汚された十字架 (1)

【あらすじ】
長崎に突然やってきたキリスト教は、神道仏教と対立する事になった。日本における宗教戦争が勃発したのだ。

キリシタンの町

一五七〇年、大村の大名・大村純忠(おおむらすみただ)は、わずか百戸あまりの寒村であった大村領長崎を開港した。

開港と言っても、特別なものが長崎という地にあったわけではない。純忠が求めていたのは、南蛮船が入港できる港であった。

長崎の地質は、大部分が変成岩と火成岩で成り立っている。地殻変動により、長崎はリアス海岸と呼ばれる複雑に入り組んだ形状となっていた。

リアス海岸は波が静かで水深が深いため、南蛮船のような大型船が出入りする港としてはうってつけだったのだ。

しかも周囲を山に囲まれて平脈が少なく、孤立した場所でもあった。陸地からの交通の便が悪いということは、逆に言えば自然の砦でもあることを意味する。

この地理的条件が、長崎の運命を決めていくことになる。

大航海時代、ポルトガルは東の涯たる日本にもやってきた。貿易のためである。

一五四九年、あの有名なフランシスコ・ザビエルがポルトガル王の依頼で日本にやってくる。当然、布教のためである。

しかし当時のキリスト教の布教は、貿易とワンセットであった。貪欲なポルトガルが、日本を領土的・経済的な影響下に置こうと狙っていた証左でもある。

長崎の松浦氏が治める平戸にやってきたポルトガル商人は、日本人商人とトラブルを起こし、平戸を去った。

そのとき、ポルトガル商人に声をかけたのが大村純忠である。

周りを強国に囲まれた純忠は、起死回生の策として南蛮貿易を始めたのだ。

若く聡明な純忠は、貿易とともにイエズス会宣教師の住居などを提供するという提案で契約を結ぶ。

この契約は当初うまくいったのだが、やがて純忠自身が強烈なキリスト教信者となっていった。

結果として領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊す。僧侶や神主を弾圧し、領民にキリスト教への改宗を迫り、従わない者は土地から追い出したり殺害したりした。

その結果、大村家の家臣団からも離反者が出、純忠に敵意を持つ隣国の龍造寺勢に追いつめられるようになる。

龍造寺は当時、キリスト教を嫌い、武勇にも長けていた。

純忠は逃げ回り、ついに僻地であった長崎を開港することにした。

龍造寺勢は長崎にも攻め寄せるが、純忠はポルトガル人の支援を受けてこれを追い払う。

こうして長崎は、キリスト教の本拠地となって行ったのである。

一五八〇年。この長崎港の支配者であった四十七歳の純忠は、長崎・茂木をイエズス会に寄進する。

キリシタンという新しい宗教と外国人との貿易の登場は、様々な悲劇を生み出しながら、新たな物語を紡いでいくこととなった。

「なんということだ。正覚寺が燃えている……!」

晴れやかな長崎の空に、黒い煙が立ち上っていた。

パチパチと舞い上がる火の粉と、時折噴き出す炎。物が焼ける特有のにおいが辺り一面に広がっている。

道智(どうち)は仏教再興の説教からの帰り道、寺の方角に煙が立ち上るのを見て走って戻ってきたのだった。

周りには人だかりができているが、誰ひとり消火しようとする者はいない。

それどころか、「天火じゃ、天火じゃ」とはやし立てる者さえいた。天火とは、キリスト教における天罰の炎という意味であろう。

すでに本堂は火だるまになっている。

「いかん、『大無量寿経』の写本があるのだ。あれだけは救い出さねば!」

『大無量寿経』とは釈尊の出世本懐の経であり、親鸞が著した浄土真宗の根本聖典の冒頭に位置する経典である。

苦労して手に入れた写本であり、道智の心の支えでもあった。

道智は山門の脇に置かれた桶の水頭からかぶり、「南無阿弥陀仏!」と叫んで燃え盛る本堂に飛び込もうとした。そのとき、後ろから力任せに羽交い締めにする青年がいた。

「道智様、やめてください! 死んでしまいます!」

「小太郎、止めるな! あれは大切な経本じゃ!」

止めたのは見習い僧の小太郎であった。だが道智の力は強く、簡単に振り払われてしまう。

その時である。本堂の屋根が凄まじい音を立てて崩れ落ちた。猛烈な煙と火の粉、熱風が道智を叩きつける。その勢いに押され、道智は後ろへひっくり返った。

「うーむ、ここまで頑張ってきたというのに……」

燃え盛る本堂を、尻餅をついたまま見つめ、道智は力を落としてつぶやいた。

キリシタンの町において寺院復興の旗頭となるべく、現在の鍛冶屋町付近に苦労の末に建てた寺。

浄土真宗仏光寺派の寺院で、光寿山正覚寺という。

長崎市内のキリシタンたちから目の敵にされながらも、ようやくこの地に仏の教えを復活させようとした矢先の出来事であった。

道智

この焼き討ち事件が起きたのは、慶長十二年(一六〇七年)のことである。

フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を広めようと決意し、鹿児島に上陸したのが一五四九年。

正覚寺の事件は、そこから五十八年後のことだ。当時は戦国時代のまっただ中で、織田信長ですらまだ「うつけ」と呼ばれ、尾張の自領でようやく動き出した頃である。

ザビエルの日本での布教は困難を極めたが、カトリックのイエズス会は貿易とセットでアプローチしたため、利に聡い大名の中には進んでキリスト教を受け入れる者も現れた。

海外貿易がもたらす利益は絶大だったからである。

一方、日本国内で純粋に活動する宣教師たちとは裏腹に、ポルトガルの奴隷商人は日本を巨大な市場と捉え、精力的に商売を行っていた。これが、日本におけるキリスト教の悲劇の根本であった。

しかし、ポルトガル人ばかりを責めるわけにもいかない。買手がいれば売手もいる。奴隷を売っていたのは日本の戦国大名たちであった。

キリシタン大名と呼ばれる者や豪族たちは、戦に敗れた側の領民を売り払い、それと引き換えに火薬などを手に入れていたのだ。

当時のヨーロッパにおいて奴隷貿易は常態化しており、新大陸アメリカへ連行されたアフリカ人奴隷は千五百万人にも上ると言われ、現代の東京都の人口を超える規模であった。この人身売買は十九世紀前半まで続くことになる。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、文禄五年(一五九六年)に再び禁教令を出した。その理由は、「大名が勝手に海外貿易を行うのを防ぐため」「日本人の奴隷売買を禁止するため」「キリスト教徒による神社仏閣への攻撃を制するため」であったと言われている。

日本国内では着々と中央集権体制が整いつつあり、確実にキリスト教排除の方向へと舵が切られていた。

ここで悲劇的だったのは、日本人が一度キリスト教を信じ込むと、その純粋さ故に死を恐れぬ苛烈な信者となったことである。

「禁じられれば燃え上がる」恋愛にも似て、長崎ではますますキリシタンの勢いが盛んになっていた。

一方、日本の宗教者たちは、長崎で神道や仏教が衰退していく状況を深く憂慮していた。

そして慶長九年(一六〇四年)、僧・道智は正覚寺を開いたのだった。

道智は元来、佐賀の龍造寺隆信の一族・牛島隆家の子であり、文禄の役(朝鮮出兵)では加藤清正に従って戦った武士であった。しかし帰国後、思うところがあって浄土真宗に帰依した。

なぜ僧門に入ったのか詳細は定かではないが、朝鮮出兵での凄惨な体験が背景にあったと推測される。

朝鮮出兵は秀吉の一大プロジェクトであり、加藤清正は九州諸大名の中でも中心的な役割を担っていた。

「加藤清正の虎退治」の伝説が残るほど勇猛で、武士としての格組みも高く評価されていた人物である。

その清正は熱心な日蓮宗の信者であり、「南無妙法蓮華経」の題目を掲げて戦った。

しかし、どれほど信仰心があろうとも戦場は地獄である。日本軍は打ち取った敵兵の証として耳や鼻を削ぎ落とし、名護屋城の秀吉のもとへ送り届けた。

腐敗を防ぐため塩漬けや酢漬けにされた耳鼻は膨大な数に上り、そこには生まれたばかりの赤ん坊のものまで含まれていたという。殺害された朝鮮の民は十数万人に及ぶとも語られている。

その凄惨な現実が、道智の心境を大きく変えたのではないだろうか。

そうして僧となった道智は、正覚寺を拠点としてキリシタン信徒と果敢に宗論を交わし、先鋭的な布教活動を開始した。

立山の「山のサンタ・マリア教会」や、舟津村の「サン・ジョアン・バプチスタ教会」の信徒らと激しく議論を闘わせた記録が残っている。

その結果、脅迫や投石、井戸への毒物投入といった嫌がらせが相次ぎ、ついに慶長十二年(一六〇七年)、キリシタンの手によって正覚寺は放火され、全焼するに至ったのである。

小太郎

その日から身の危険を感じた道智は、山奥の伊良林(いらばやし)郷へと身を隠した。

道智の身の回りの世話や護衛を務めたのが、見習い僧の小太郎であった。

小太郎は、長崎淵村(ふちむら)で半農半漁の暮らしを営む伊右衛門の一人息子である。

伊右衛門はかつて、長崎界隈の豪族たちの勢力争いの中で戦に明け暮れた野武士であったが、やがて戦いに嫌気がさして刀を捨てた。

もともと争い事を好まない性格だったのだ。陰謀渦巻く過酷な日々と戦火によって家族を失った伊右衛門にとって、侍の身分を捨てることに未練はなかった。

仲間からの非難を避けるため、川の対岸にある淵村の無人となった荒屋に住み着いた。

淵村はその名の通り湿地が多く、米作りには適さない。少し奥まった斜面に僅かな畑を作り、小船を出して漁をする日々が始まった。

寡黙で働き者の伊右衛門は次第に周囲に受け入れられ、村の一員となっていった。

やがて漁師の娘で華奢で美しい梅と祝言を挙げ、小太郎が生まれた。しかし梅は産後の肥立ちが悪く、病がちであった。

伊右衛門は梅をいたわりながら、畑仕事と漁に精を出す。

血生臭い戦いの中で生きてきた伊右衛門が初めて手にした、貧しくとも穏やかな幸せであった。

子煩悩な伊右衛門は一人息子の小太郎に読み書きを教え、利発に育つ息子の姿に目を細める良き父親であった。

淵村は川岸に葦が密生する湿地帯で、華やかさとは無縁の場所である。

だが、その淵村にもいつしか異国人の影が迫っていた。

イエズス会がこの土地を管理するようになったからだ。年月が経つにつれ、対岸に見える長崎の岬はきれいに整備され、見たこともない南蛮船が幾隻も出入りするようになった。

「デウス」という神を信じるよう説く異人の宣教師たちが、村々を回るようになる。

村人たちはデウスの教えそのものよりも、宣教師たちがもたらす食べ物や金品に心を奪われていった。

異人の話に耳を傾け、「信じる」とさえ言えば手厚い援助が得られたからである。

素朴な村人たちにとって、デウスも仏も大差はなかったのだ。

当然、伊右衛門にも改宗の勧誘があったが、ささやかな今の暮らしに満足している彼には、新たな神に忠誠を誓う気など毛頭なかった。

時が流れ、豊臣秀吉や徳川幕府による禁教令が出されると、長崎の街は激動の渦に巻き込まれた。

追い詰められたキリシタンたちは、次第に過激化していく。

度重なる入信の拒絶により、伊右衛門一家は村八分にされた。

そしてある夜、家に火が放たれた。寝たきりの母をかばうように覆いかぶさったまま、父も母も炎の中に消えた。

小太郎ただ一人が、命からがら逃げ出したのだった。小太郎、十五歳の冬のことである。

長崎宗教戦争

そのような「キリストの王国」と化した長崎へ、たった一人で乗り込んできた仏教徒が道智であった。

仏教再興の拠点として、町の中に初めて正覚寺という寺を建立したのだ。その正覚寺の普請を手伝った一人に、小太郎がいた。

道智は元武士であり、朝鮮出兵をも生き抜いた猛者である。過酷な戦場から生還したのち、浄土真宗の僧となった。

浄土真宗は他の宗派と異なり戒律が少なく、僧侶の肉食妻帯も認められている。「善人なおもて往生をとげ、いわんや悪人をや」というのは親鸞の教えである。

小太郎は、仏教再興に命を懸ける道智の真摯な姿に惹かれ、弟子のように付き従うようになった。亡き父の面影を道智に重ねていたのかもしれない。

最初、道智は小太郎を煙たがっていたが、彼の正直さや機転の利く聡明さを認めるようになり、次第に可愛がるようになった。

寺が完成すると、道智は精力的に活動を開始した。キリシタン信徒たちと堂々と宗論を戦わせる。その傍らに控える小太郎は、いっそう憧れの眼差しで道智を見つめるのだった。

実は、キリシタンの溢れる長崎に寺を建てたのは道智が最初ではない。

道智は「町の中」に初めて建てたのであり、「町の外」に初めて寺を建てたのは、稲佐の悟真寺(ごしんじ)である。

筑後善導寺の僧・聖誉玄故(せいよげんこ)上人は、キリシタンの地と湾を挟んだ対岸に、仏教再興のため浄土宗の寺を建立した。

町の外とはいえ、目の前はカトリックの領域である。寺を建てたものの、その周辺を歩くことすら極めて危険であった。

当時の僧侶たちは、昼間は岩窟に身を潜めて仏像を拝む有様で、「隠れ仏教」と揶揄されるほどであった。

イエズス会は「邪教排除」の名目のもと、長崎に点在する神社仏閣をことごとく焼き払っていたのである。

「天火じゃ、天火じゃ!」

そう叫びながら、キリシタン信徒たちは寺社に火を放って回った。まさに十字軍さながらの苛烈さである。

僧侶や神主たちは、御本尊を抱えて逃げ惑うしかなかった。

長崎では、神宮寺、神通寺、森崎神社、薬師堂、毘沙門堂、観音堂、満福寺、鎮通寺、斎通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺などが破壊された記録が残っている。当時のキリスト教の伝道がいかに攻撃的であったかが窺える。

また神社仏閣を壊すにとどまらず、長崎開港と同時に修道士ガスパル・ヴィレイラは、仏教寺院を改造して長崎初の教会「トードス・オス・サントス教会」を開設した。

その後、数々のキリスト教施設が建てられ、「セミナリヨ」と呼ばれる神学校まで作られた。

いま長崎で生き残っている僧侶は、わずか五人。

正覚寺の道智、光永寺の慶西、大音寺の伝誉、晧台寺の泰雲、大光寺の慶了である。

長崎で繰り広げられていたこの闘いは、単なる信仰の対立にとどまらない。日本における「外国勢力と日本人との初の宗教戦争」であった。

ヨーロッパの風

それまでのヨーロッパ諸国による植民地化政策は、圧倒的な成果を上げていた。「大航海時代」と称して新大陸の発見に沸いていたのはヨーロッパ側の論理であり、アメリカにしてもアフリカにしても、決して「発見」されたわけではない。

一方的な帝国主義によって世界を切り従えていただけである。圧倒的な軍事力の差の前ではまともな戦いにすらならず、征服は力の論理によって正当化されていった。特にスペインによる南米諸国の略奪は凄惨を極め、インカ帝国を壊滅させるほどであった。

しかし当時の世界において、それを悪とする価値観は存在しなかった。

ヨーロッパ諸国が行った植民地支配や奴隷制度は、彼らの倫理観においては正当化されていたのだ。慈愛を説くはずのキリスト教司祭たちでさえ進んで植民地に赴き、先住民のすべてを改宗させようと躍起になっていた。

一神教が持つ「絶対的な正義」の恐ろしさはここにある。アジアにおいても、ポルトガルはすでに中国のマカオを拠水化しており、日本に対する姿勢もまた優越感に満ちたものであったことは間違いない。

彼らの手法は一貫していた。まず宣教師が現地に入り込んで信仰を広め、後から軍隊を送り込むというパターンである。

だが、当時のスペインやポルトガルはすでに全盛期を過ぎており、ヨーロッパ本土での紛争も続いていたため、この時期の日本を武力で直接支配することは困難であった。

海外の情勢を知らなかった日本側も、次第にヨーロッパの脅威を強く認識し始めていた。南蛮船や鉄砲など、技術力の差は歴然としていたからである。

日本にとって幸いだったのは、国内が戦国時代であったことだ。全国統一への動きが進んでおり、人々が徳川家康という強力なリーダーによる平和の実現に期待を寄せていた時期でもあった。

また、日本人は鉄砲の伝来に驚きつつも、すぐさまそれを模倣し、自国で大量生産する技術力を備えていた。天正三年(一五七五年)の長篠の戦いにおいて、織田信長が鉄砲隊を活用して武田騎馬軍団を破ったように、すでに軍事革命が起きていたのである。

ゆえに、ヨーロッパ勢力も安易に手を出すことができなかった。

もう一つの要素は、日本人の文化的成熟度である。古くから日本の社会規範は高く評価されており、技術面では遅れをとっていたものの、文化や道徳の面では高い水準を保っていた。

つまり、決して無知な野蛮人ではなかったのだ。その知性が道徳観を支えており、それを根底で支えていたのが仏教や神道、そして武士階級の倫理観(武士道)であった。

キリシタン大名・大村純忠の思惑によって開かれた長崎は、純粋な信仰の枠組みを大きく踏み出し、外国勢力の利権が渦巻く特別な地域となっていた。

しかし、知性ある日本人は、キリスト教という崇高な教えの裏に見え隠れするヨーロッパの野望と、貿易の富に群がる大名たちの欲望を見抜いていたのである。

さらに、「神か悪魔か」「全か無か」という二律背反を迫る西洋の思想に対し、日本人は「包摂し、調和させる」柔軟さで対抗した。

神が仏の姿となって人々を救うという「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」に見られるように、日本では異なる信仰同士の対立を避け、融合させてきた歴史がある。

その独特の柔軟性と曖昧さこそが日本の強みであった。ゆえに、排他的な「ヨーロッパの風」がそのまま定着することはなかったのである。

潜伏

伊良林郷の雑木林の奥深くに建てられた小さな小屋に、二人は身を潜めていた。

伊良林は後年、坂本龍馬が「亀山社中」を設立した地であり、英彦山(ひこさん)と烽火山(ほうかざん)に挟まれた木々の深い地域である。そこにはかつて窯があり、薪の保管場所として使われていた小屋が残っていたのだ。

広さは十畳ほど。手前には土間があり、煮炊きができる簡単な竈(かまど)が据えられている。奥の半分は板張りで、小さな囲炉裏があった。布団など無いため、二人は板張りの床にごろ寝をしていた。

潜伏を始めて一週間が過ぎていた。正覚寺の放火事件の際、着の身着のままで逃げ出してきたため着替えもなく、二人の身なりはすっかり荒んでいた。

頭を剃り上げた精悍な顔立ちの道智も髭が伸び放題となり、黒い袈裟はあちこちが破れて乞食坊主のような風体である。食料は小太郎が人里まで下りて調達していたが、不自由な毎日に変わりはなかった。

「道智様……私たちはいつまでここに隠れていなければならないのですか」

「そうよのう……。知り合いの寺に使いを出しておる。もう少し経ったらそちらへ身を寄せよう。ここは蚊が多くてかなわん」

ポリポリと身体中を掻きむしりながら道智が答える。藪蚊の絶好の標的になっていたのだった。

「道智様。おいにはよく分からんとですが、なんでキリシタンの連中はあがん酷いことばすっとでしょうか。キリシタンの神様は、そがんことばしろと教えとっとでしょうか」

囲炉裏に新しい薪をくべながら、道智が静かに話し始める。

「キリシタンは、この世でただ一人の神様だけを信じておる。それ以外の神仏は一切認めないという教えなのだ」

「仏様も、神様も認めんとですか」

「そういうことだ。例えば、何もない野原に突然一輪の花が咲いたとする。わしら日本の者は、土の神様やお日様、さまざまな神仏のおかげだと思うだろう。だがキリシタンの者たちは、すべて『デウス様』のおかげだと考える。この世の素晴らしい出来事はすべてデウスの力であり、悪い出来事はすべて悪魔の仕業だと捉えるのだ」

「へえ……そうなんですか。おいには仏様もありがたいし、神様もありがたいと思えます。死んだじいちゃんやご先祖様も大事にしなきゃいかんと思うとです。それが普通じゃなかでしょうか」

小太郎の言葉には憤りが滲んでいた。それを感じ取った道智は優しく諭すように言った。

「よいか小太郎。人間というのは弱い生き物だ。弱いからこそ、何かを信じずにはいられない。それが神であっても、仏であってもいいのだ。人が何を信じようと自由であり、デウスを信じることも間違いではない。……だがな、己の信仰のために他者を傷つけるようなことがあっては絶対にいかんのだ。それだけのことだ」

小太郎は大きく頷いた。

「そうですよね。おいもそう思います。……それと、日本人の娘を外国に売り渡しているという噂を聞きました。なんて酷いことでしょう。人間は牛や馬じゃなかとに……」

「そうだな。わしもそのことを深く憂慮しておる」

道智の表情が重く沈んだ。

大和の心

小太郎の父は元武士であったが、戦に嫌気がさして自ら刀を捨て、半農半漁の暮らしを選んだ男であった。母も病弱で、すべてにおいて控えめな人柄であった。そのような両親のもとで育ったせいか、小太郎にはどこか穏やかな雰囲気が漂っていた。攻撃的な言動を避け、どちらかといえば思慮深く内向的な性格である。

その小太郎が、いま珍しく本気で怒りを露わにしていた。キリスト教の教えそのものを否定するつもりはないが、海や山で育った小太郎にとって、山の神、海の神、お日様、さらには精霊や霊魂の存在を感じることはごく自然なことであった。それが小太郎の純粋な感性だったのだ。

小太郎が抱いていた感情は、学問的には「アニミズム(自然崇拝)」と呼ばれるものである。日本の伝統的な宗教観は、明確な境界線を設けない寛容さに大きな特徴がある。

一見シンプルに見えて、その構造は深く複雑だ。古来の神道に仏教が融和し、さらに日本人の柔軟性がそれらを優しく包み込んできた。一つの家庭内に神棚と仏壇が同居していても、何の違和感も抱かないのが日本の文化である。

これに対し、同じアジア圏であっても中国や韓国の宗教観は比較的明確であった。

中国の場合、広大な風土の中で農耕を営んできた歴史から、人間関係の規範が重視された。そのため、人としての道を説く儒教や道教といった思想が発展したのである。絶対的な神よりも「人間中心の倫理」が根底にあり、近代における共産主義思想の導入もこうした土壌の上に成り立っている。

韓国もまた自然崇拝を根底に持ちつつ、仏教と強い儒教的道徳が融合し、家族や共同体の秩序が強く意識される文化を形成してきた。

一方、西洋で生まれたキリスト教は、「神のもとの平等」という明解な教理で世界中に広まり、現在では二十億人を超える信者を擁している。

一神教に共通するのは、「選民思想」と「救済」という概念である。過酷な風土を生き抜くために育まれた信仰であり、厳格な戒律とセットになっていた。

島国である日本においてこうした一神教が浸透しにくかったのは、厳格な戒律や一神教の絶対性が、自然と共生してきた日本の精神風土になじみにくかったからにほかならない。二十一世紀の現代においても、日本のキリスト教徒の割合が全人口のわずか一パーセント未満にとどまっているという事実が、その歴史的な深層を物語っている。

小太郎が感じた強烈な違和感の正体は、一神教がもつ「排他的な苛烈さ」に対する直感的な拒絶反応であった。

日本初のキリシタン大名

いま道智たちを追い詰めている長崎のキリスト教勢力は、自然発生的に広まったものではない。長崎が「キリシタンの町」となった背景には、一人のキーマンが存在した。大村純忠である。

純忠は肥前の戦国大名・有馬晴純の次男として生まれた。有馬家は島原半島を治める大名であったが、大村家とともに戦力としては決して強大ではなかった。

大村家の当主・大村純前(すみさき)には又八郎という実子がいたが、側室の子(庶子)であった。そこで純前は有馬家から若い純忠を養子として迎え、跡取りに据えたのである。

戦国時代にはよく見られた政略結婚・養子縁組であり、両家はこの同盟によって絆を強化しようとしたのだった。

この決定に最も激怒したのが、実子の又八郎であった。彼は武雄を拠点とする後藤家の養子に出され、「後藤貴明(たかあき)」と名乗るようになる。貴明は跡目を奪われた恨みを生涯抱き続け、純忠を宿敵として執拗に狙い続けることになる。

しかし純忠にとってみれば、その恨みは筋違いと言わざるを得なかった。わずか十七歳で弱小な大村藩の舵取りを任され、不当な怨絶を背負いながら、周囲の強大な勢力からの侵略を防がねばならなかったからである。

重圧に耐え続けた純忠は、永禄四年(一五六一年)に平戸で起きたポルトガル人殺傷事件を機に、大きな決断を下す。二十九歳の純忠はポルトガル側と交渉を重ね、自領の横瀬浦(よこせうら)を新たな貿易港として開放したのだ。

さらにイエズス会の宣教師たちに敷地や住居を提供し、南蛮貿易の利益を独占する計画を実行に移す。この施策は見事に当たり、小さな漁村であった横瀬浦はたちまち活気に満ち、大村藩の財政は劇的に改善した。純忠の事業は大成功を収めたのである。

そして、この成功とポルトガルとの関係を維持するため、純忠自身もキリスト教へ帰依する道を選んだ。翌年、コスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、ここに「日本初のキリシタン大名」が誕生した。

しかし、若く苦悩の多い純忠の信仰は次第に過激化していった。イエズス会との結束を強めるため、領内の神社仏閣を壊し、ご先祖の墓を打ち壊し、改宗を拒む僧侶や神官を弾圧した。その結果、大村領内では六万人ものキリシタンが生まれることとなった。

純忠の行動は単なる狂信から出たものではなく、苛烈な戦国時代を生き残るための「究極の選択」でもあった。

だが、一方的な断行は必ず強い反発を生む。純忠を憎む後藤貴明は、純忠の極端な施策に反発する大村藩の旧臣たちと手を組み、横瀬浦を襲撃して街を焼き払ってしまった。

横瀬浦を失った純忠であったが、持ち前の執念で直ちに別の港をポルトガル側に提示する。最初は福田港を選んだが、外海に面していて波が高く、ポルトガル船員には不評であった。そこで再び適地を探し出し、白羽の矢を立てたのが「長崎」であった。

当時の長崎は寂れた寒村であり、領主は長崎純景(すみひろ)であった。純忠と義理の親子関係にあった長崎氏は、ただちに長崎港の整備に着手し、新たなキリシタンの本拠地へとつくり変えていった。長崎港は、戦乱の中で追い詰められた純忠が行き着いた最後の砦だったのである。

だが長崎においても、周囲の郷士たちとの争いは絶えなかった。敵対する西郷氏や深堀氏、さらには強大な龍造寺氏の威圧抗するため、天正八年(一五八〇年)、純忠は長崎と茂木の地を「イエズス会へ永久寄進」するという驚くべき決断を下す。

武力ではいずれ敗れ、貿易の利権も奪われてしまう。ならばいっそ土地を寄進することでイエズス会との絆を不可解消のものとし、貿易の果実を守り抜こうとした純忠の起死回生の策であった。

イエズス会にとって、戦うことなく領土を手に入れたこの寄進は願ってもない幸運であった。ポルトガル本国にとっても、日本進出の拠点としてこれ以上の条件はない。彼らは長崎を東アジアにおけるキリスト教の本拠地と定め、「神の国」の建設に乗り出したのである。

おりしも時代は戦国末期。行き場を失った浪人や流民たちが、富と機会を求めて長崎へと大量に流れ込んできた。南蛮貿易のもたらす富によって街が急速に発展するにつれ、多様な人間が渦巻くようになっていった。

こうして長崎は、幕府による統制が及ぶまでの間、西洋と東洋、信仰と欲望、平和と暴力が複雑に混ざり合う、日本で唯一無二の異国都市となっていったのである。

これこそが、いま道智と小太郎が立ち向かっている長崎の真の姿であった。

襲撃

道智と小太郎は伊良林の炭焼き小屋に身を潜めていたが、食料の調達などのため、陽が傾く夕刻になると、密かに支援してくれる村人のもとへ出かけていた。

その日も二人は手ぬぐいで顔を覆い、人目を避けるように小屋を出た。イノシシの通る獣道を抜け、ようやく人ひとりが通れるほどの山道に出た時のことである。

突然、両脇の竹林から幾筋もの人影が飛び出してきた。キリシタンの手先たちであった。

粗暴な身なりの男たちが三人、道智と小太郎の行く手を塞ぐ。

「おい、そこの二人! 待ちやがれ!」

道智と小太郎はその声に足を止めた。

「てめえら、噂のくそ坊主・道智と、その小僧だな! やっと見つけたぜ!」

首領格の男は若いものの品がなく、見るからにチンピラ風情であった。

その背後には、刀を差した武士らしき男が静かに控えている。チンピラは抜き身の短刀を握りしめ、じりじりと距離を詰めてきた。

「おまんたちはキリシタンか!」

小太郎が思わず長崎弁で怒鳴った。

「なんでおい人(たち)ば狙うとや!」

「せからしか! この長崎はデウス様の町ぞ! くそ坊主が生きていられるわけがなかろうが!」

道智が小太郎の前にすっと進み出た。

「わしが道智である。先般の教会での宗論を根に持ってのことか。愚かな真似を……」

小太郎も道智の背後から声を張り上げた。

「おまんたちも日本人だろ! 日本のお坊様を襲うなんて罰当たりなことをして、地獄に落ちるぞ!」

だが、チンピラも引き下がらない。

「やかましか! ペトロ神父様も言っとられたぞ! 俺たちが貧しいのは全部あの坊主どものせいだとな! デウス様の国になれば、俺たちも良い暮らしができるようになるとさ!」

「何ば言っとっとか! 所詮、金で動いとるだけじゃなかか! お前たちは墓ば壊し、ご先祖様をないがしろにして、果ては日本人の娘ば捕まえて毛唐に売り渡していると聞いとるぞ! 本当の神様なら、そんな酷いことをさせるもんか!

おい達はあんたたちに何もしておらん! 勝手に自分の神様ば信じればよかろうが! なんでそうやって一方的に人を襲うとか! お前たちの大将は、日本を乗っ取る気ぞ! それでもよかとですか!」

小太郎の気迫のこもった一弾に、チンピラは一瞬ひるんだ。

その空気を察したのか、背後に控えていた浪人が静かに歩み出た。脇差の鯉口はすでに切られており、いつでも切っ先を突き出せる構えである。

「……その通り。拙者たちはキリシタンの味方だ。神父様方は、この地から坊主どもが消え去ることを望んでおられる。貴様らが立ち去らぬというなら、ここで斬るまで」

低いが透き通った声であった。その立ち振る舞いからは、かつて城勤めをしていた武士の気配が伺える。細い眼光には爬虫類のような冷たさと、深い虚無の色が宿っていた。

小百合

修験者(山伏)の准山(じゅんざん)と道智はお堂に入り、密かに話し込んでいた。

小太郎は近くの石に腰掛け、ぼんやりと夜空の星を見上げていた。

ここ最近、自分の身に起きた激動の出来事が頭を巡る。あまりの展開の速さに気持ちの整理は追いついていなかったが、道智和尚と行動を共にしていること自体に迷いはなかった。

亡き父母のことも思い出す。確たる証拠はないものの、実家に火を放ったのはあの過激なキリシタン信徒たちだと信じていた。

両親を奪われた悲しみは今も消えず、理不尽な暴力を振るう者たちへの憤りが胸の底でくすぶっている。そしていままた、尊敬する道智和尚が狙われているのだ。

「やられたら、やり返すしかない——」

当時の小太郎の頭には、ただそれだけの強い思いが渦巻いていた。

ガタガタとお堂の引き戸が鳴り、話し合いを終えた道智が一人で出てきた。

「小太郎、話はついた。帰るぞ」

「はい」

そう答えて振り返ると、さっきまでお堂の隅に立っていた山伏たちの姿は消えていた。まるで幻のように気配を消す様は、里の人間が「天火」や「天狗の仕業」と恐れるのも無理はないと小太郎は身震いした。

山伏たちに教えてもらった抜け道を通り、一時間ほどで伊良林の炭焼き小屋に戻ってきた。

「小太郎。この小屋もいつまで安全か分からん。近いうちに別の場所へ移るぞ」

「はい」

持っていく荷物などほとんどない。簡単な仕度をしていると、小屋の戸が急激に叩かれた。

ガタガタと音を立てて戸が開き、一人の少女が息を切らせて飛び込んできた。

刺客かと思い、小太郎は身構える。

「早く! 早く私について来て!」

長い髪を後ろで束ね、きらきらとした大きな瞳が小太郎を射抜く。事態が飲み込めず固まっている小太郎に、少女は苛立ったように声を張り上げた。

「ぐずぐずせんで!」

「小百合か。世話になるな」

道智が静かに立ち上がった。

「道智様、日見峠の裏道から山を越えたところに炭焼き小屋がありますけん。そこへ案内しろと爺様から言われてきました。行きましょう!」

少女はきびきびと語りかける。味方だと分かり、小太郎の緊張が解けた。

「えっ……日見の峠まで行くと? 相当遠かよ……」

小百合は小太郎をじろりと睨みつけた。その目力に、小太郎は思わずたじろぐ。

小百合は周囲の気配を伺うと、小さな提灯を手にして夜の山道へと素早く躍り出た。

二人もその後に続き、漆黒の山道を幾度も上り下りしながら進んだ。

長崎は山と海が入り組んだ地形である。純忠が長崎湾を開港したのは比較的最近のことであり、港周辺が開けてきたとはいえ、一歩外れれば峻酷な山々に囲まれていた。

日見峠は、のちに長崎街道と呼ばれる重要ルート上にあり、関所が置かれる交通の要衝である。だが複雑な山中には人知れず存在する隠れ里があり、小百合の祖父はそのような集落に身を寄せていたのだった。

長崎の山々は古くから修験道の修練場であり、多くの山伏が活動していた。山伏の首領格である准山と道智は旧知の仲であり、その縁を通じて小百合の祖父の隠れ家が提供されたのである。

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