汚された十字架 (2)

日見の村

清らかな小川が流れる山奥の集落には、十軒ほどの小さな家々が身を寄せ合うように建っていた。

ここには小さなお堂があり、集落の人々と山伏たちの関係は良好で、山々を巡る修験者たちにとって憩いの場となっていた。

山伏は「修験者」とも呼ばれる。深山に籠もって厳しい修行を重ね、特別な霊力を身につけることを目的とする人々だ。

断食や滝打ち、火渡りといった過酷な修行で知られる。頭には「頭巾(ときん)」と呼ばれる多角形の小さな帽子を戴き、手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、麻で織られた「篠懸(すずかけ)」という法衣を纏うのが一般的な姿である。

修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、飛鳥時代から奈良時代に実在した伝説的な人物で、十七歳で孔雀明王の呪法を修め、葛城山で修行を積んだと伝えられている。神秘化されてはいるが、これもまた日本古来の宗教のかたちであった。

修験道は理屈よりも実践を重んじる性質があり、ひたすら自己を鍛錬する。特定の教義のみに縛られる一般的な宗教とは異なり、山岳信仰をベースに仏教、道教、陰陽道などが複雑に融合した非常に庶民的な性格を持っていた。

准山は、長崎の山伏たちを束ねる頭領であった。

山伏たちは基本的に世俗を離れて山に生きる人々であり、長崎の豊かな自然は格好の住処であった。しかし近年の開港に伴い、街が急速に騒がしくなってきたことを危惧していた。

さらに、異国人がもたらした新しい宗教に影響された人々が、伝統的な神仏を蔑ろにする行為を始めたことで、神仏分離を拒む山伏たちとキリシタン伝道師たちとの衝突が各地で多発していたのである。

そうした背景から、道智と准山は「伝統的な信仰を守る」という共通の目的で深く結ばれていた。

精悍で引き締まった道智に比べ、小太りで髭面の准山は一見すると親しみやすく柔和な印象を与える。しかしそれは表の顔に過ぎず、その実体は凄まじい武道の達人であった。一説には山岳修行によって「金縛りの術」を会得しているとも噂されていたが、真偽は定かではない。

集落は、日見峠からかなり離れた金比羅岳の開けた中腹に位置していた。村人たちは僅かな畑仕事と炭焼きで生計を立てていた。

提供された炭焼き小屋には、質素ながら穏やかな空気が流れていた。小百合と祖父は少し離れた場所に住んでおり、朝夕になると二人のもとへ食事を運んできてくれた。

小百合は小太郎と同じ十五歳であった。粗末な小袖を纏ってはいるものの、色白で健康的な肌を持ち、笑うと野に咲く小花のような可憐さが漂う少女である。

小柄ながらかいがいしく道智たちの世話をする小百合の姿に、同世代の小太郎の胸はときめいた。これまで異性と接する機会のなかった小太郎にとって、それは生まれて初めて抱く甘い感情——初恋であったのかもしれない。

そんな青年の心の変化を知ってか知らずか、道智は変わらぬ様子で毎朝の読経を済ませると、進んで村人たちの畑仕事を手伝っていた。

爺様

「道智様よ、キリシタンの連中は物騒でのう……」

祖父(爺様)は道智の身を案じ、深く溜息をついた。

「爺様、この度は大変なお世話になり、かたじけなく思っております」

「いやいや、困っておる者を助けるのは人として当たり前のことじゃ。ワシはどんな神様でも仏様でも、ありがたいと思っておる。ただ、周りの人間が過激になりすぎるのがいかんのだな。キリシタンの者たちも、時が経てば頭が冷えるじゃろうて」

一仕事終えた爺様は畦道に腰を下ろし、竹筒の水をちびちびと飲みながら語り始めた。

「道智殿……ワシも昔、婆さんや小百合の両親が戦で死んだときは、この世の神も仏もすべて怨んだ時期があったんじゃよ。

そんな折、旅の山伏が素朴な木の仏像をくれてな。『自分で同じものを彫ってみなされ』と言われたんじゃ。それから毎日、小刀で木を削り続けた。下手くそだが、何十体も彫ったよ。そうして手を動かしているうちに、不思議と胸の苦しみが薄らいでいったんじゃ。

命のない木像がどうしようもなく愛おしく思えてきてな、自分の彫った仏様に向かって手を合わせるようになった。その仏様がワシに教えてくれた気がしたんじゃよ……『生きているだけでありがたいと思え』とな。それ以来、ワシの心のつかえはすっかり取れたんじゃ」

静かに耳を傾けていた道智は、そっと両手を合わせた。

「……爺様は、真の悟りを開いておられるな」

そう言って立ち上がると、道智はポツリとつぶやいた。

「わしも、心からそう思うぞ」

「さて、道智様。雑草抜きを再開するかのう。この草とて命あるもの……だが、それを取り除かなければ作物が育たん。生きていくということは、そうした業を背負うことなんじゃな。ありがたいことなど、どこにもないのかもしれん」

爺様は腰を伸ばしながら畑を見渡した。すると空から黒い影が舞い降りてきた。カラスの群れが、実りかけた茄子を狙って降りてきたのだ。

「いかん、いかん!」

爺様は慌てて手を振りながら駆け出した。隣の畑で作業していた小太郎も声を聴きつけて振り返る。

「爺様、任せておけ!」

小太郎は足元から握り拳ほどの石を拾い上げると、カラスに向かって一気に投げつけた。石は見事に群れの先頭にいた大きなカラスの至近に命中し、驚いたカラスたちはバサバサと羽音を立てて逃げ去っていった。

「おお、助かったぞ小太郎! 最近カラスが増えて困っておったのだ」

その様子を見ていた道智が、感心したように声をかけた。

「小太郎、見事な石つぶてだな」

小太郎は頭を掻きながら照れくさそうに笑った。

「小太郎よ、古来より『石つぶて』は合戦において極めて重要な武器だったのだ。武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いも、始まりは石の投げ合いだったと聞く。中でも石投げの名手・白鳥左馬之助は、一町(約百メートル)先の敵を正確に穿ったという。わしも昔、戦場で相当に訓練した経験がある」

そう言うと、道智は足元から手頃な石を選び取った。

「ふむ、これが良かろう」

道智は拳より一回り小さな丸い石を拾い上げると、そばにあった鍬の背を使って石の角を落とし、表面に細かい傷を刻んでいった。

小太郎は興味津々で見つめている。道智はニヤリと笑った。

「よいか小太郎。石は丸いほど真っ直ぐ飛ぶが、握り方や表面の傷の付け方によって、飛躍的に軌道を変化させることができるのだ。よく見ておけ」

道智は大きく腕を振りかぶり、三十メートルほど先にある一本の杉の大木に向かって石を投じた。

投げ出された石は当初、杉の右側へと大きく外れて飛んでいくように見えた。しかし、木の手前で急激に鋭いカーブを描き、ガツンと音を立てて幹の真ん中に命中したのだった。

小太郎は目を丸くした。石の形状で軌道が変わることは知っていたが、これほど意図的に曲げてみせた技は見たことがなかったからだ。

「これぞ秘伝『龍の牙』じゃ。龍の牙のごとく鋭く曲がり、標的を穿つ」

「すごいです! 道智様!」

「あの石を拾って調べてみよ。秘伝の構造が理解できるはずだ」

小太郎は興奮冷めやらぬ様子で、一本杉に向かって駆け出していった。

マリア様

穏やかな潜伏生活が、一日一日と過ぎて行った。

日中は畑仕事に精を出し、夕暮れになると作業を終えて炭焼き小屋へ戻る。そんな日常の中に、いつものように小百合が温かい握り飯を運んできた。

「道智様、お夕飯を持ってきましたよ」

「おお、いつもすまんな。そこに置いておいてくれ」

小百合は狭い室内を見回した。

「あれ、小太郎さんは?」

「小太郎か? まだ雑木林におるはずだ。最近は暇さえあれば石つぶての稽古ばかりしておるからな」

「まあ……呼んできますね」

小百合は微笑みながら外へ駆け出していった。

陽はまだ落ちきっていない。小太郎は林の入口で、一心不乱に石を投げ続けていた。

「おかしいな……曲がりはするけど、狙った場所に当たらない……」

握り方を変え、投げる角度を変え、石の削り方を微調整しながら試行錯誤を重ねている。その姿はまるで、投球フォームの改善に励む現代の球児のようであった。

「小太郎さん、ご飯ですよ!」

「うわっ!?」

不意に声をかけられ、小太郎は飛び上がった。集中するあまり、小百合がすぐ近くまで来ていることに気づかなかったのだ。

「あ……小百合さん」

「ふふ、すごい集中力ね」

感心したように覗き込む小百合に、小太郎は顔を真っ赤にして照れくさそうに下を向いた。少女はそんな小太郎の反応を愛おしそうに見つめながら語りかける。

「ねえ、小太郎さん……道智様はどうしてキリシタンの人たちから狙われているの?」

小太郎の表情が真剣なものへと変わった。彼はこれまで道智から聞かされた経緯と、長崎で起きている現実を丁寧に説明した。

話し込んでいるうちに、西の空は燃えるような茜色に染まり、山から吹き降ろす風が冷たさを増してきた。汗が引いて肌寒さを感じた小太郎が立ち上がる。

「そろそろ戻ろうか」

二人は夕闇が迫る山道を、肩を並べて歩き始めた。

「……ねえ、小太郎さんはキリシタンの神様のこと、本当はどう思っているの?」

小太郎は少し考えてから、素直な胸の内を明かした。

「どんな神様を信じてもよかと思う。……ばってん、そのために人を傷つけたり、人間を売買したりするのは絶対に間違っとる」

「そうよね……」小百合も深く頷いた。「だけどね……私、一度でいいからその神様のお話を聞いてみたいの」

「なんで?」

「噂で聞いたんだけど……『マリア様』という神様がどんな方なのか気になって。なんだか、優しそうなお母さんのような気がして……」

小太郎は言葉を詰まらせた。

「私……お母さんの顔を知らないでしょ。マリア様は人間なのに神様のお子様をお産みになったって聞いたわ。きっと、すごく温かいお母さんなんじゃないかって……」

娘心

小百合の家はかつて、長崎の領主・長崎純景の城下近くで魚や野菜を扱う商店を営んでいた。当時、長崎湾の南側には深堀純賢という豪族が控えており、長崎氏と激しい領地争いを繰り広げていた。また諫早の西郷純尭(すみたか)も長崎の利権を狙って侵攻を繰り返していた。

その熾烈な勢力争いに巻き込まれ、小百合の家は焼き払われ、両親は帰らぬ人となった。幼かった小百合を抱え、命からがら逃げ延びたのが祖父であった。

両親の記憶がない小百合にとって、街の噂で耳にする「聖母マリア」の存在は、特別な憧れとなって胸に刻まれていたのである。

「……俺も、おっかあ(母)の顔はよく覚えてないんだ。でもな、子供を抱いた観音様の像を見ていると、なんだかおっかあに似ているような気がすることがあるよ」

小太郎も静かに言葉を返した。

夜空には一番星が瞬き始めていた。

親を失った深い孤独を抱えるふたり。小百合はキリスト教のマリア像に、小太郎は慈母観音の姿に、失われた母の面影を重ね合わせていたのだ。

宗教とは本来、こうした癒やされぬ悲しみを抱えた魂をそっと包み込む救いであったはずだ人は弱く、何かに縋らざるを得ない生き物だからである。しかし現実の長崎では、その宗教の名のもとに惨烈な争いが繰り広げられていた。

道智と小太郎は依然として日見の隠れ家から動けない状態が続いていた。道智は時折姿を消し、各地の仏教徒や山伏と連絡を取り合って何らかの工作を進めていたが、小太郎にできることは少なかった。

育ち盛りの小太郎は、日々の農作業を手伝うこともあって食欲旺盛であった。道智もまた山中を駆け回るため、相応の食糧を消費する。二人は食費として金銭を祖父に渡していたが、男手がふたり増えたことで蓄えはみるみる減っていった。

そこで小百合が祖父に代わり、茂木の町へ買い出しに出かける機会が増えたのだった。小太郎は顔が割れている危険性があるため、同行を控えていた。

年頃の少女である小百合にとって、町へ下りる時間は密かな楽しみでもあった。賑やかな市場の活気や、見たこともない異国の装飾品に胸を躍らせていたのである。

時には小さな髪飾りなどを愛おしそうに眺めることもあったが、家に戻ると祖父や小太郎の前でそれらをひけらかすような真似は一切しなかった。自分たちが置かれている厳しい立場をよく理解していたからである。小百合は思慮深く、慎み深い少女であった。

浄土真宗

「ごちそうさまでした!」

大きな握り飯三個と、小太郎が仕留めてきた野兎の煮込みを、小太郎は豪快に平らげた。

道智も山道を往復して体力を使っているため、二個の握り飯を美味そうに完食する。

普段は食の細い祖父と二人暮らしの小百合にとって、男たちが気持ちよく食べる姿を見るのは微笑ましいものであった。

「ふふ、二人とも本当によく召し上がるわね」

道智も少し照れたように頭を掻いた。

「いやあすまんのう、飯ばかり消費して。小百合さんには苦労をかける」

「いいえ、どういたしまして。小太郎さんが石つぶてで兎や鳥を捕ってきてくださるから、おかずが豪華になって私も嬉しいです」

後片付けをしながら小百合がチラリと小太郎を見ると、小太郎も嬉しそうに微笑み返した。日を追うごとにふたりの距離は縮まり、甘い初恋の気配が漂っていた。

しかし、根が奥手な小太郎は手を握ることすらできていない。プラトニックな領域を甘酸っぱく漂っているだけであったが、それでも小太郎にとっては至福の時であった。

小百合もまた、恋心を知ったことで日増しに艶やかさを増していた。

若いふたりの雰囲気を察した道智は、少々照れくさそうにコホンと咳払いをし、話題を変えた。

「……南蛮人どもは日常的に肉を食う。それゆえ身体が大きいのだな。仏教の教えでは肉食は忌避されてきたが、これほど体格差を見せつけられると、わしも少々考えを改めねばならんかもしれん」

小百合が不思議そうな顔で道智を見つめた。

「そういえば……お坊様は肉を食べてはいけないと思っていましたけれど、道智様はモリモリ召し上がっていますね? よいのですか?」

「ふむ。我が浄土真宗では、妻をめとることも、肉を食すことも許されておるのだ。厳格な戒律に縛られないのが特徴でな。それは親鸞聖人が『自らの小さな力(自力)に頼るのではなく、ただ阿弥陀如来の大きな救い(他力)を信じよ』とお説きになったからなのだ」

「……難しいですね」

小百合が困惑した表情を浮かべた。利発な彼女であったが、体系的な学問を受けたわけではないため、教義の真意を掴みかねているのだ。

「『南無阿弥陀仏』と唱えれば、どんな人間でも救われるってことですよね?」

小太郎が得意そうに助け船を出した。

「おお、小太郎! その通りじゃ! ただ素直に念仏を唱えるだけで、阿弥陀様はすべての人を極楽浄土へ導いてくださるのだ」

悪人正機説

小太郎は特別に仏教の勉強をしたわけではなかったが、道智の傍らに身を置くうちに自然とその教えを吸収していたのだった。

「……どんな人でも救われるのですか? たとえ、悪いことをした人でも?」

小百合が疑問を投げかけた。

「そうじゃ。悪人であっても、念仏を唱えれば成仏できるのだ」

「ええっ……それじゃ不公平だわ! 真面目に一生懸命生きている人がかわいそうです」

小百合は素直な混乱を露わにした。この疑問は、浄土真宗の教えに触れた人が最初に突き当たる普遍的な疑問でもある。戒律を持たず、念仏ひとつで救われるという教えは、従来の仏教観を根底から覆す革命的な思考であった。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」——この「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」こそが真宗の真髄である。

親鸞の視点は極めて高く、深い。時に誤解を招きやすい教義ではあるが、後世において日本の仏教徒の多くが真宗に帰依したという事実が、この思想の持つ普遍的な救済力を証明している。

「小百合さんよ……阿弥陀様の大きな御心から見れば、人間など皆なにかしらの罪を抱えた『悪人』に過ぎんのだよ。自分が正しいと思って生きている者ほど、己の愚かさに気づけぬものなのだ」

「うーん……分かったような、分からないような……」

小百合は首をかしげた。小太郎が優しく語りかける。

「小百合さん、俺も難しいことは分からないけど……道智様の仰る言葉はすべて信じられるんだ。いつか俺たちにも、本当の意味が分かる日が来るよ」

小太郎は素朴であったが、決して愚かではなかった。小百合の真面目さと小太郎の温かい素直さは、実に好ましいものであった。

「小百合さん、小太郎……わしとて未だ修行中の身。己の解釈など浅はかなものかもしれん。ともに精進していこうではないか」

ふたりは深く頷いた。

「そうだわ! 明日、茂木の町へ買い出しに行ってきますね。何か買ってきてほしいものはありますか?」

小百合が思い出したように尋ねた。こうした現実的な頼もしさも彼女の魅力であった。

「俺は干物が食べたいな!」と小太郎が屈託なく言う。

「わしは今のままで十分じゃよ。小百合さん、いつも手数をおかけしてすまんな」

「そんな、滅相もありません! 実は私……町へ行くのが嫌いじゃないんです。この前、小間物屋さんでとても綺麗なビードロの櫛を見つけて……。嬉しくなって、用もないのに店の前を通ってしまうんです」

小百合が無邪気に笑う。さすがの道智も少女の繊細な恋心や物欲には疎かったようで、感心したように懐を探った。

「そうか、そうか! ほう、ここに少しばかり銭がある。小百合さん、これでお小遣いとして好きなものを買うといい」

そう言って、道智は数文の銭を小百合の手のひらに握らせた。

茂木の町

「道智様! めっそうもございません、そんなつもりで申し上げたのでは……!」

小百合は慌てて手を引き引っ込めようとした。

「小百合さん、頂いておきなよ。俺も小百合さんの喜ぶ顔が見たいんだ」

小太郎が真剣な眼差しで言った。小百合の甲斐甲斐しい奉仕に、何らかの形で報いたいと常々思っていたのだ。

「そうじゃよ。これは仏様からのご褒美じゃ」

道智も好々爺のような笑みを浮かべる。

小百合は戸惑いながらも小太郎の真っ直ぐな瞳に気押され、照れくさそうに銭を握りしめた。

「……道智様、本当にありがとうございました! 気をつけて行ってまいります!」

嬉しそうに声を弾ませ、小百合は外へ飛び出していった。

「小百合さん!」

小太郎も後を追って外へ出た。

遺された道智は、伸びた髭を撫でながら静かにつぶやいた。

「『世のなか安穏なれ』……か」

この言葉は、過酷な乱世を生き抜いた親鸞が遺した切実な祈りである。道智もまた、若者たちの未来を温かく見守る一人の大人であった。

かつて武士として凄惨な戦場を駆け抜け、倒れゆく若者や巻き込まれる婦女子の悲劇を嫌というほど目にしてきた。修羅の道を歩んだ自分を救ってくれたのが、真宗の念仏であったのだ。

「世の中が穏やかでありますように」——それは道智自身の魂の叫びでもあった。

道智は大きく背伸びをすると、そのまま床にごろりと横になった。

外からは小百合と小太郎の楽しげな笑い声が風に乗って聞こえてくる。

満腹になった道智は、間もなく心地よい眠りへと落ちていった。

穏やかで、暖かい昼下がりであった。

陽が少し傾いた頃、小百合は身なりを整えて山を下り、茂木の町へとやってきた。

懐には道智から貰った大切な銭がある。「もしかしたら買えるかもしれない」という淡い期待が、胸を華やがせていた。

町の入口で髪と着物を入念に整える。町の娘たちは色鮮やかな着物を着ているが、自分は継ぎはぎのある絣(かすり)の小袖にもんぺ姿だ。農作業だから仕方ないと分かってはいても、華やかな場所に出ると引け目を感じてしまう。また、道智たちの存在を隠すためにも目立たないよう注意を払っていた。

市場が立つ広場へ向かうと、多種多様な食材や日用品が並べられ、活気に満ち溢れていた。

地べたに筵(むしろ)を敷いて野菜を並べる行商人、木箱の上に包丁や農具を並べる職人など様々だ。小百合と同世代の少女が威勢よく声を張り上げている姿も見られる。

小百合は慎重に品定めをしながら、塩、米、わかめなどを買い揃えていった。小太郎が望んでいた魚は干物を選択した。買い進めるうちに、背負い籠はすっかり重くなった。

爺様から預かったお金と照らし合わせ、無駄使いがないか確認する。しっかり者の小百合であった。

世之介

一通りの買い出しを終えた小百合は、念願のビードロの櫛を見るため、大きな店構えの小間物屋へと足を向けた。

小物は店の軒先に陳列されていたため、店内に入らずとも眺めることができた。店は繁盛しているようで、大勢の客が出入りしている。その人混みに紛れ、棚に飾られた透明感のあるビードロの櫛を見つけた。

忙しそうに動く店の小僧に、小百合は意を決して声をかけた。

「小僧さん……このビードロの櫛はおいくらですか?」

「それかい? 五百文だよ」

「……五百文」

小百合の心がすーっと萎んでいった。とても手が出せる金額ではなかったからだ。買えるとは思っていなかったものの、これほど高価だとは思っていなかったのである。

「……仕方ないわね。小太郎さんにあめ玉でも買って帰りましょう」

そう呟き、小百合は小間物屋を離れた。

少し歩くと人通りが途切れ、白い塗壁の建物が見えてきた。教会(南蛮寺)であった。中から美しい歌声が漏れ聞こえてくる。ラテン語の賛美歌であった。当時の長崎周辺では異国化が進んでおり、賛美歌の響きも珍しくはなくなっていた。

その神秘的な響きに吸い寄せられるように、小百合は建物へ近づいた。

現代の教会のような壮麗なものではなく、日本家屋を改装した簡易的な施設であったが、屋根には十字架が掲げられ、壁は真っ白に塗り込められていた。

教会の入口上部には、極彩色の西洋画が掲げられていた。聖母マリアが幼子イエスを抱いている宗教画である。

小百合はその絵に目を奪われた。西洋画特有の精密で鮮やかな色彩、そして描かれたマリアの慈愛に満ちた優しい眼差しが、小百合の心を強く引きつけた。

「……なんて綺麗な……」

思わず吐息が漏れた。人づてに聞いていた「マリア様」の姿を、初めて目にした瞬間であった。

その様子を、物陰からじっと見つめる男がいた。

背が高く、細身の若者である。浅黄色(あさぎいろ)の着物に赤い小紋柄、黒の兵児帯を締めた姿はまるで歌舞伎役者のようであった。鼻筋の通った整った顔立ちと涼しげな目元を持ち、町を歩けば誰もが振り返るほどの美男である。

名を「世之介(よのすけ)」といった。

商家に生まれたものの、その容姿ゆえに身を持ち崩し、いまは地元の無頼漢たちの手先として泥臭い仕事を請け負っていた。女を扱うことに関しては天性の手腕を持ち、「女垂らしの世之介」を自称していた。

その世之介が目をつけたのが、小百合であった。

粗末な身なりをしてはいるが、小百合の素朴な可憐さは際立っていた。小柄ながら全体にハリがあり、若々しい生命力を横あふれさせている。

さらに、小太郎との間に芽生えた淡い恋心が、彼女に言葉にできない色香を纏わせていたのだった。

かどわかし

世之介はある人物から「人目につかない若い娘を一人連れてこい」と命じられ、物色しているところであった。

女を見る目だけは確かな世之介が、小百合という逸材を見逃すはずがなかった。

世之介は上唇をそっと舐めた。悪巧みをするときの癖である。彼は懐から十字架の首飾りを取り出し、手早く首にかけた。

そして物陰からしずしずと歩み出ると、絵画に見入る小百合の傍らを通り抜けようとした。その際、わざと軽く肩をぶつける。

不意の衝撃に驚いた小百合が振り返ると、世之介は少し怖めずくめた表情を作ってみせた。

「……おいおい、こんなところに突っ立っていたら邪魔だよ」

少し粗野な声に、小百合は慌てて頭を下げた。

「ご、ごめんなさい……!」

すると世之介は一転して表情を和らげ、極上の微笑みを小百合に向けた。

「……冗談だよ。怪我はなかったかい?」

あまりの美貌と、急に見せられた優しい笑顔。

純朴な小百合は、そのギャップに毒気を抜かれ、すっかり警戒心を解いてしまった。世之介はすかさず言葉を重ねる。

「……娘さんは、マリア様が好きなのかい?」

「……はい」思わず頷いてしまう。

「実はね、おいらもマリア様を深く信じていてね。毎日ここへお参りに来ているんだよ」

そう言って胸の十字架を愛おしそうに握りしめた。当然、計算し尽くされた演技である。

小百合にとって、キリシタンの人物と直接言葉を交わすのはこれが初めてであった。朴訥な小太郎とは対極にある洗練された世之介の佇まいに、新鮮な驚きを覚えていた。

「お名前はなんとおっしゃるの?」

「……小百合と申します」

「小百合さん……実に素晴らしい名だ。可憐な白百合の花が目に浮かぶようだね」

うぶな小百合にとって、そのような歯の浮くような甘い言葉は生まれて初めてであった。顔が火照っていく。

「あ……そうだ。実は教会の裏手に、もっと大きくて素晴らしいマリア様の絵と木像があるんだよ。すぐ近くだから、見ていかないかい?」

小百合の心が激しく揺れた。

あのように美しいマリア様をもっと近くで見たい。……しかし、見知らぬ男についていくのは分不相応ではないか。

葛藤を見透かした世之介は、さらに追い打ちをかける。

「まあ、無理にとは言わないよ。ただ……神父様が『あの絵は明日、南蛮本国へ送り返す』とおっしゃっていたからね。見られるのは今日が最後かもしれないな」

そう言って寂しそうに背を向けた。

「あの……!」

小百合は思わず呼び止めてしまった。世之介の唇が、暗く歪んだ。

「ご迷惑でなければ……一度だけお見せいただけますか?」

好奇心と聖母への憧れが、警戒心に勝ってしまった瞬間であった。

「もちろんいいとも。おいで」

世之介は素早く小百合の肩を抱き寄せるようにして、教会の裏手へと誘導していった。

南蛮人

教会の裏手には小さな勝手口があり、世之介はドアを少し開けて小百合を中へと引き入れた。

部屋は薄暗く広々としており、奥の壁には巨大なマリア像の絵画が掲げられていた。高窓から差し込む斜光が絵を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「……ああ、なんて綺麗なの……」

小百合はその神聖な美しさに息をのんだ。

「綺麗だろう? ……君も同じくらい綺麗だよ」

世之介の手が、小百合の腰に回り、強く引き寄せようとした。

その異様な力加減に、小百合は一瞬で正気に戻った。

「な、何ばすっとですか!?」

思わず素の長崎弁が飛び出す。眉間にシワを寄せ、世之介の手を振り払おうとした。

「帰ります!」

小百合がドアへ向かって駆け出そうとした瞬間、世之介の表情から笑みが消えた。

「させるかよ」

世之介は小百合の細い手首を掴むと、容赦なく背中へねじ上げた。

「佐平次さん! お願いします!」

世之介が奥の暗闇に向かって叫ぶ。

「おう、よく引っかけたな。上出来だ」

物陰から、数人の男たちが姿を現した。かつて道智を襲撃したあの佐平次であった。

世之介は捕らえた小百合を、佐平次の子分たちに向かって放り投げた。

「離して! お願い、離して!」

暴れる小百合に対し、佐平次は容赦なくそのみぞおちに拳を叩き込んだ。

「うぐっ……!」

小百合は息を詰まらせ、男たちの腕の中でぐったりと意識を失った。

佐平次は満足そうに笑った。

「世之介、手際が良くなったな。また頼むぞ」

そう言って懐から小判一両を投げ与えた。受け取った世之介は、いつもの倍の報酬に目を見張った。

「奮発しておいたぜ。上玉だからな。胸と尻の張った若い娘は、南蛮人どもが大好物なんでね」

佐平次たちは意識のない小百合を抱え上げ、隠し扉の奥へと消えて行った。

「へっ……可哀想にな。世の中『騙す奴』と『騙される奴』の二種類しかいねえんだよ。これもあいつの運命さ」

うすっぺらな処世訓を呟き、世之介は何事もなかったかのように口笛を吹きながら雑踏へと消えていった。

教会の地下通路は暗く湿っており、港の外れにある黒い板塀の館の地下室へと続いていた。

腕の激痛で、小百合は目を覚ました。後ろ手にきつく縛られた縄が肌に食い込んでいる。

自分が南蛮風の豪華なベッドの上に転がされていることに気づいた。

部屋の中央にある丸テーブルでは、小太りの南蛮人と佐平次が酒杯を交わしながら、いやらしい笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「ペドロ神父……いかがです? かなりの上物でしょう」

「オー……素晴らしいね。実にいいスタイルだ。気に入ったよ。……奴隷として船に乗せる前に、私がじっくり楽しむとしよう」

「へへへ、そうでなくっちゃいけません。ごゆっくりどうぞ」

佐平次はグラスの葡萄酒を一気に飲み干すと、嘲笑いを残して部屋を出て行った。

漆黒の地下室に、扉の重い閉塞音が響き渡った。

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