汚された十字架 (5)

異国の血を引く者

左馬之助は左手で腰の刀へ手を伸ばした。抜く手を見せかけたのは一瞬のフェイントであり、すぐさま右手で背の長刀を一気に引き抜いた。一閃と呼ぶにふさわしい凄まじい太刀筋が、恵瓊(えけい)の首級を狙って襲いかかる。

恵瓊は疾風のごとく飛び退がった。だが、背から放たれた刀は異様に長く、通常の刀よりも一尺(約三十センチ)は長い。後年の剣豪・佐々木小次郎が愛用したとされる野太刀「物干し竿」を彷彿とさせる長剣であった。本来、長刀は抜刀が難しいとされるが、左馬之助はそれを瞬時に引き抜いてみせたのだ。

あまりのリーチに、恵瓊の跳躍をもってしてもかわしきれない。極限の判断のもと、恵瓊は迫る刃を両の手のひらでバチィン! と挟み込んだ。

真剣白刃取り——。

人間離れした動体視力と反射神経を備えた恵瓊だからこそ成し得る、神業であった。

恵瓊は信州の深山にある貧村の生まれであった。極貧の暮らしのなかで幼い弟妹はことごとく餓死し、病によって両親も失った。曹洞宗の寺の門前で今や行き絶えようとしていた恵瓊を、通りかかった僧侶が不憫に思って引き取ったのだった。

「南無釈迦牟ニー仏」と念仏を唱える修行のなかで、恵瓊は己の孤独と対話し続けてきた。世を怨むことも、我が身の不遇を嘆くこともなく、ただ全身全霊で身体を鍛え上げることで絶望を乗り越えてきたと自負している。

道智とは修行の途上で巡り会った。目が合ったその一瞬で、心の中に過酷な地獄を抱える者同士、魂が共鳴した。以来、宗派の違いを超えて深い友情を育んできたのだった。

恵瓊は理屈や感情で動く男ではない。直感で身体が反応する。白刃が眼前へと迫ったとき、反射的に身体が動いて刃を受け止めていたのだ。

これには左馬之助も目を見張った。

「……ほう。噂には聞いていたが、素手で白刃を止める者が本当に存在しようとはな」

左馬之助は刀から手を放し、するりと後方へ下がる。

恵瓊は無言で刃を投げ捨て、再び構え直した。だが、その両手は血に染まっていた。太刀の凄まじい威力を完全に殺しきれず、手のひらの肉が深く裂けていたのだ。

「……小太郎、女子(おなご)たちを守れ。こいつの剣は武芸者のものではない。ただ敵を殺すためだけに磨かれた『殺人剣』だ……相討ちを覚悟せねば勝ち目はない」

恵瓊は腰に差していた二本の黒い棍棒を取り出した。ヌンチャク(双節棍)である。

素手で立ち向かうのは危険と判断したのだ。左馬之助はその武器を冷ややかに見据えた。

「……ほう、唐(明)の武器を使うか。面白い。貴様の武芸は尋常ではないな。だがな、坊主……上には上がいるのだよ。私を見てみろ。私は純粋な異国人ではない。大和の男の血も流れている。だが、私には異人の血が半分流れているのだ。だからこそ、お前たち日本人より強いのだ」

左馬之助はじりじりと間合いを詰めてくる。

「……そうかもしれんな。だが、どんな血が流れていようと、人は人だ。そこに上も下もあるものか」

左馬之助の瞳に不吉な光が宿った。

「上も下もない……だと? ならば私をなんと見る!? 一人の人間として、日本人として認めてくれるのか!? 私の父は日本人、母はスペイン人だ!

この国で私を愛してくれた者など、ただの一人もいなかった! 幼少の頃は石を投げられ、忌み嫌われ、のけ者にされた! 私に何の罪があるというのだ!? 日本人は残酷だ……私を庇ってくれた者さえ、無惨に痛ぶり殺したのだからな!」

左馬之助の言葉は熱を帯び、自らの過酷な運命に酔い痴れていく。

恵瓊は無言のまま、気配を研ぎ澄ませていた。

「坊主……この長崎には、私のような混血の者が増えている。この船にいる女子たちが異国の男と交われば、新たな子が生まれるのだ。世界中に私のような存在が増えればいい。そうすれば、日本人だの異国人だのという不毛な区別など消えてなくなるはずだ……!」

愛なき落とし子

「……その通りかもしれんな」

恵瓊の短い返答に、左馬之助は嘲笑を浮かべた。

「そうだろう? そうなれば国同士の争いなど失せ、仏法で言う極楽、キリスト教のいうパラダイスが完成するのだ。この女子たちは、そうした高貴な理念を果たすために海を渡るのだよ」

「……何を寝ぼけた世迷言を言っているのだ」

恵瓊の声音が冷たく響いた。

「お主の理屈には一理あろう。だが、やり方が根本から間違っている。子というものは、男と女が心から慈しみ合って生まれてこそ、宝となるのだ」

左馬之助の眉がピクリと跳ね上がった。

「……ならば、私はこの世に必要のない存在だとでも言いたいのか!? 私の母は、日本の大名の物珍しさから玩ばれた! 私を身ごもると殺されそうになり、命からがら城を抜け出して隠れ住み、私を産み落としたのだ!

私には父の愛など一滴も注がれていない! そんな子は宝ではないと言うのか!? 私は生まれてくるべきではなかったと申すか!?」

左馬之助は激昂し、叫び声を上げた。

「坊主どもは……お前のようにきれい事ばかり口にする奴らばかりだ! 所詮は色と欲に塗れた汚らわしい存在……お前のような奴は、この私が引導を渡してやる!」

左馬之助の理性の糸がプツリと切れた。

恵瓊を射抜くような目で見据えると、揺らめく影のごとく、すり足で急接近してくる。

恵瓊は両手のヌンチャクを高速で旋回させ始めた。

左馬之助の右手が一瞬で柄へ伸びる。

疾走しながら刀を抜いた。だが、抜いたのは長刀ではなく、腰の脇差(小刀)であった! そしてあろうことか、その短刀をそのまま恵瓊の胸元へ向けて投げつけたのである。通常の武士ならば決して用いぬ邪道な戦術——ただ勝利のみを追求する刺客の立ち回りであった。

鋭い速度で飛来する小刀を、恵瓊はヌンチャクの鎖で弾き飛ばした。だが、左馬之助はすでに目の前まで肉薄していた。間合いは一メートルもない。

恵瓊は真上へ跳躍しようとした。

だが、左馬之助は大刀を「抜く」ことはしなかった。大刀の「柄頭(つか頭)」を、そのまま恵瓊の身体へ突き刺そうとしてきたのだ。柄頭には、隠しスイッチで飛び出す極小のナイフが仕込まれていたのである。

死角からの不意打ち——!

恵瓊は跳び上がったものの、刀を抜くという予測を裏切った仕込み刃の襲来に、わずかな反応の遅れが生じた。そのコンマ数秒の差が、恵瓊の驚異的な反射神経を上回ったのだった。

ガツッ!

恵瓊の左太ももに、極小の刃が深く突き刺さった。

激痛に体勢を崩し、恵瓊はそのまま左馬之助の目前へ落下した。

左馬之助は流れるような動作で、左腰の革帯(ホルスター)へ手を伸ばした。短筒を引き抜き、恵瓊の額へ照準を合わせるまで一秒とかからなかった。

そこに躊躇のの色はない。

引き金が引き絞られようとしたその瞬間、左馬之助の顔が苦痛に歪み、動きがピタリと止まった。

見れば、小太郎の放った「独鈷杵(どっこしょ)」が、左馬之助の左腕の二の腕に深々と突き刺さっていたのだった。

しかし、左馬之助は苦痛に耐えて引き金を引いた!

ズドン……!!

凄まじい爆音が船倉に響き渡った。本来なら心臓を穿つはずであった弾丸は、独鈷杵を受けたショックで照準が逸れ、恵瓊の左脇腹の皮膚を擦過するにとどまった。

「……チッ、悪運の強い奴め」

左馬之助は忌々しそうに舌打ちすると、独鈷杵を投げつけた小太郎を射殺すような目で見つめた。

腕に刺さった独鈷杵を引き抜き、蔑むように一瞥する。

「……独鈷杵か。小賢しい真似をするガキだ」

大航海時代の闇

左馬之助の青い瞳に冷酷な殺意が宿る。小太郎も負けじとにらみ返した。

その時、どたどたと足音が響き、恵瓊に打ち倒されていた南蛮人の水夫たちが室内へ雪崩れ込んできた。

様々な異国語の怒号が飛び交う。その中の一人の巨漢が、倒れている恵瓊を見つけると激昂して駆け寄り、容赦なくその身体を蹴り上げた。

バキッ! という鈍音とともに、恵瓊の身体が数メートル吹っ飛ぶ。小太郎も男たちに取り押さえられ、叩きのめされた。

「……ペドロリア、出てこい」

左馬之助は奥の扉へ向かって冷たく叫んだ。

扉が開き、下着一枚のペドロリアが青ざめた顔で慌てて飛び出してきた。

「な、なんですか!? 一体何の騒ぎです!?」

「……ペドロリア、娘を痛ぶるのは後回しにしろ。こいつらを固く縛り上げ、船底へ放り込んでおけ。……嫌な胸騒ぎがする。万一の際の人質だ」

「あ、わかりました! ほうらお前たち、言われた通りにしろ!」

ペドロリアは日本語で指示を出したのち、スペイン語と英語で水夫たちに素早く命じた。

ペドロリアはステファンの側近として来日した男であった。異常な性癖を持つ点が破滅的であったが、知恵が回り、小ズルく立ち回る能力には長けていた。

そのペドロリアが出てきた扉の陰から、ひとりの少女が顔を覗かせた。小太郎はいち早くそれに気づいた。

「……小百合さん!」

小百合もその声に反応し、騒ぎの現場を見渡した。そして小太郎と目が合った。小百合の口から息が漏れる。

「……小太郎さん……!?」

小太郎が自分を助けに来てくれたことを悟り、小百合は部屋から飛び出そうとした。しかし、その身体を捉えたのはペドロリアであった。

「……お嬢さん、勝手に出てはいけませんよ」

ねちっこい声でそう囁くと、ペドロリアは小百合を強引に部屋の中へと引きずり込んだ。

「小太郎さん! 小太郎さんっ……!!」

悲痛な叫び声だけを残し、少女の姿は扉の向こうへと消えて行った。

小百合はペドロリアの部屋に監禁され、惨らしくは辱められていた。屈辱の刻(とき)が流れるなか、何度も舌を噛み切って死のうとしたが、結局死にきれない自分を恥じていた。

ペドロリアは気まぐれに小百合の服を剥ぎ取り、背後から牙を剥く。当初の激痛が引いたあと、己の身体が不意に異物の侵入に反応してしまう瞬間があり、小百合はその暗い感覚に強い自己嫌悪を抱いていた。己の肉体の底にある醜い何かに怯え、小太郎の面影を思い出すたびに胸が張り裂けそうになるのだった。

ペドロリアは小百合を異常なほど気に入っていた。本国スペインには妻も子もいたが、妻からは常に冷遇されていた。その反動もあり、各地で手に入れた奴隷の女性に執着したのである。

当時のヨーロッパ人にとって、アジアやアフリカの人々は「人間」として扱われていなかった。だが、ペドロリアは日本人を好んだ。従順で、我慢強く、洗練されているからである。きめ細やかな肌と小柄で美しい容姿を持つ小百合を手に入れたことを、彼は「神の恵み」と本気で信じ込んでいた。

圧倒的な武力と技術力を背景に、アジア、中東、アフリカを侵略し、世界の秩序を自らの都合で塗り替えていった時代——それが「大航海時代」の真実の姿であった。そこには溢れる富への欲望と、キリスト教徒としての独善的な正義感が渦巻いていた。

「異教徒を改宗させ、救済することこそが神から与えられた使命である」と信じて疑わぬ宣教師たちと、掠奪と貿易によって巨万の富を貪ろうとする国家の野望が、「植民地政策」という名のもとに完璧に合致していたのである。

この時代、どれほどの日本人が奴隷として海外へ連れ去られたのか。一説には数万人から数十万人とも言われているが、正確な数は歴史の闇の中である。時の権力者・豊臣秀吉は、宣教師らに対し「連れ去った日本人をすべて連れ戻せ」と強く命じたが、ポルトガル側は不遜な態度を崩さず、浸透を続けようとした。

最大の悲劇は、当時のヨーロッパ人たちが植民地支配や人身売買に対して、何の罪悪感も抱いていなかったことにある。

自己処罰

「小百合さん……! みんなで助けに来たんだぞ……!」

小太郎は拘束されながらも必死に暴れたが、大柄な水夫たちの力には敵わず、虚しく押さえつけられるだけであった。

刺された腕を手ぬぐいで固く巻いた左馬之助も、そのまま奥の部屋へと消えて行った。

【船底】

水夫たちは小太郎と恵瓊を強く縛り上げ、船底の太い柱へと括り付けた。

船底は暗く、不快な湿気が充満していた。窓はなく、船具や資材が雑然と積み上げられている。

漆黒の闇の中、小太郎はかろうじて声を絞り出した。

「……恵瓊様、小百合さんはこの船に囚われています」

「……うむ」

恵瓊は太ももと脇腹の傷が痛むらしく、途切れ途切れにしか返事ができない。

「……この有様では、手も足も出ん。……道智殿だけが頼りだ」

恵瓊はそう呟くと、静かに意識を失った。

(恵瓊様の傷は相当に深い……このまま放置されたら命が危ない。どうすればいいんだ……!)

血気盛んな小太郎であったが、まだ若き青年であった。この絶対絶命の状況を打開する妙案など浮かぶはずもなく、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

暗い船底の柱に縛られた二人は、波に揺られる船体の軋み音に包まれながら、じっと耐えるしかなかったのである。

一方、小百合はペドロリアの部屋に軟禁されていた。

小百合を気に入ったペドロリアは、彼女に豪華な着物を与え、化粧を施していた。普段は畑仕事に精を出し、身なりなど気にしなかった小百合は、見違えるほど艶やかに彩られていた。もともと整った顔立ちをしており、小太郎との初恋を経て少女から女性へと脱皮する時期でもあった。

しかし、手込めにされたあの日以来、小百合は現実感を喪失していた。爺様の家に戻ったことも、そこから再び拉致されたことも、すべてが遠い夢の中の出来事のように思えた。

だが——小太郎の顔を目にした瞬間、すべての記憶が鮮明な現実として脳裏に蘇ったのだ。

暴行された屈辱も、自由を奪われ、変質的なペドロリアに全身を弄ばれる不快感も、すべてが紛れもない現実なのだと。

(……私は、奴隷になったのだ)

「奴隷」という言葉に、これまで何の実感も持っていなかった。しかし、自らがその立場に置かれて初めて、その言葉が持つ本当の恐ろしさを知ったのだった。

尊厳の踏みにじり、理不尽な恐怖、そして肉体的な苦痛——それこそが「奴隷」の真実であった。小百合は自らを利発だと思っていたが、結局のところ何ひとつ分かっていなかったのだと悟った。人間というものは、その立場に追い込まれなければ何も理解できない愚かな存在なのだと。

そうした小百合の精神は、やがて内面へ内面へと向かい、暗い自己追及を始めた。

(……こんな酷い目に遭うのは、私自身に何か悪いところがあったからではないか……?)

小百合はペドロリアを憎むこと以上に、自分の中に原因を求めようとしていた。激しいトラウマ(心的外傷)から心を護るため、無意識に「自己処罰(自分に落ち度があったと思い込む心の防衛メカニズム)」の道を選んだのである。

世之介の甘い言葉に乗ってマリア様を見に行こうとした軽率さ、凌辱された際に命を絶つことができなかった己の弱さ、果ては両親や爺様が死んだことさえ自分のせいではないかと、暗い思考の渦に沈んでいった。

縄を解かれ、長襦袢一枚で寝床に横たえさせられている。不意の騒動が起きる直前まで、あの変質者・ペドロリアに胸を揉まれ、肌を舐め回されていた。その屈辱の最中、肉体がかすかな快感を覚えてしまったことへの自己嫌悪。自身の心が意思とは無関係に裏切っていく恐怖——それらすべてを、自らの「罪」として背負い込もうとしていたのだ。

小百合が抱くこの暗い罪の意識は、キリスト教でいう「原罪」の概念に酷く酷似していた。聖母マリア像への強い憧れが、彼女の精神に知らず知らず影響を与えていた証左であった。

原罪と救済

「原罪」という概念は、宗教思想を紐解く上で極めて重要なキーワードとなる。

キリスト教における原罪とは、アダムとエバ(イヴ)が蛇に唆され、禁断の知恵の果実を口にしたことで犯した普遍的な罪を指す。この背信により、人類はエデンの園を追放されたとされる物語である。

キリスト教の神は「絶対神」であり、人間を無条件に特別扱いすることはない。聖書は人間愛に基づいて書かれた書物とされるが、そこには「絶対的な神への服従と信仰を通してのみ、人間は救われる」という厳しい前提が存在する。

一方、仏教においては「人間が生まれながらに罪の遺伝子(DNA)を背負っている」とは捉えない。人間は弱く、容易に過ちを犯す存在だからこそ、阿弥陀仏のような超越的な存在が慈悲をもって人々を救うために立ち上がったのだと解釈する。

小百合にそのような高尚な哲学的知識があったわけではない。ただ、あまりの絶望と自己嫌悪のやり場を見失い、暗い思索の迷宮へ迷い込んでしまったのだ。

極度の精神的ショックから心を護るための、痛ましい「自虐」の心理であった。深く傷ついた魂には、それを包み込む宗教的な救済が必要不可欠となる。宗教の妥当性を議論する以上に、「人間にとってなぜ救いが必要なのか」を再認識させる局面であった。

左馬之助はペドロリアに傷の手当てをさせていた。ペドロリアは医師としての心得も備えていたのだ。傷口を消毒し、化膿止めの薬を塗って布教帯(包帯)で固定する。独鈷杵の傷は鋭利であったもののそれほど深くはなく、急所を外れていたため命に別条はなかった。

手当てを終えた左馬之助の胸中には、激しい怒りが渦巻いていた。自らの崇高な計画が、あの二人によって邪魔されたからである。とりわけ、日本の僧侶がこの船に乗り込んできたことに対し、激しい憎悪を燃やしていた。

だが、その怒りの真の矛先は恵瓊や小太郎個人ではなく、自分を拒絶し続けてきた「この世界すべて」に向けられていたのである。

混血として自分を産み落とした母、それを放置した父と呼ばれる男、自分を蔑み虐げてきた周囲の人間、自分を救ってくれなかった宗教、そして日本という国もポルトガルという国も——すべてが憎悪の対象であった。

なかでも、日本の僧侶に対する恨みは根深かった。

左馬之助は、かつて九州を震撼させたキリシタン大名・大友宗麟(そうりん)の血を引く落とし子であったのだ。

大友宗麟はキリシタン大名として高名であるが、その評価は大きく分かれる人物である。後年に思いつきで出家し「瑞峯宗麟」と名乗ったことがその名の由来であり、それ以前は義鎮(よししげ)と称していた。

九州一の大名家の跡取りとして生まれ、甘やかされて育った義鎮は、感情の起伏が激しく、粗暴かつ冷酷な面を多々備えていた。ザビエルとの出会いを機に改宗したものの、本来は酒色を好み、領内の女性を強引に集めて歓楽に耽る好色漢として周囲の顰蹙を買っていた。

そうした義鎮の機嫌を取り、貿易の利権を確実にするため、スペイン人の美しい少女を献上したのが——ほかでもないペドロリアであった。

イライザの悲劇

美しいスペインの少女・イライザは、義鎮(宗麟)に物珍しがられて酷く寵愛された。しかし、彼女が身ごもると義鎮は急速に興ざめし、イライザをペドロリアへ押し付けたのである。

ペドロリアは命じられるままイライザと形ばかりの結婚をしたが、彼女の存在を商売の道具として最大限に利用した。愛情など微塵もなく、僅かな金だけを渡してイエズス会の施設へ放置したのである。

そうして教会で生まれた子供こそが、左馬之助であった。

幼少期の左馬之助は愛らしい容姿を持ち、宣教師やシスターたちから可愛がられて育った。しかし、血の不吉な悪戯か、成長するにつれてその性格は実父・宗麟に酷似していった。

成長とともに粗暴さと疳尺(かんしゃく)が酷くなり、教会を抜け出しては地元の日本人と暴力沙汰を起こし、街の少女たちに嫌がらせを重ねるなど、手に負えない問題児となっていった。

母イライザと左馬之助は、長崎の城山近くにある小さな教会の敷地内で暮らしていた。二人は教会の下働きとして過ごしていたが、一向に改心しない左馬之助に対し、形ばかりの父であるペドロリアが見放すことはなかった。

左馬之助には、九州の覇者・大友家の血が流れている。いずれ何かの政治的な手駒として利用できると踏んでいたからだ。それ故、ペドロリアはイエズス会に多額の寄付を行い、彼の面倒を見させ続けていたのである。

「……左馬之助、どこへ行ったのかしら」

イライザは教会の掃除をしながら、息子を探していた。十七歳になった左馬之助は母とともに奉仕するのが仕事であったが、地味な作業を嫌って頻繁に姿を消していたのだ。

そこへ、一人の参拝者がやってきた。イライザは気遣い、掃除道具を素早く片付けた。

「……すみません、すぐに退かしますので」

そう言って相手を見上げた。町人風の身なりをした、若く背の高い男であった。名を「涼吉(りょうきち)」といった。最近長崎へやってきたばかりの男である。

涼吉は、掃除をするイライザの姿を目にした瞬間、その美しさに息をのんだ。

イライザは控えめな性格で華美な装いを避けていたが、西洋人特有の彫りの深い美貌と、もんぺ姿の上からでも隠しきれない豊かな体躯、そして年熟した色香を漂わせていたのだった。

涼吉は動揺を隠しながら祭壇の前で膝をつき、十字を切った。イライザも何気なくその姿を見つめる。涼吉が視線に気づいて顔を上げた。

ふたりの目が合った。一瞬の出来事であったが、イライザは何事もなかったかのように奥へ引っ込んだ。

翌日も、イライザが掃除をする時間になると涼吉が現れた。それが何度も繰り返された。

やがてふたりは言葉を交わすようになり、ある日、涼吉は教会の陰でイライザを強く抱きしめた。イライザもまた拒むことなく、その唇を受け入れた。

それ以来、二人の関係は急速に深まっていった。イライザの胸の奥に眠っていた情熱に、涼吉が火をつけたのだった。

闇の憎悪

しかし、教会の資材置き場で繰り広げられる密会は、やがて周囲の噂となった。

週に一度、この小さな教会を訪れていた年配のジョアン神父は、かねてよりイライザに密かな想いを寄せていた。彼女の清らかさと美しさに心を奪われていたのだ。だが、聖職者という立場上、その想いを表に出すことはできず、歪んだプラトニックな愛情へと強引に昇華させていた。

そこへ飛び込んできた、イライザの不貞の噂——。

抑えつけられていた神父の情念は、醜い執着と憎悪へと変貌した。

ジョアン神父は本部に密告し、徹底的な調査を行わせた。イライザは形の上ではペドロリアの妻である。キリスト教の戒律において「姦淫(不倫)」は重罪であった。

イエズス会の調査の結果、恐るべき事実が判明する。

涼吉の正体は、キリスト教を強く排斥する佐賀藩主・龍造寺氏の命を受け、家老が放った「密偵(スパイル)」だったのだ。

涼吉は密命を帯びてキリシタンになりすまし、長崎へ潜入していたのだった。しかしイライザと出会い、本気で恋に落ちてしまった。関係を深めるなかで、彼はイライザから無意識のうちにキリシタン内部の情報を引き出し、密偵としての役目を果たしていたのである。

イエズス会は大村藩と協議し、涼吉の処罰を大村藩へ一任した。一方、イライザへの処罰が軽微で済んだのは、ペドロリアが納めていた多額の寄付金ゆえであった。

ジョアン神父はイライザを手元に置き、下働きとして監視することになった。しかし、彼の歪んだ執着はイライザを精神的な地獄へと追い詰めた。

神父は幼い左馬之助に対し、「お前の母は、日本の恐ろしい僧侶どものせいで罪に落とされたのだ」と絶えず吹き込み続けた。多感な左馬之助はそれを真に受け、日本の僧侶に対して異常なまでの激しい憎悪を抱くようになったのである。

やがて、神父からの苛烈な責め苦と罪悪感に耐えかね、イライザは心労から病に倒れ、息を引き取った。

母を失った左馬之助は、形ばかりの父・ペドロリアのもとへ引き取られ、彼の裏の仕事を手伝うようになっていったのだった。

左馬之助は生まれつき聡明であり、母イライザの父にあたるアフリカ系人物の血も引き継いでいた。アフリカ系人種の驚異的な身体能力と体幹の強さを、左馬之助は色濃く受け継いでいたのである。一見すると細身の身体には、並外れた動体視力、瞬発力、跳躍力が秘められていた。

その才能に着目したペドロリアは、手下の用心棒らに指示を出し、左馬之助に西洋流の剣術と格闘技を徹底的に叩き込ませた。

その結果、左馬之助の格闘才能は狂い咲き、訓練の最中に何人もの指導役を事故に見せかけて殺害してしまうほどになった。いまや船内において、左馬之助に敵う者は一人も存在しなかった。

「……父上。この長崎にいる乞食坊主どもを、一残らず殺し尽くしましょう」

左馬之助の美しい顔が、醜い狂気で歪んだ。彼は自らの暗い衝動に完全に支配されていたのだった。

砲撃の威嚇

ペドロリアは困惑した表情を浮かべた。明朝には長崎を出航する手はずとなっていたからだ。

「……左馬之助、明日の朝には出航の予定ですよ?」

「予定など一日延ばせば済むことです! イエズス会にとっても、日本の僧侶どもが長崎で幅を利かせていては布教の邪魔でしょう!

最近では徳川という江戸の政府が、我らを追い出そうとコソコソ動き回っている……。たかがこんな野蛮な未開の国に対し、我が国が後手に回ってよいのですか!? イギリスやオランダの連中に嘲笑われますぞ!」

左馬之助は頭が切れた。己の個人的な怨嗟を、もっともらしい大義名分へとすり替える術に長けていたのだ。

そして何より、その本質は冷酷きわまりない支配欲であった。

「……確かにそうですね。野蛮人どもに舐められたまま去るのも腹が立ちます。マカオの時のように力を見せつけてやれば、この国の連中も態度を改めるでしょう。野蛮人を従わせるには、圧倒的な暴力こそが最良の薬だ」

ペドロリアもまた傲慢な西洋人であった。日本の侍から脅迫された屈辱が胸にくすぶっていたこともあり、左馬之助の提案に賛同した。

「分かりました。準備に取りかかりましょう」

「ペドロリア、悪魔に取り憑かれた日本の坊主どもに『真の恐怖』を教えてやりましょう。まずは大砲で茂木の港を吹き飛ばすのです。奴らの驚く顔が目に浮かびますな……クックック」

左馬之助の口から低く不気味な笑いが漏れた。彼は自らの暗い破壊衝動に浸りきっていた。己の行う悪行に対し、罪悪感など微塵も抱いていなかった。

すべては周りの世界が悪いのだ。自分が受けた屈辱と理不尽に対し、相応の報いを受けさせるだけのこと——。

忍び笑いは次第に高まり、凄惨な高笑いとなって船倉中に響き渡った。

「はっはっはっは……!!」

一方、道智たちは茂木の海岸で、じっと南蛮船を見つめていた。恵瓊の救出作戦が成功すれば、船上から合図の灯りが掲げられる手はずとなっていたからである。

小太郎がハタで船へ乗り込んでから、すでに二時間が経過していた。

「准山殿……どう思われるか」

道智が重い口を開いた。信頼する恵瓊と、実の息子のように可愛がっている小太郎の身が案じられてならなかったのだ。准山も苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべている。

その時——橘湾の海上で、雷鳴のような大爆音が轟いた!

南蛮船が大砲を放ったのだ。艦砲射撃の標的は、茂木の港であった。巨大な砲弾が海岸の手前に着弾し、凄まじい水柱を跳ね上げた!

ズドォーン……!!

水飛沫が道智たちの頭上から降り注ぐ。僧たちは思わず後退した。

南蛮船に搭載されていたのは、後発式の大砲「フランキ砲」であった。かつて左馬之助の実父・大友宗麟が導入し、「国崩し」と恐れられた最新兵器と同型のものである。有効射程は直線で八百メートル程度であり、遠距離の目標に対しては放物線を描いて着弾させるため、精密な照準は望めなかった。

しかし、その圧倒的な音響と破壊力は、周囲を威嚇するには十分すぎる威力を発揮した。

水浸しになった道智と准山は、互いに顔を見合わせた。

「……道智殿、一度引き揚げて策を練り直そう。あの二人を見殺しにはできん!」

准山は、敵船を睨み据える道智の袖を強く引っ張った。

「皆の者、近くの清川のお堂へ退避するぞ!」

准山は冷静さを失わない男であった。山伏たちはその指揮に従い、気配を消して闇の中へと姿を消したのだった。

神社仏閣の焼き討ち

茂木港に夜明けが訪れた。

民家の途切れた広場に、十頭ほどの騎馬武者集団が集結していた。その中心には、西洋風のプレートアーマー(全身板金鎧)に身を包み、緋色の飾りで馬を鮮やかに仕立てた男が佇んでいた。左馬之助であった。

「……よいか皆の者、悪魔(サタン)どもを退治しに行くぞ!」

号令とともにサーベルを頭上に掲げ、馬の手綱を強く引き絞る。

「突撃せよ!」

一目散に長崎へ通じる山道へと馬を疾走させた。

「イエス、サー!」

異国の部下たちが歓声をあげ、その後に続いた。

長崎の街から火の手が上がったのは、それからわずか二時間後のことであった。

火元は一般の民家ではなく、街に点在する伝統的な神社仏閣であった。左馬之助は茂木のポルトガル兵たちを率いて長崎へ侵入し、前もって手はずを整えていた過激なキリシタン信徒たちと合流して、神社仏閣への連続放火を断行したのである。

「悪魔の傀儡である坊主どもの巣窟を、聖なる天火で清めるのだ! 抵抗する者は容赦なく射殺せよ! デウス様は我らと共に打導される! たとえ討ち死にしようとも、魂は天国へ召されるのだ!」

左馬之助のアジテーションは、狂信的な信徒たちの心に火をつけた。

「殉教」こそがキリシタンの最高の誉れと信じ込まされていた人々は、異常な興奮状態に陥った。左馬之助らに先導され、暴徒と化した一団は目ぼしい社寺へと押し寄せて行った。

「天火じゃ! 天火じゃああっ!」

松明や木刀を打ち振るい、叫びながら駆け抜けていく。

長崎の歴史記録には、この時期におけるキリシタンによる社寺の破壊・放火が克明に刻まれている。深崇寺、斉道寺、神宮寺、鎮道寺、万福寺、伊勢宮神社、渕神社、桜馬場天満宮などが破壊され、焼き払われた。神宮寺においては、支院三十余坊のすべてが灰燼に帰したと伝えられている。

長崎の街は一瞬にして炎と煙に包まれ、悲鳴と怒号が渦巻く地獄絵図と化した。

高台からその惨状を見下ろす男がいた。

馬上の左馬之助であった。重厚な西洋鎧を眩しく光らせ、燃え盛る街並みを満足そうに見つめている。

「……よく燃えるものだな。ふん、これで用は済んだ。戻るぞ! 皆の者を呼び戻せ!」

冷酷な笑みを浮かべ、左馬之助は馬の首を返した。

長崎の社寺が壊滅的な焼き討ちに遭ったという報せは、清川のお堂に身を寄せていた道智たちのもとへ即座に届けられた。

「……おのれ、南蛮人どもめ……!」

准山は怒りに震え、周囲の山伏たちを呼び寄せた。

「敵の首領は異様な西洋鎧を纏った男で、十数人の南蛮兵を従えているとの報だ! あやつらは南蛮船の奴隷商人どもの手先である! たった今、長崎の館山から茂木へ向かって引き返していったとのことだ!

船に戻り次第、捕らえた女子たちを乗せて即座に出航する気だろう! 昨夜乗り込んだ恵瓊殿や小太郎も拘束されているに違いない……! あの悪党どもを断じて船へ戻してはならん!!」

准山の叫びは、雷鳴のごとくお堂に轟いた。

周囲の山伏たちの胸にも激しい義憤が燃え上がる。道智も、負傷した熊和尚・西空も、怒りに目を血走らせていた。

「茂木への道は一本道だ! 今から追えば、茂木の手前で必ず追いつく! 行くぞッ!」

准山がお堂を飛び出すと、僧と山伏の一団は風のごとく山道を駆け下りて行ったのだった。

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