。そのまま愛子の寝顔を見つめていた。これほど疲れ果てるまで働いている彼女が愛おしくてたまらず、それでも自分のもとへ帰ってきてくれた健気さに胸が締め付けられた。
そして、そんな愛子に金銭的な貢献は一切できず、ただ食事を作って待っているだけの己の存在。
——普通の家庭なら、逆であるはずだ。
心がそう叫んでいた。自責の念が頂点に達した瞬間だった。
俊之は一通の手紙をテーブルの上に置き、カメラバッグだけを手に黙ってマンションをあとにした。
愛だけでは生きていけない。俊之は、どこまでも愚直な男だった。
翌朝、目を覚ました愛子は手紙を読んで涙を流した。
しかし、誰よりも俊之を理解していた愛子は、彼の苦悩と矜持を痛いほど分かっていた。一日中泣き明かした後、彼女は静かに手紙をテーブルに置いた。
このまま一緒に暮らせば、俊之の心をますます追い詰めてしまう。一番大切な人を愛すれば愛するほど傷つけてしまうという矛盾が、あまりにも切なかった。
愛子の聡明さは、お互いに別の道を歩むべきだという苦渋の決断を下させた。
俊之の人生
マンションを飛び出した俊之に、あてなど何もなかった。
敗北感に打ちひしがれたまま日本に留まりたくはなかった。いつか必ず成功し、胸を張って愛子の前に立ちたかった。
手持ちの金をかき集め、単身アメリカへ渡った俊之は、生きるためにどんな仕事でもこなした。
やがてある三流タブロイド紙の犯罪告発企画に参加し、持ち前の運動神経と恐れを知らない度胸でみごとスクープ写真を連発する。
ニューヨーク・タイムズ誌に「忍者カメラマン」として特集記事が掲載されたのは、渡米して1年後のことだった。
愛子のことを忘れた日など一度もなかったが、成功への執念の方が勝っていた。
日本で輝きを増す愛子にふさわしい地位を得るまでは、帰国する気になれなかったのだ。
俊之はさらに危険で過激な現場を好んで選ぶようになった。かつて空の雲を穏やかに撮り続けていた男とは、まるで別人だった。
優しさよりも、今は強さが欲しかった。それもまた、俊之なりの生きる術だった。
それから3年後、カメラマンとして一定の知名度を得た頃、俊之は日本で愛子が結婚したというニュースを知る。
衝撃と絶望が俊之を襲った。
酒に溺れ、麻薬にまで手を出した。ボロボロになっていく彼に手を差し伸べたのは、仕事仲間である日系アメリカ人の女性だった。愛子にどこか面影の似た彼女に支えられ、俊之は1年後にようやく現場へ復帰する。そして、アメリカに永住することを決意した。
その後、自然写真のドキュメンタリー分野で頭角を現した。日本的な美意識を前面に出した心象風景の写真集を発表し、数々の賞を受賞。
カメラマンとしてのキャリアは絶頂期を迎えていた。
しかし、最初の結婚は破綻し、莫大な慰謝料の支払いで彼は無一文になってしまう。
それでも、しぶとくアメリカで生き延びてきた。
ある日、街の中古CDショップで、愛子のアルバムを見かける。
20年前に発売され、すでに廃盤となった一枚だった。ジャケットに映る愛子の笑顔を見た瞬間、俊之の心は激しく動揺した。
自身の結婚が失敗に終わったのも、根底には愛子への断ち切れない慕情があったからだと痛感した。突如として抑えきれない望郷の念が湧き上がり、その1週間後、俊之はアメリカでの生活をすべて清算して日本へ戻る決意をした。
俊之、55歳の初冬のことだった。
愛子の人生
長い年月が流れた。日本は高度経済成長の夢から覚め、政権も変わり、新しい時代を模索していた。
俊之は一人、東京にいた。実に32年ぶりの母国だった。冷たい冬の風が、白髪の混じる俊之の長髪を揺らしている。
激変した街並みに驚きながらも、俊之は渋谷へ向かっていた。
真っ先に行きたかったのは、愛子と出会ったあの酒場だった。それ以外の計画は何もなかった。
変わり果てた渋谷の街に戸惑いながら、かつての場所を目指す。奇跡的に、その酒場はまだ存在していた。
何度も改装を重ねたのだろう、少し雰囲気の変わった店内へ足を踏み入れる。早い時間だったため、客はまばらだった。
ステージにはピアノが置かれていたが、誰も弾いていない。俊之はカウンターに腰掛け、バーボンのロックを注文した。
もしかしたら愛子に会えるかもしれない——そんな夢のような淡い期待を抱いていた自分がおかしくなった。
しかし、この場所を訪れたことで気持ちにひと区切りがついた。俊之の頭の中に、ようやく今後の人生のイメージが湧いてきたのだ。
九州の実家へ戻り、穏やかに暮らそう。
バーボンを飲み干し、席を立とうとしたその時、背後からピアノの音色が聞こえてきた。
「リベルタンゴ」だった。思わず振り返ってステージを見る。
一人の女性が鍵盤に向かっていた。長い黒髪に、黒で統一された衣装。ふと顔を上げたその演奏者は——愛子だった。
俊之と愛子は、再び視線を交わした。
愛子は俊之が去った後、胸の穴を埋めるかのように凄まじい勢いで音楽活動に没頭した。ヒット曲を連発し、華々しい一時代を築く。
やがて、共演していたミュージシャンとの熱愛・結婚の噂が浮上した。ゴシップ誌は先走って「結婚」の文字を紙面に躍らせる。
相手の男は売名のために一方的に結婚をほのめかしていた。
俊之を待ち続けると決めていた愛子は深く困惑し、騒音から逃れるように一時休業を宣言する。
メディアはやがて愛子に飽き、訂正記事を出すこともなく次の標的へと移っていった。
騒動が落ち着き胸をなでおろしていた愛子のもとに、アメリカで俊之が結婚したという報せが友人経由で届く。
(後から知ったことだが、「愛子結婚」という誤ったゴシップ記事が先にアメリカまで流れていたのだった)
衝撃を受けた愛子はショックのあまり引退を決意する。
傷ついた彼女を献身的に支えたのが、所属事務所の社長だった。
その誠実さに心を動かされた愛子は1年後に持ち直し、彼と結婚して男の子を一人授かった。幸せな家庭生活が続くかに思えたが、夫と新人歌手との不倫が発覚し、5年後に離婚。
一人息子を引き取り暮らしていたが、その息子も小学3年生の時に交通事故で先立たれてしまう。
さらに友人企業の連帯保証人になっていたため、多額の負債まで背負うこととなった。
多額の借金を何年もかけて完済した愛子は、静かに芸能界を去った。
その頃には、彼女の引退を記事にするメディアはどこにもなかった。誰引き留められることもなく、彼女は静かに表舞台から消えていったのだった。
ありふれた再会
渋谷の酒場で再びピアノを弾き始めたのは、1年前のことだ。
そこは自身の原点であり、俊之と出会った大切な場所だったからだ。
俊之への思いが消えたわけではないが、奇跡的な再会を期待していたわけでもなかった。あまりに長い時間が過ぎ去っていたし、かつての若さと美貌は失われていたからだ。
ただ、運命に導かれるように店を訪れた際、代代わりして店長となっていた先代の息子と昔話に花が咲き、不定期で鍵盤に向かうことになったのだった。
目が合った。二人とも、凍りついたように動けなくなる。
ピアノの上に置かれた指が止まり、不協和音の余韻が店内に広がった。
数人の客が不審そうにステージを振り返る。愛子は立ち上がり、俊之の方へ歩み寄った。俊之も引き寄せられるように歩み出る。
気をきかせた店長が店内にレコードの曲を流すと、いつもの落ち着いた空気が戻り、客たちも何事もなかったかのように雑談を再開した。
「愛子……久しぶり」
ようやく、それだけの言葉が出た。
「俊之さん。ごめんなさい、私……すっかりおばあちゃんになっちゃった」
自嘲気味に笑うその表情は、昔のままだった。
「俺だって、すっかりおじさんだよ」
それが、32年ぶりの再会の言葉だった。
それから二人は店で酒を酌み交わし、愛子のマンションへ向かった。
これまでの身の上を語り合い、行き違いから遠回りしてしまった運命に涙を流し、深く抱き合なった。
こうして二人は、再び共に暮らすことになった。
俊之は昔の知人を頼って小さな出版社を紹介してもらい、フリーのカメラマンとして働き始めた。
愛子はピアノ教室のパート講師になり、時にあの酒場でピアノを奏でる生活をスタートさせた。
2DKの小さなマンションでの暮らしは質素そのものだったが、二人は確かな平穏を手に入れていた。
毎週金曜日には駅で待ち合わせをし、ファミリーレストランで食事をするのが習慣だった。
外食の帰り道、マンションの近くにある小さな稲荷神社へ立ち寄る。愛子は決まって5円玉を賽銭箱へ投げ入れ、静かに手を合わせた。
「このお稲荷さん、縁結びのご利益があるのよ。あなたと再会してからずっと手を合わせているの。『このご縁が、どうか壊れませんように』って」
俊之はそんな愛子を愛おしく見守り、自らも深く頭を下げた。
その夜も、二人は抱き合った。
失われた年月を埋めるかのように、俊之は愛子を愛おしむ。満ち足りた時間だった。
しかし愛子は時折、鏡に全身を映して寂しそうにつぶやくのだった。
「昔に戻りたいな。あの頃の、きらきら輝いていた体に戻りたい。そうしたら、俊之さんはもっと喜んでくれるでしょう?」
無邪気に甘える愛子に、俊之は微笑んだ。
「俺だって、こんな緩んだ体になって情けないよ」
そんな他愛のないやり取りも、明かりを消せば闇に溶けていく。二人でこうして寄り添えているだけで、十分に幸せだったからだ。
バタフライエフェクト
冬が過ぎ、温かな春の日差しが小さなマンションを包み込んでいく。
二人は静かで穏やかな日々を重ねていた。金曜日に外食をし、帰りに稲荷神社へ参拝する。
愛子がいつものように5円玉を投げ入れ、パンパンと手を打つと、祠の奥から「コン」と狐の鳴き声のような音が響いた。
愛子は目を丸くした。
「今、祠の中から声が聞こえたわ!」
「いやあ、俺には聞こえなかったけどな。でも、愛子の願いを聞き届けてくれたのかもしれないね」
「本当? そうだったら嬉しいな」
愛子は無邪気に華やいだ。マンションに戻ると、いつものように寄り添ってベッドに入った。
愛子は俊之の胸に顔を埋め、少女のように安らかな寝息を立てた。
……はるか遠い、異なる次元の未来。
地球連邦の「時間歴史学」研究チームから、天文省へ報告書が提出されていた。西暦2000年代に「アルファ次元」で大規模な時間乱気流が発生していたという解析結果である。
この時代の科学は、時間をある程度解明していた。時間は相対的であり、特定の空間と絶対的に結びついているわけではない。無数の時間の流れが空間と同期しながら並列存在しているのだ。
時間は大河の流れに似ている。障害物や異次元からの干渉を受けると部分的な渦を生み、時間の逆流や歪みを発生させる。
時間歴史学者たちは、別次元に残された時空の揺らぎの痕跡を丹念に調べていた。
「ふむ……アルファ次元のこの時期、大規模な核戦争が起きたと見える。その破滅的なエネルギーが複数の次元にまで波及したのだな。
一時的に空間と時間が乖離したのだろう。並行存在する次元群では、時間の乱れによって人間や物質に何らかの変容が生じたはずだ。
ミクロな変化ゆえ大事件には至らなかったようだが……他次元には様々なバタフライ効果をもたらしたに違いない」
老科学者はそう呟くと、再び思索の海へと戻っていった。
日曜日。二人は目を覚ました。だが、何かが決定的に違っていた。
愛子は自分の顔を触り、腕や足を確かめる。裸のまま浴室へ走り、鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、50代の自分ではなく、瑞々しい20代の肉体だった。胸は張りを取り戻し、肌にはシミひとつない。急いで部屋へ戻る。
ベッドには、同じく20代の引き締まった体躯を取り戻した俊之が眠っていた。
俊之は愛子に強く揺さぶられて目を覚まし、彼女の姿を見て絶句した。
かつての、あの頃の愛子がそこに立っていたからだ。
若返り
二人は顔を見合わせながら朝食をとっていた。
あまりに非現実的な出来事に戸ウロタエるばかりだったが、「ひとまずお腹を満たそう」ということになったのだ。
奇妙なことに、二人とも猛烈な空腹を感じていた。トースト4枚、卵3個分の目玉焼き、サラダ、そしてトマトジュース2杯。
貪るように平らげ、ようやく一息つくと俊之が切り出した。
「本当に……若返っているんだな。朝からこんなに食べられたのは何年ぶりだろう」
「私もよ。こんなに食べたのに、お腹が出ていないの。最近は少し食べただけで胃が重くなっていたのに」
「奇跡……としか言いようがないな。一体何が起きたんだ?」
「きっと、お稲荷様が願いを叶えてくださったのよ」
「なんて祈ったんだ?」
「『若く美しくなれますように』って」
「ハハハ、愛子らしいな。でも、現実にこうなっている以上、否定はできないな」
二人はお茶を飲みながら、これからのことを話し合った。
俊之も愛子も、根は理性的で聡明な人間である。この不可解な現象の原因は分からず、一時的な幻覚かもしれないし、死に至る前兆の病かもしれないという不安も拭えなかった。
ネットでどれほど検索しても、人間が突然若返ったなどという事例はどこにも見当たらなかった。
議論を重ねても結論は出ない。
病院へ行くことも考えたが、珍しい実験台にされるのは嫌だった。
「当面は、この部屋で様子を見よう」ということになった。
しかし、1週間が経過しても二人の若い肉体は維持されたままだった。
流石にそのまま職場へ通うわけにもいかず、電話でしかるべき理由を告げて仕事を辞めた。
昼間の外出は避け、マンションにこもりきりの生活を送る。食料の調達は夜間にコンビニで済ませた。
それ以外の時間は、ただ互いを抱きしめ合って過ごした。何しろ20代の体力が漲っているのだ。精力は枯れず、何より愛子はため息が出るほど美しかった。俊之は愛おしさに任せて幾度も彼女を抱いた。
だが、愛欲だけに溺れて生きていくことはできない。二人は心機一転、新しい街へ引っ越すことにした。
心身ともに若返った二人は、新たな仕事を探し始める。俊之の外見は20代だが、中身には長年培った技術と知識がある。評判は瞬く間に広がり、フリーカメラマンとしての依頼が舞い込むようになった。
愛子もまた、卓越した演奏技術と眩いほどの美貌を備えていた。街を歩けば芸能スカウトが次々と声をかけてくるほどだった。
彼女は自分の過去を知らない小さな音楽事務所の扉を叩いた。社長は愛子の演奏と容姿を見るや否や、感極まった様子で専属契約を求めてきた。
しかし、二人ともかつての失敗を学んでいた。慎重に行動し、目立ちすぎないよう仕事を調整しながら、静かな生活を第一に優先した。そんな控えめで平和な暮らしを、二人は守ろうとしていた。
別れ
だが、周囲の人間たちは彼らの控えめな姿勢を「謙虚すぎる」と捉え、盛んに野心を煽り立てた。
1年も経つと、自分たちが本当は50代であることすら忘れかける瞬間が増えていった。
俊之の中には「もう一度、現役に復帰して世界で活躍したい」という野心が再び首をもたげ始めた。
愛子もまた、周囲からの絶賛に後押しされ、再び表舞台で脚光を浴びたいという衝動を抑えきれなくなっていた。
多忙になるにつれ、二人のすれ違いは日に日に増していった。
「俺たちは昔、一度別れた。それが間違いだったと分かっているはずだ」
「そうね。見た目は若くても苦労を重ねてきたんだもの。同じ過ちは犯さないわ」
そう自分に言い聞かせながら暮らしていたが、「若さ」という魔物は、彼らの精神を着実に侵食していった。
みなぎる肉体の活力が、新たな冒険と刺激を渇望してしまうのだ。
やがて、溜め込んだ感情をぶつけ合う日がやってきた。
二人は同時に、同じ言葉を口にしていた。
「……お互い、少し距離を置いた方がいいのかもしれない」
皮肉にも、導き出した結論まで完全に一致していた。
近代の心理学や脳科学では、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる」という説がある。
笑うから楽しくなり、若返ったからこそ無鉄砲になる。
肉体が精神を支配する——それが抗いようのない現実だった。
その瞬間、世界の時間が停止したかのような錯覚に襲われた。
俊之が無言で荷物をまとめ始める。黙々と身支度を整え、ドアを開けた。愛子は座り込んだまま、動くことができない。
俊之はマンションをあとにし、駅に向かって歩き出した。
止まっていた時間が、猛烈な勢いで動き始める。
二人の心が離れた瞬間、奇跡によって引き延ばされていた体内時計が、本来の「50代の肉体」へと急激に巻き戻ろうとしたのだ。
神の魔法が無効化されていく。
歩き始めて10分ほど経った頃、俊之は凄まじい疲労感に襲われた。
軽く感じていた手荷物が、鉛のように重くのしかかる。
体がみるみるしぼんでいく感覚。近くに停められたバイクのバックミラーを覗き込むと、そこに20代の俊之はいなかった。かつてのしわと白髪が戻り始めている。
激しい眩暈が差した。若返っていた脳が一気に元の年齢へと引き戻され、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡る。
フラフラになりながら信号を渡りきり、背後に強い視線を感じて振り返った。
横断歩道の向こう側に、愛子が立っていた。俊之を追ってきたのだ。
胡蝶の夢
視線が交差する。
お互いに、50代の中年の姿に戻っていた。
二人が再び幸せを掴むために与えられた「若さ」という魔法。だが、二人が絆を手放そうとした瞬間、その奇跡は潰え去ったのだ。急激に元に戻っていく肉体の痛みが、二人を苛んでいた。
しかし、身体の痛み以上に、激しい後悔が二人の心を支配していた。
——また、同じ過ちを繰り返そうとしてしまった。
——二度と離れないと誓ったはずなのに。
横断歩道を渡り切った俊之は、必死で愛子を見つめた。愛子の想いも同じだった。
急速に老いていく脳は、周囲の状況を正しく認識できていなかった。愛子は俊之のもとへ駆け寄ろうと、赤信号に変わった横断歩道へふらふらと足を踏み出してしまう。
その時、大型トラックが激しいクラクションとともに愛子へ突っ込んできた。
鼓膜を刺すタイヤの摩擦音。愛子の視界が真っ暗に染まった。
……トラックは、愛子のわずか手前で停車していた。
「おいおばさん! 死にたいのか、危ないじゃないか!」
運転手がウィンドウから顔を出し、真っ赤になって怒鳴り散らしている。
その罵声には目もくれず、俊之は愛子を固く抱きかかえ、二人で支え合いながら部屋へと戻った。
身も心も朦朧とした二人は、もつれ合うようにベッドへ崩れ落ちた。
カーテン越しに、朝の柔らかな光が差し込んでいる。
愛子は目を覚ました。隣を見ると、俊之が静かに寝息を立てている。
俊之の顔は、見慣れた50代のものだった。愛子は静かにベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。
恐る恐る鏡を覗き込む。そこに映っていたのは、くすんだ肌と目元のシワ、少し丸くなった背中の、50代の自分だった。
けれど、その瞳には深く穏やかな光が宿っていた。
いつの間にか俊之が後ろに立ち、共に鏡を覗き込んでいた。俊之の頭髪には白髪が混じっていたが、知的で落ち着いた紳士の顔立ちをしていた。
鏡の中で、50代の二人が見つめ合っている。
「すっかり、元のおばさんに戻っちゃったわね。……全部、夢だったのかしら。ああ、よかった……」
愛子の目から、涙がこぼれ落ちた。
「私、また同じ過ちを犯すところだった。あなたを愛しているのに、若さに目が眩んで手放そうとしたのね。今の穏やかな幸せで充分だったのに、高望みをしていた愚かさを、神様が教えてくださったのかもしれないわ」
「僕も同じだよ。既に幸せの中にいたのに、もっと刺激的な幸せを求めてしまっていた。本当の幸せが何かも分からずにね」
俊之は静かにつぶやいた。
「『胡蝶の夢』か……」
一瞬の微睡みの中で、一生分の夢を見たという中国の古事。二人はまさに、その夢を体験したのだった。
俊之も愛子も、改めて「若さ」というものの本質に思いを馳せた。
若さは眩しいが、時に恐ろしい。感情を制御できない未熟さと背中合わせなのだと、身を以て知った。
俊之がぽつりと言った。
「歳をとるのも、悪いことばかりじゃないな」
「そうね。若すぎる感情は強すぎて、お互いを傷つけてしまうものね」
人を心から思いやるには、月日を重ね、苦労を知り、成熟することが必要なのだ。
今、ここにある時間こそが、二人が長い遠回りをして掴み取った本物の幸せだった。二人はしっかりと抱き合い、喜びの涙を流した。
ふと、二人の脇を二羽の蝶がひらひらとすり抜けていった。
空中を戯れるように舞うと、少し開いていた窓の隙間から、春の空へと飛び立っていく。
一陣の心地よい風が吹き込み、部屋のカーテンを大きく揺らした。
愛子は窓の外の澄み渡る空を仰ぎ、そっと呟いた。
「……ありがとうございました」
完


