汚された十字架 (3)
性奴隷
大量の日本人少女が性的奴隷として、ポルトガルに連れて行かれていたことは史実である。
彼女らは日本貿易のポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫、黒人水夫の妾として売られていた。またマカオにも連れて行かれポルトガル人の奴隷となるだけではなく、奴隷であったマレー人やアフリカ人の奴隷とされていたという記録もある。
その数は50万人とも言われており、火薬一樽で50人の娘という相場があったという。
ペドロリアという名の南蛮人は、酒のせいで顔が赤らんでいる。小百合を見て上機嫌だ。
「日本の娘さん、いいね。もっとよく見せておくれ。おいジョアン」と召使いを呼んだ。
ドアを開け、がっちりとした黒人がのそりと入ってきた。ペドロリアの召使いとしてマカオの奴隷市場から買ってきた黒人だった。
「ジョアン。この娘を裸にしろ」
ジョアンと呼ばれた黒人は頷くとベッドの上の小百合に近づき、もんぺを脱がす。小百合は猿くつわをされていて声も出せない。
足をばたつかせて暴れるが、黒人の力は強い。服をびりびりと破かれ後ろ手のまま裸にされてしまった。
小柄だが、胸は張り出していて、腰は締まっている。若い肌は浅黒いが柔らかくシミひとつない。若さが作り出す生命の美である。
ペドロリアは立ち上がり、ズボンのベルトを外す。
「私、国の奥さんとはもう出来ないね。しかし日本の娘さんの前だと、とても元気になるよ」
近づいてくるペドロリアの姿を見て、小百合は目をむいた。
「ジョアン、しっかり抑えとけ」
ベッドの後ろから小百合に迫る。
小百合は処女であった。男性を受け入れる準備もなく、固く閉ざされていた。そんな事にはお構いなくペドロリアは行為に及ぶ。
凄まじい悲鳴が響き渡る。
小百合はあまりの苦痛に悶絶した。
ペドロリアはよだれを垂らしながら、目を閉じる。
気を失っている小百合の体はがくんがくんと揺れる。まさに地獄の有様である。
ペドロリアは、奇妙な歓喜の叫び声を上げた。そして小百合の体の上に覆い被さった。
小百合、十六才の春であった。
汚辱と脱出
小百合が意識を取り戻したのは、すっかり陽が傾きかけた夕刻のことであった。
室内には誰もいない。両手は後ろ手にきつく縛られたままであった。下半身に刺すような激痛が走る。ベッドの塗布(シーツ)は惨らしく汚れ、無残な痕跡を留めていた。
小百合は、自分が汚されたという残酷な現実を悟った。不意に小太郎の素朴な笑顔が脳裏に浮かぶ。大粒の涙がぼろぼろと溢れ、頬を伝い落ちていった。
昨日までの穏やかで楽しかった日々が、一転して地獄の暗闇へと突き落とされたかのようであった。
ひとしきり涙を流したあと、小百合は首を絞める縄の結び目がかすかに緩んでいることに気づいた。手首の皮が擦り剥けるのも構わず、無我夢中で手を動かし続けた。やがて縄が緩み、手首が解き放たれる。小百合は重い体を起こし、のそりと立ち上がった。
「……爺様、今戻ります」
そう低く呟くと、床に散らばっていた着物を掻き集めて身につけ、ドアへと近づいた。
胸の中は絶望と混乱で狂いそうであったが、頭のどこかが冷たく冴え渡っていた。戸口に耳を澄ますと、外にかすかな人の気配がする。見張りが立っているのだと直感した。
部屋を見回し、窓を探す。ギヤマン(ガラス)の嵌められた窓を見つけ、静かに歩み寄った。外を見下ろすと、夕暮れに染まる町には人影が疎らであった。
小百合は近くにあった重い木製椅子を持ち上げると、全腕の力を込めてガラス窓へ叩きつけた。
ガラシャーン——!
凄まじい砕砕音が静寂を破った。
間髪を入れず、小百合はガラスの破片が刺さるのも構わず、破られた窓から外へ飛び出した。
直後、部屋のドアが激しく開く音が響く。
「あのアマ、逃げやがったぞ! 追え!」
どたどたと慌てふためく足音が追ってきた。小百合は裸足のまま、痛みも忘れて一目散に疾走した。狭い路地を駆け抜け、大通りの市場を目指す。市場なら夕刻の買い物や明日の支度で人々がごった返しているはずであった。
五十メートルほど後方から、二人のチンピラが血相を変えて追いかけてくる。
「待ちやがれ!」
叫び声が迫る。小百合は「助けて!」と叫び声を上げながら、雑踏の中へと身を投げ込んだ。
その時、いつの間にか茂木の街の上に不穏な黒雲が広がっていた。今朝から不安定だった天候が急変し、小百合が人混みに紛れ込んだ途端、雷鳴が轟いて大粒の雨が叩きつけるように降り始めた。
突然の豪雨に市場は大混乱となった。雨宿りを求めて逃げ惑う人々、商品を濡らすまいと慌てる行商人で溢れ返る。小百合はその喧騒を縫うように、夢中で人々を押し分けて進んだ。
追っ手たちは小百合の姿を見失いそうになりながらも、しつこく背後を追ってくる。雨はいっそう激しさを増していった。
逃走
小百合は走った。
ただ、一目散に走り続けた。何も考えられなかった。冷たい大雨が顔を叩き、全身を濡らす。その激しい苦痛が、いまの小百合にはむしろ心地よかった。この穢れをすべて洗い流してほしいと、心の中で雨の神に祈り続けた。あんなに憧れていたマリア様の優しい顔は、もはや脳裏には浮かばなかった。
山へ続く獣道を見つけ、そこへ滑り込む。
時折振り返り、誰もついてきていないことを確認しては再び疾走した。何度も何度も後ろを確かめながら、がむしゃらに山道を登り続ける。
集落へ通じる脇道へ飛び込んだ。藪が生い茂る道なき道だ。笹や小枝が肌を傷つけるのも気にならない。破れた着物が枝に引っかかって千切れ飛ぶが、顧みる余裕などなかった。足元の尖った石で足裏は切り刻まれ、血まみれになっていた。
どこをどう走ったのか、記憶さえ定かではない。やがて、樹々の隙間から見慣れた爺様の家が見えてきた。雨はいつしか小雨に変わっていた。周囲はすっかり暗闇に包まれている。小百合は爺様の家の小さな灯りを目指して駆け寄った。
「……爺様!」
玄関の戸を力任せに開けた。土間に倒れ込むように入ると、驚いた顔の爺様と目が合った。
「どうしたのじゃ、小百合! 心配しておったぞ……!」
爺様は小百合の姿に息をのんだ。着物はボロボロに引き裂かれ、足は血みどろで、見るも無惨な姿に変果てていたからだ。
「爺様……っ」
小百合は絞り出すように声を上げた。その瞬間、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。激しい嗚咽が全身を揺らし、小百合は土間に崩れ落ちた。
只事ではない事態を察した爺様は、優しく声をかけた。
「……小百合、風邪を引くぞ」
手ぬぐいを手に取り、泣きじゃくる小百合を抱きかかえるようにして水場へ連れて行った。全身の汚れを丁寧に拭ってやる。そして傷だらけの足元を拭いていたとき、小百合の太ももに付着した乾いた血痕を目にし、爺様は何が起きたのかを悟った。
「……そうか。もう泣かんでいい。生きて戻ってきてくれた……それだけで良い、良かった……」
爺様は肩をさすりながら、静かに呟いた。
その時、玄関の戸が激しく叩かれた。小太郎の声が響く。
「爺様! 小百合さんが戻ってきたとですか!?」
必死の叫びであった。爺様は玄関へ歩み寄り、戸越しに静かな声で答えた。
「……小太郎さんかい。大丈夫じゃ、小百合は戻ってきたよ。町で少し気分が悪くなったようでな、遅くなったんじゃ。今日はもう休ませるから……心配してくれてありがとうな」
「そうでしたか……良かった、無事だったんですね」
小太郎の声に安堵の色が混じる。
定刻になっても小百合が戻らないため、気が気ではなかったのだ。町まで探しに行こうとした矢先、爺様の家から気配がしたため駆けつけたのだった。
顔を見て安心したかった小太郎であったが、戸が開かないためそのまま引き返すことにした。雨は上がっていたが、冷たい山風が吹き抜けていく。厚い雨雲が月を遮り、闇は深かった。小太郎はぬかるんだ畦道を一歩一歩踏みしめ、炭焼き小屋へと戻っていった。
拉致
翌朝、再び雨が降り出したため畑仕事は休みとなった。朝餉を運んできたのは爺様一人であった。
「小太郎さん。小百合は風邪気味でな、当分は家から出られんと言っておる。心配いらんよ」
爺様は寂しげに微笑み、朝餉を置いて去っていった。添えられた握り飯はいびつな形をしていた。爺様が慣れない手つきで握ったものであろう。
小太郎は不安を隠せず、道智に尋ねた。
「道智様……小百合さんは本当に大丈夫でしょうか」
「うーむ……」
道智はポリポリと沢庵を噛みしめている。
「爺様が大丈夫と言っておるのだ、大丈夫じゃろう」
ひょうひょうと答える道智であったが、その手は無意識に髭の伸びた顎を撫でていた。小太郎は知っていた。それは道智が深く思案するときの癖である。道智もまた、異常を察しているのだ。小百合の明るい顔が見られないだけで、小太郎の心は暗く沈んだ。
冷たい雨は一日中降り続き、止む気配を見せなかった。
そして、小太郎の嫌な予感は的中する。
畑の奥の暗い林の中に、雨合羽を羽織って爺様の家を伺う二人の男の影があった。佐平次の手下どもである。ペドロリアの元から逃げ出した小百合を追ってきたのだ。昨晩の大雨で見失っていたが、山道に残された着物の切れ端と血痕を辿り、ついにこの集落を突き止めたのである。
男たちは不気味に頷き合うと、林の闇の中へと姿を消した。
雨はいっそう激しさを増す。それは嵐の前触れのようであった。
一日中降り続いた雨がようやく上がったのは、夕暮れ時のことであった。濃い夕闇が集落を包み込む。
突如、しんと静まり返った闇を切り裂いて、鋭い悲鳴が響き渡った。小百合の家からであった。
不安で眠れず、布団の中で横になっていた小太郎は、その悲鳴を聞くや否や跳び起きた。手元にあった薪を握り締め、夢中で爺様の家へと駆け出した。
玄関は倒れ開かれ、土間には爺様が血を流して倒れていた。
「爺様! どうしたとですか! 小百合さんは!?」
駆け寄った小太郎に、瀕死の爺様は途切れ途切れに声を絞り出した。
「男どもが……小百合を……連れて行きおった……」
それだけ言うと、爺様は意識を失った。
頭が真っ白になった小太郎は、表へ飛び出すと里へ通じる山道をがむしゃらに疾走した。
足の速い小太郎が峠の差し掛かりに追いついたとき、前方に数人の影が見えた。大柄な男が小百合を担ぎ上げている。
「待たんかい! お前たち、小百合に何ばするとか!」
小太郎の裂帛の叫びが響いた。
人影が足を止める。月の光の下に現れたのは、先日道智を襲撃したチンピラどもの顔であった。猿ぐつわをはめられ、必死にもがく小百合の姿も見えた。
「またお前か、ガキが! 関わりあうなと言ったろうが!」
「小百合さんば返せ!」
完全に理性を失った小太郎は、五メートルほど手前から一気に跳躍した。チンピラの頭上から、手に持った重い薪を上段から叩きつける!
不意を突かれたチンピラはかわしきれず、肩口に激しい一撃を受けた。重い呻き声を上げて倒れ込む。
「次は誰だ!?」
小太郎は薪を構え直した。剣術など習ったこともなく、構えは腰が引けて無茶苦茶であった。しかし、全身から立ち上る凄まじい怒りと気迫に、残る男たちは思わず後ずさりした。
茂木の港
「……小太郎と言ったな」
暗闇の奥から、低い静かな声が響いた。
「邪魔立てするな。子供を斬りたくはない」
月の光が差す場所へ、ゆっくりと歩み出てきた侍がいた。柄に手をかけたその姿から、圧倒的な殺気が放たれる。
「お前もあの時の……!」
小太郎は本能的な恐怖を感じて足を止めた。
「やい侍! なんであんたみたいな奴が人さらいの手伝いばするとか! 武士の誇りはないとか!」
侍は無言のまま、じりじりと間合いを詰めてくる。小太郎は咄嗟にしゃがみ込むと、足元の石を掴んで力任せに投げつけた。
得意の石つぶてである。しかし、間合いが近すぎた。侍は小太郎の大振りの動きを冷徹に見切り、鋭く一歩踏み込む。月光の下で、抜き身の刀が一閃した。
ドスッという音とともに、小太郎は声もなく崩れ落ちた。一瞬の早業であった。
「峰打ちだ。死んではおらん」
侍はそれだけ言い残すと、小百合を抱えた手下どもとともに闇の中へ消えて行った。
数分後、倒れていた小太郎は強く肩を揺すられて目を覚ました。起こしたのは道智であった。
「小太郎! 小百合はどうした!?」
「すんません、道智様……! あいつらに連れて行かれました……! 恐ろしく強い侍も一緒ばい……!」
道智は去っていった闇の奥を睨みつけた。
「やはりあの者たちか……。長崎の娘たちを海外へ売り飛ばしているキリシタンの一味については、わしも探りを入れておったのだ。首謀者はイエズス会の宣教師らに取り入っている悪徳南蛮商人よ」
小太郎は打たれた身体を摩りながら立ち上がった。
「それじゃ、小百合さんは外国に売られてしまうとですか!? 助けに行かんば!」
「うむ。今夜のうちに、教会領である茂木の港から沖合の南蛮船へ連れ込む気だろう。役人に訴えたところで、あそこはイエズス会の治外法権だ。捜索などできん。……行くぞ小太郎! 茂木へ先回りするのだ!」
「わかりました! おいは近道ば知っとります! ついてきてください!」
小太郎は山道へ躍り出た。
「よし! どれほどデウスとやらが偉かろうと、日本の娘を売買してよい道理など断じてない!」
道智も金剛杖を握り締め、小太郎の後を追って疾走した。
茂木(もぎ)は長崎港と山を挟んだ反対側に位置する古い港町である。大村純忠が長崎とともにイエズス会へ寄進したため、茂木の町全体が教会領となり、キリスト教布教の重要拠点となっていた。
穏やかな橘湾に面した美しい海岸線は古くからの漁場であり、「裳着(もぎ)」の名は昔、神功皇后が衣装を整えたという伝承に由来する歴史ある地であった。
ペドロリア
月光が照らす茂木港の沖合に、巨大な異国船が不気味に浮かんでいた。
港の外れにある黒板塀の小屋には、両手両足を縛られ、猿ぐつわをはめられた三人の少女たちが囚われていた。小百合以外の二人は町の商人の娘らしく、気丈な小百合は泣き叫ぶこともせず、じっと機会を伺っていた。
「ペドロリア様、約束通り上物の娘を揃えましたぜ。一度逃げ出したあの小百合って娘も連れ戻してやりました。さあ、約束の金を払ってもらいましょうか」
ペドロリアと呼ばれた男は、スペイン人の商人であった。
「オー、小百合さん。また会えて嬉しいですよ。ふむ、他の二人も素晴らしい。フランスの客が喜びそうだ。特別に小判三枚を払いましょう」
ペドロリアは品定めするように少女たちの着物の裾を捲り上げ、生々しい欲望の目を向けた。その執拗で不快な触愛に、少女たちは屈辱に身をよじらせ、涙を流した。
検分を終えたペドロリアは、ポケットから重々しい小判を取り出した。佐平次が手を伸ばそうとすると、傍らに立っていた侍がそれを押し退け、直接小判を受け取った。重さを確認すると、そのうちの一枚を佐平次へ投げ与える。佐平次は一瞬顔をしかめたが、黙って小判を懐に収めた。
「佐平次、この娘たちを船へ運べ」
侍はそう命じると、ペドロリアを一瞥して小屋の外へ出て行った。
「佐平次さん、日本の侍は相変わらず不気味ですね……」
「蛇之助様は特別だ。余計な口を叩かん方が身のためだぞ」
「……そのようですな。そうそう、連れ戻してくれた小百合という娘は、私と同じ船で一足先に『マリア号』へ運ぶとしましょう。あの娘は特に気に入りました。このまま渡すのは勿体ない」
下卑た笑みを浮かべ、ペドロリアは小屋を後にした。
*
茂木の町は、深夜十時を過ぎて静まり返っていた。
山を越えて駆けつけた小太郎と道智は、物陰に身を潜めて港の様子を伺っていた。やがて、黒板塀の小屋から侍と異国人が出ていくのが見えた。
「小太郎、行くぞ! 船に乗せられたら終わりだ!」
二人は闇を突いて小屋へと肉薄した。
小太郎が先陣を切って内部へ忍び込む。しかし、広い室内にはすでに誰の姿もなかった。奥へ進むと、海へ直接通じる勝手口が開いていた。
戸を開けると、ちょうど佐平次が伝馬船に乗り込み、二人の少女を乗せて岸を離れようとしている瞬間であった。
船繋ぎの縄を解いていた巨漢の手下が、小太郎の存在に気づいた。
「ガキが!」
素早い動きで駆け寄ると、小太郎の襟首を掴み、みぞおちに強烈な拳を打ち込んだ。
「ぐはっ……!」
小太郎は呻き声を上げ、膝から崩れ落ちた。
蛇之助
伝馬船の佐平次は異変に気づき、慌てて櫓を漕ぎ出した。
一方、小屋の外で待機していた道智は、月光に一閃する鋭い鉄の光を捉えた。
一瞬の判断で身体を低く沈める。ブオンと空気を切り裂く刀身が、道智の頭上すれすれを通り過ぎた。
間一髪であった。道智は横へ転がり、体制を整えると金剛杖を静かに構えた。
月明かりが刺客の顔を照らし出す。侍・槇蛇之助(まき じゃのすけ)であった。
「侍よ……おぬしの行いは武士の道に反しておる。金のためか? 大和の武人もしおれたものだな」
蛇之助は一度抜いた刀を鞘へと戻した。居合による再度の斬撃を狙う構えである。
「坊主、邪魔をするな。立ち去らねば斬る」
「なぜ娘たちを異国へ売る? それがキリシタンの教えか?」
「……貴様には関係のないことだ」
蛇之助はじりじりと間合いを詰めてくる。
「なぜ我らを狙う? イエズス会の宣教師らの指示か?」
「宣教師様方は直接手を汚さぬ。だが、すべては我が主家のため。道智よ、貴様の名は知っている。司教殿にとって目の上の瘤だからな」
「主家と言ったな……大村か、有馬か、それとも大友か!?」
「……答える必要はない。宣教師らは表向き聖人を装うが、裏では奴隷商人らと深く繋がっておる。我らも異国の富と武器が欲しいのだ。戦国の世、少数の犠牲などやむを得ん」
潮風が吹き抜け、波しぶきが舞い散る。
「……なんと浅ましい。腐り切った侍だ。やはりイエズス会は日本を侵略する気だな!」
「過激なことを言うな、坊主。貴様ら仏僧とて同じであろう? 仏の名のもとに武器を取り、大名らと血で血を洗う戦を繰り広げてきたではないか。どれほどの人間が死んだと思っている? 正義の味方気取りは反吐が出る。覚悟しろ!」
一風変わった反論に、道智は一瞬言葉を詰まらせた。確かに一向一揆など、仏教勢力が世を乱した歴史も事実であったからだ。
宗教が権力と結びつき、暴力を正当化する怖さを道智も熟知していた。
「……我らは民の救済のために立っておる」
「ふん、自分たちだけが正しいと思い込む……それこそが異国の神を信じる者たちと同じ歪みなのだよ。正義など、どこにでも転がっている」
「……問答は無用か。言葉で誤魔化そうとも、娘たちを売り飛ばす悪行が正当化できると思うな!」
ツバメ返し
「……そうだな。だが、勝てば官軍だ。勝利こそが正義なのだよ。異国の神も『自分以外の神はすべて悪魔だ』と教えておられる。実に分かりやすいではないか」
蛇之助の瞳には、冷酷な決意だけが宿っていた。
「喋りすぎたな。道智とやら……死ぬ前に名乗っておこう。夢想神伝流免許皆伝、槇蛇之助だ」
風が一層強まり、道智は波打ち際へと追い詰められていった。
「蛇之助……何を信じようと勝手だが、武士としての恥を感じんのか!」
「……武士の心など、とうの昔に捨てた。朝夕に拝んでいた仏とて、我が一族を見捨てたのだからな。いまの拙者は、異人の言うサタン(悪魔)かもしれん」
蛇之助は月が雲に隠れる一瞬を狙っていた。
左手で鯉口を切り、深く腰を落とす。下段からの逆袈裟斬り——必殺の居合である。
道智の背後で大波が岩に砕け、激しい水しぶきが二人を包み込んだ。
シャアッ!
蛇之助の刀が鞘を離れた。次の瞬間、道智の身体が信じがたい高高さへと跳ね上がった。金剛杖を地面に突き立て、棒高跳びの要領で躍り出たのだ。蛇之助の刃は空を切り、金剛杖の半ばを真っ二つに叩き斬った。
道智は空中——だが、まだ斬られてはいない!
蛇之助は驚異的な腕力で刀の軌道を反転させた。いわゆる「燕返し」の太刀筋である。反転した刃が、空中の道智の下半身を狙って跳ね上がる!
その瞬間、道智は懐から取り出した砂利を蛇之助の顔面へ向けて叩きつけた。
「なっ……!?」
一瞬、蛇之助の視界が眩む。その僅かな隙を逃さず、道智は空中で蛇之助の刀身を足で蹴り飛ばすと、残された半分の金剛杖を全身の力を込めて振り下ろした。
ガツン……!!
嫌な鈍音が響いた。
道智の折れた金剛杖が、蛇之助の右肩を粉砕したのだ。間一髪、道智は死地を脱した。
着地した道智の全身から、脂汗が吹き出す。雲が切れ、月光が倒れ伏す蛇之助の姿を惨らしく照らし出した。
投石の軌跡
道智は急いで小太郎を探した。見ると、佐平次の伝馬船がすでに沖の南蛮船へ向かって進んでいる。
「小太郎!」
小太郎は吐き気を堪えながら、懐の石を使って先ほどの巨漢の手下を倒したところであった。
伝馬船はすでに岸から五十メートルほど離れていた。小太郎は懐から、角を削った特製の石を掴み出した。深く呼吸を整え、波に揺れる小舟を睨みつける。
「……つぶてで狙う気か!?」道智は息をのんだ。
小太郎はゆっくりと左足を上げ、体を深々と沈め込むような構えを取った。
アンダースロー——アンダーハンド投法である。
小太郎は毎日、日暮れまで石を投げ続けてきた。手首のスナップ、指のかけ方、そして石の形状……すべてを試行錯誤して辿り着いた独自の投球フォームであった。
今回の標的は、揺れる船上で櫓を漕ぐ佐平次だ。距離があり、波で上下左右に揺れている。高軌道で投げれば風に流され、相手にも察知されて避けられてしまう。だからこそ、波頭すれすれの低空を飛ぶアンダースローを選んだのだ。
小太郎の脳裏に、小百合の笑顔が浮かんだ。
「……小百合さんは、俺が助ける……!」
ブンッ!
腕がしなるように振られた。指先を離れた特製の石は、水面ギリギリを切り裂くように一直線に飛んでいく。
そして伝馬船の直前で、石は水面の空気抵抗を受けてフワリと急浮上し、佐平次の後頭部へ一直線に吸い込まれた。
バキッ……!!
「ぎゃああっ!?」
悲鳴が上がり、佐平次が船底へ転がり落ちるのが見えた。
「当たった……! やったぞ!」
小太郎は近くに繋がれていた別の小舟に飛び乗った。
「待っていてください、小百合さん! 今行きます!」
小太郎は手早く纜(もやい)を解くと、猛然と櫓を漕ぎ出した。道智も安堵の息を漏らした。
*
道智の足元で、蛇之助はまだ息があった。だが肩の骨は粉々に砕け、大動脈が切れて血が溢れ出している。死期は目前であった。
蛇之助は霞む目で道智を見上げ、掠れた声で語り始めた。
「……道智よ……お主なら分かるはずだ……武士がどんな生き方を強いられるかを……。わしもかつては……殿のもとで功名を立て……家を興すことを夢見ていた……。
だが戦に敗れ……卑怯な殿らは我らを見捨てて逃げた……。一族を殺され……我が家を焼かれ……そこで初めてこの世の無常を知ったのだ……。
流れてこの長崎へ辿り着き……異国のデウスの教えを聞いた……。すべてを失った拙者は……生きる意味が欲しかったのだ……。だからデウスを選んだ……。バテレンは『己の意志で道を選べ』と言った……拙者も、自らの意志で主を選びたかったのだ……だからこそ……」
「……蛇之助、もうよい」
道智は静かに膝をついた。
「わしもかつては侍であった。お前の味わった地獄はよく分かる。……ただ、選んだ道が違ったのだ。わしは仏に救いを求め、お前はデウスに救いを求めた。わしはデウスの教えそのものを憎んではおらん。わしが許せぬのは、信仰を隠れ蓑にして人の道を外れる者たちの邪悪な心なのだ」
「……そうか……」
かすかな呟きを残し、蛇之助の瞳から光が消えた。また一つ、時代に翻弄された魂が消え去った。
南蛮船
小太郎が、解放した二人の少女を乗せて岸へ戻ってきた。船を寄せるなり、小太郎は悲痛な声を上げた。
「道智様! 大変です! 小百合さんがいません!」
「何だと!?」
道智が沖へ目をやると、別の小さな船が南蛮船のタラップ(タラップ梯子)へと横付けされるのが見えた。
「しまった……ペドロリアの奴、小百合だけを別船で運んだか!」
小太郎は絶望に打ちひしがれ、激しい波が打ち寄せる海を見つめた。塩混じりの冷たい夜風が容赦なく顔を叩く。闇に聳える巨船の威容に、小太郎の胸は不安と恐怖で押し潰されそうであった。
「……道智様、小百合さんはあの船に……?」
「うむ……間違いないだろう」
「小百合さんば拉致して、どうする気でしょうか……」
「噂通りであれば……日本の娘たちを数千人単位で国外へ連れ去り、奴隷として売り払う気だ」
「誰がそんな酷いことを……!」
「小太郎よ……いま日本は戦国時代だ。諸大名は生き残りのために必死であり、そのためには西洋の強力な兵器……鉄砲や火薬が必要なのだ。火薬一樽につき日本人の娘五十人……そうした惨烈な取引が行われているのが現実なのだよ」
道智は静かに合掌した。
小太郎の胸に、激しい義憤が湧き上がった。
「道智様! あの船に乗り込んで、小百合さんを助け出しましょう!」
道智は思案するように腕を組んだ。
「……そうだな、小太郎。我ら仏に仕える者は人を救うためにある。だが、相手は巨大な軍艦だ。強力な大砲や鉄砲を備え、異国の兵たちが固めている。闇雲に突撃しても命を散らすだけだ。……わしに考えがある」
道智の目が凛と光った。
「行くぞ、小太郎!」
「はい!」
二人は助け出した少女たちを安全な場所へ避難させると、しばし海岸に立ち尽くし、漆黒の海に浮かぶ巨船を睨み据えた。
*
当時、日本人が「南蛮船」と呼んでいたのは主にスペインやポルトガルの大型渡航船であった。
歴史記録によれば一五四二年にポルトガル船が琉球へ漂着したのが最初とされる。琉球側はポルトガルによる東南アジアの支配を知っていたため交易に応じなかったが、一五五〇年に平戸へ入港して以来、大量の南蛮船が来航するようになった。
当時の南蛮船は単なる商船ではなく、強力な大砲で武装した要塞そのものであった。海賊の襲撃に対抗するため軍艦と同等の戦闘力を備えており、かつて日本側の大型船三隻をいとも簡単に撃沈した記録もある。
茂木沖に停泊している船は、二本マストに三角帆を張った「カラベル船」と呼ばれる大型船であった。排水量五百トン、全長五十五メートル、最大幅十一メートル。闇の海に佇むその姿は、まさに立ち塞がる要塞であった。
三人の僧
山奥の隠れ里へ戻ると、爺様の家には近所の人々が集まっていた。
爺様は、乱暴された際の頭部への痛打がもとで、息を引き取っていたのだった。道智と小太郎は家の近くに深い穴を掘り、爺様の遺体を懇ろに葬った。
翌朝、道智は不意に姿を消した。そして昼過ぎ、二人の人物を伴って戻ってきた。
「戻ったぞ」
道智の背後から、圧倒的な存在感を放つ二人の僧が現れた。一人は二メートル近い巨漢、もう一人は眼光の鋭い痩せ型の男であった。
「小太郎、助っ人を連れてきた。真言宗の西空(さいくう)殿と、曹洞宗の恵瓊(えけい)殿だ」
巨漢の西空が豪快に笑った。
「おう、お前が小太郎か! よろしくな!」
痩せた恵瓊は静かに手を合わせた。
「恵瓊と申す。道智殿から話は聞いた」
「あ……初めまして! 小太郎です! よろしくお願いします!」
小太郎は驚いたが、二人の醸し出す圧倒的な強者の気配に、胸の奥から闘志が湧き上がるのを感じた。
「小太郎よ、道智殿からお主が『石つぶて』の名手だと聞いている。何かの役に立つかと思い、これを持ってきた」
巨漢の西空が懐から取り出したのは、細長く削り出された手裏剣のような「独鈷杵(どっこしょ)」であった。密教において煩悩を打ち払うための法具である。
「小太郎、今度の敵は身を守る術に長けた者たちだ。単なる石コロでは決定打に欠けるかもしれん。この独鈷杵は帝釈天の武器の化身。これを投げ破る術を授けよう」
西空はそう言うと、手首を軽くスナップさせて独鈷杵を放った。
ヒュンッ! カツン……!
金属片は一直線に飛翔し、数メートル先の太い柱へ深々と突き刺さった。
「これを習得しろ。石投げと原理は同じだが、重心の扱いが異なる。百発百中になるまで叩き込め!」
「はいっ!」
小太郎は引き締まった顔で頷いた。道智が静かに語りかける。
「宗派は違えど、いまは国難の時。仏に仕える者として暴力は本意ではないが、邪悪な悪行を目の前にして黙視することはできん。西空殿は怪力無双、恵瓊殿は体術の達人、そしてわしの棒術……この三人で作戦を練る。小太郎、お主は茂木の港へ向かい、船の警備状態を探ってまいれ」
「わかりました!」
三人は囲炉裏を囲み、真剣な表情で作戦会議を始めた。小太郎はその気迫に圧倒されつつも、茂木へ向けて山道を駆け出した。
小百合を救い出すこと。そして同世代の少女たちが海外へ売られるのを阻止すること。それが今の小太郎のすべてであった。
内偵
茂木の町は大村純忠によってイエズス会へ寄進された土地であり、住人の多くがキリシタンであった。
小太郎は山あいから流れる小川に沿って町へ潜入し、物陰に身を隠しながら偵察を開始した。
南蛮貿易の影響で町は活気に満ちており、中央の集会所には十字架が掲げられ、教会として機能していた。
港には立派な桟橋が整備され、大型船が接岸できるようになっている。少し離れた場所には、先日小百合たちが囚われていた黒板塀の小屋が存在した。三棟が連続した細長い構造で、海へ直接突き出た作りになっており、外部から人知れず乗り降りできるよう工夫されていた。
小太郎が近づこうとした瞬間、数人の警備の男たちが小屋の周りを警戒し始めた。昨夜の蛇之助の死と小百合たちの脱走事件を受け、警備が大幅に強化されていたのだ。武士の姿もあり、緊張感が漂っている。
そこへ頭に包帯を巻いた男が現れた。佐平次であった。小太郎の石つぶてを後頭部に受けたものの、悪運強く生き延びていたのだ。佐平次は苛立った様子で見張りたちに指示を出している。
やがて、幌のついた荷馬車がやってきた。小屋の入り口にぴったりと横付けされると、馬車から侍と商人が降りて周囲を警戒した。見張りたちが人垣を作る。
小太郎は目を凝らした。人垣の隙間から、女性の着物の裾がチラチラと見えた。一人ではない。佐平次と侍が彼女たちを挟むようにして歩き出し、街の中央にある洋館へと引き連れていった。
「……あの中に小百合さんがいる!」
小太郎は洋館への潜入を決意した。
洋館は白い柵で囲まれていた。人目が切れた瞬間を狙い、裏手の木へ登ると、塀を飛び越えて庭へと着地した。
日本の家屋とは全く異なる建築様式であった。窓には透明なギヤマン(ガラス)が嵌め込まれている。幸いにも鍵はかかっていなかった。身の軽い小太郎は、忍びのように静かに窓から室内へ滑り込んだ。
部屋を見回した小太郎は、息をのんだ。
見たこともない異国の品々が整然と並べられていた。丸いテーブル、暖炉、銀の燭台、眼鏡、精巧な鉄砲、そして壁に掛けられた鮮やかな油彩画……。
高度な西洋文明の一端がそこにあった。キリシタンたちが「自分たちは日本人より優れている」と傲慢になる理由を、小太郎は直感的に理解した。
だが——どれほど高度な文明を持っていようと、人間を売り買いする行為が許されるはずがない。
小太郎の優れた客観性と純粋な倫理観が、西洋文明の華やかさの裏に潜む「致命的な邪悪さ」を明確に捉えていた。
