汚された十字架 (6)終章
気功
その頃、神社仏閣を焼き討ちにした狂乱の快感に酔いしれる左馬之助の一団は、山を越えて茂木港へと馬を走らせていた。
山道を下り、麓へ至る最後の一本道(隘路)に差し掛かった時のことである。
ヒュオォォ……ッ!
けたたましい笛の音が静寂な山林に響き渡った。両脇に聳え立つ杉の並木の頭上で、いくつもの人影が俊敏に蠢く。
次の瞬間、道の両脇から太く丈夫な捕物縄がピーンと力強く張り渡された。馬の足を掬い、進路を阻むための仕掛けである。
野性的な危機察知能力を持つ左馬之助は、間一髪でその罠に気づいた。
「はっ!」
手綱を強く引き絞り、見事な跳躍で縄を飛び越える。
しかし、後に続いていた騎馬集団はかわしきれなかった。激しい鈍音とともに、先頭の馬が足を掬われて転倒し、後続の馬たちも次々と巻き込まれて将棋倒しとなった。騎乗していた男たちは一斉に地上へと放り出された。
その隙を逃さず、両脇の杉の木の上から、鋭く研ぎ澄まされた「独鈷杵(どっこしょ)」が一斉に降り注いだ。山伏たちの奇襲である。
独鈷杵を投げ終えた山伏たちは、樹上から鮮やかに飛び降り、地上戦へと持ち込んだ。
不意を突かれた手下どもはパニックに陥った。彼らは「騎士」とは名ばかりで、左馬之助に宛てがわれた西洋鎧を着込まされただけのただの水夫や無頼漢に過ぎなかったのである。
先頭の左馬之助だけが、そのまま前方に走り抜けていく。
首領を失った疑似騎士集団は、膂力(りょりょく)こそ強大であったものの、死修羅場をくぐってきた手練れの山伏たちの敵ではなかった。錫杖による打撃と体術の前になすすべもなく制圧され、あっという間に取り押さえられて行った。
「よいか! 殺すな! 固く縛り上げよ!」
准山(じゅんざん)の厳かな手回しが飛ぶ。
*
前方へ駆け抜けた左馬之助は、背後の異変に気づいて馬を止めた。
引き返そうと手綱を引いたそのとき、十メートルほど先の山道の中央に、根が生えたように仁王立ちする男がいた。准山であった。
「……何者だ、貴様」
左馬之助の全身から獰猛な殺気が立ち上る。准山は無言のまま、静かに佇んでいる。
左馬之助の苛立ちはピークに達した。状況は察せた。誰かが自らの軍勢を襲撃し、目の前の男がその元凶なのだと。自分の野望を阻む者は、何人たりとも生かしてはおけない。
左馬之助は手綱を強く引き絞った。主人格の昂ぶりに同調した愛馬が荒い鼻息を吐き、前脚を高く上げていななくと、准山へ向かって猛然と突進を開始した。怒涛の騎馬突撃である。鍛え上げられた軍馬の蹴りは、人間の頭蓋骨を一撃で粉砕するほどの破壊力を秘めていた。
迫り来る巨大な騎馬を眼前にしながら、准山は深く静かな腹式呼吸を繰り返した。密教、修験道、武術における精神統一の極意——丹田に気を満たす呼吸法である。
「——喝ぁぁぁぁぁッ!!!!」
雷鳴のごとき気合が、突進する馬と武者に叩きつけられた!
その瞬間、巨馬が激しくのけぞった。後脚だけで垂直に立ち上がるほどに大きくバランスを崩し、背上の左馬之助は無様に地上へ転がり落ちた。重厚な西洋鎧が災いし、受身すら取れなかったのだ。
准山が放ったのは、気功の理に通じた音波の衝撃であった。突進する巨躯を力で止めることは不可能でも、人間の五倍以上の聴覚を持ち、音によって周囲の状況を鋭く察知する馬の耳へ向けて、丹田からの気合を直撃させたのである。
馬の脳裏には、突如として巨大な落雷が炸裂したかのごとき衝撃が走り、たまらず狂乱して立ち上がってしまったのだ。
重い鉄の鎧が左馬之助の驚異的な反射神経を削いでいた。彼は固い地面へ、頭部から激しく叩きつけられたのだった。
鯨海
茂木港にて、左馬之助制圧の報せを受けた道智は、島田宗件(しまだ そうけん)と密かに言葉を交わしていた。
「宗件殿、左馬之助は准山殿らによって無事に討ち果たされました。……ですが、あの南蛮船には今なお多くの女子たちが囚われております。主だった戦闘員が不在の今こそ、船へ乗り込む千載一遇の好機かと」
宗件もまた、恵瓊と小太郎による潜入作戦が阻まれたことを受け、次なる手を必死に模索していたところであった。
左馬之助らによる長崎の社寺焼き討ちは完全な不測の事態であり、それを山伏たちが迅速に鎮圧したことも予期せぬ展開であった。
南蛮船に残された者たちも、左馬之助らが戻らぬ異変に気づけば、ただちに出航へと切り替えるはずだ。あの船は軍艦並みの砲撃力を備え、船足も速い。一度橘湾の外へ逃げ出されれば、もはや追撃は不可能であった。
宗件の頭脳が高速で回転する。道智もまた、静かに海を見つめながら顎を撫でていた。
*
南蛮船の船内では、商人ペドロリアが苛立ちを隠せずに右往左往していた。
長崎へ向かった左馬之助が一向に戻らないからである。精鋭の戦闘員の多くを左馬之助に貸し出していたため、船内に残っているのは船長のジョゼと、十数人の水夫たちだけであった。
(昼には戻る予定だったというのに……一体どうしたというのだ?)
昨夜の襲撃事件の記憶が掠め、不吉な予感がペドロリアの胸を締め付ける。
「……日没まで待つ。それまでに左馬之助が戻らねば、ただちに出航するぞ」
横に立つ船長へ、ペドロリアは苦々しく命じた。
*
その頃、宗件は手下の者たちを各所へ走らせ、持てるすべての裏人脈を動かしていた。南蛮船を力づくで奪還するには、相応の海上戦力が必要不可欠であったからだ。
しかし、幕府や近隣藩から正規の軍船を手配するには最短でも一日は要する。それでは手遅れであった。
宗件の真の強みは、表の豪商としての顔と、歴史の闇に通じる「裏の顔」を併せ持っている点にある。宗件は、最後にして唯一の打つ手に全てを賭ける決意を固めた。
茂木港から一里(約四キロ)ほど離れた、水元村(みずもとむら)という小さな漁村へ向かった。一軒の素朴な民家の戸を叩く。
「……鯨海(げいかい)殿、宗件である」
一間きりの静かな室内の囲炉裏端に、老練な眼光を持つ老人が腰掛けていた。
「……宗件殿か」
「先般のハタ揚げの折、配下の者たちを貸していただき心より感謝する。これは些少だが礼金じゃ」
宗件は小判の詰まった紙包みを差し出し、深々と頭を下げた。
「……かたじけない。配下の者たちの今後の蓄えとさせていただきます」
「鯨海殿……実はもう一つ、頼みがあって参った。……息子の竜太郎殿が船団を率い、天草の隠れ島に身を潜めていると聞き及んでいるが」
「……!」
鯨海の表情が凍りついた。誰も知るはずのない極秘事項を、この男は事もなげに口にしたからだ。やはり島田宗件という男は、恐るべき情報網を持つ底知れぬ人物であった。
倭寇
鯨海の息子・鬼頭竜太郎(きとう りゅうたろう)は、東シナ海を舞台に猛威を振るった海賊集団「倭寇(わこう)」の頭領であった。
「倭寇」といえば日本人の海賊と一括りにされがちであるが、後期においては中国人の勢力が大半を占めていた。長崎の五島列島を拠点に巨大な海上王国を築いた明の豪商・王直などがその代表格である。
また、彼らを単なる「ならず者の暴徒」と定義するのは誤りであった。彼らは武装した私貿易・密貿易を行う強力な商業共同体でもあったからだ。
戦国時代の陸上において、武力で領地を削り取ることが常態化していたのと同様、海上においても力の論理が支配していたに過ぎない。
しかし、慶長六年(一六〇一年)、天下を掌握した徳川家康は「朱印船貿易」の制度を創設し、制海権の確立と貿易秩序の保護のため、海賊行為への苛烈な取締を開始した。
これまでの緩い取締とは異なり、幕府の本格的な圧力の前に、倭寇勢力も歴史の裏舞台へ潜伏せざるを得なくなったのである。宗件はその過程において、彼らの逃走や裏取引を陰から庇護し、幕府の目を逸らす手助けをしてきた恩人であった。
鬼頭竜太郎は父から船団を引き継いだものの、ここが潮時と判断し、天草の海図に載らぬ秘島へ一族を集結させていた。そこには長年蓄えた莫大な財宝が眠っている。父・鯨海と竜太郎は、その財を配下に分け与えた上で、誇り高き「鬼頭組」を解散させる計画を進めていたのだ。
その極秘事項を、宗件は見抜いていたのだった。
「……鯨海殿、実はな……」
宗件は声を潜め、長崎と茂木で起きている人身売買の悲劇、そして捕らわれた女子たちの危機を語って聞かせた。
静かに耳を傾けていた鯨海は、やがてゆっくりと顔を上げた。壁には掠れた軸が掲げられている。
『八幡大菩薩』
清和源氏をはじめ、全国の武士や海の男たちから武運の神として崇められる尊号である。鬼頭組は古くは村上水軍の血脈を引いており、鯨海もまた堅い信仰を抱いていた。
鯨海はその軸に向かい、静かに土下座した。そして顔を上げると、外へ向かって深く太い声を張り上げた。
「……伝吉はいるか! 竜太郎へ至急の使いを出せ! 一刻を争うぞ!」
「へいっ!」と、屋外から威勢の良い返事が響いた。
「……感謝いたします、鯨海殿。これで勝機が見えました」
「宗件殿……これにて、我らが過去に受けたご恩の数々、帳消しとしていただきとうございます」
「分かっております。将軍様へのお耳入れも含め、万事この宗件にお任せくだされ」
宗件は温かく微笑んだ。
*
上空を重い雲が覆い、橘湾の風が一段と強まりを見せていた。穏やかだった水面が大きくうねり、白波が立ち始める。
だが、流れゆく雲の切れ間から、眩い黄金色の後光が海面へと差し込んだ。
その光の筋を割るようにして、茂木港の沖合に巨大な旗艦ジャンク船一隻と、機動力に長けた小型ジャンク船五隻が悠然と姿を現した。
風を切って進む、鬼頭組の精鋭船団であった。
ジャンク船の急襲
茂木港からも、宗件の手配した中型の和船十数隻が南蛮船へ向けて一斉に出港した。
南蛮船の警戒員が、急速に接近する異形の船団に気づいた。側頭部の砲門から大砲二門が突き出され、轟音とともに火を噴く! しかし、波を切り裂いて進むジャンク船の圧倒的なスピードの前に、砲弾は虚しく海面を叩き、巨大な水柱を上げるにとどまった。
百戦錬磨の海戦に長けた倭寇船団は、あっという間に南蛮船の側面に肉薄した。鉤縄が次々と南蛮船の舷側へ投げかけられ、熟練の船乗りたちが刃を交えて甲板へと雪崩れ込んでいく。
周囲を取り囲んだ和船からも次々と勢力が乗り移る。その一団の中に、金剛杖を握りしめた道智の姿があった。
甲板上では、奇襲に混乱する南蛮人水夫たちと倭寇との間で凄惨な乱闘が始まった。接近戦を得意とする倭寇たちに甲板の制圧を任せ、道智は急ぎ船内へ通じるハッチを潜り、狭い階段を駆け下りた。
広い船倉へ出ると、そこには衣服を奪われ、縄で拘束された大勢の女子たちが身を寄せ合っていた。襲いかかってきた見張りの水夫を、道智は容赦なく錫杖の一撃で叩き伏せた。
「救援に参った! 安心せよ!」
道智はすぐ近くの少女の縄を手早く切り解いた。
「皆の縄を解くのだ!」
「は、はいっ!」
「……娘よ、ここに若い修業僧と小僧が捉えられておったはずだ。無事か!?」
「はい! 助けに来てくださったのですが、異国の恐ろしいお侍に捕まって……下の船底へ連れて行かれました!」
会話の最中にも、甲板を制圧した倭寇の男たちが激しい足音とともに流れ込んできた。
「竜太郎殿! この女子たちを安全な船へ退避させてくだされ!」
倭寇の頭領へ叫ぶと、道智は二人が捕らわれているという最下層の船底へと急いだ。
*
【船底】
小太郎と恵瓊は依然として太い柱に縛り付けられ、身動きが取れずにいた。恵瓊は出血が酷く、意識を失ったままである。
「……恵瓊殿! 小太郎っ!」
救援を叫ぶ声が闇の奥から響いてきた。小太郎はハッと顔を上げた。
「道智様! ここですっ!」
小太郎が声を振り絞る。船底の扉が蹴破られ、道智が躍り込んできた。
「道智様……!」
「小太郎、無事であったか!」
「おい(私)は大丈夫です! ですが恵瓊様が酷いお怪我で……!」
道智は手早く二人の縄を叩き切った。
*
一方、ペドロリアはいち早く異変を察知していた。
船窓から急接近するジャンク船団を目にした瞬間、船長へ全砲門の射撃を命じたものの、脱出用にボートを下ろそうとした時には、すでに全周を完璧に包囲されていたのだった。
東南アジアの植民地で好き放題に振る舞ってきたペドロリアにとって、この「日本の現地民」が見せた圧倒的な勇敢さと組織的な知略は、恐怖以外の何ものでもなかった。インディアスや巽他(東南アジア)の先住民とは根底から異なっていたからだ。武力を背景とした脅しが一切通用しない民族なのだと、今更ながら思い知らされたのである。
ジャンク船の機動力と旋回性能は、巨大なカラベル船を遥かに凌駕していた。乗込まれるのは時間の問題だと悟ったペドロリアは、部屋の扉に重々しい施錠を施すと、手元にあった最新式の連発式短筒三挺をかき集めた。
そして、玩んでいた小百合の衣服を身ぐるみ剥ぎ取り、全裸のまま固く縛り上げたのだ。全裸にすることで羞恥心を煽り、動きを封じると同時に、人質としての痛ましさを強調しようという冷酷な計算であった。
(この娘を盾にして逃げ延びる以外に道はない……!)
狂気と恐怖に駆られたペドロリアが短筒を構えたその時、施錠された扉が激しい音を立てて外側から叩かれた。
「小百合さん! 小太郎です! 助けに来ました!!」
竜太郎の義
小太郎の叫び声とともに、激しい蹴りによってドアの鍵が破壊され、数人の男たちが室内へ雪崩れ込んできた。
部屋の奥では、全裸の小百合を背後に立たせ、ペドロリアが血走った目で短筒を構えていた。見知らぬ男たちの前に惨らしくは肌を晒された小百合は、あまりの屈辱と羞恥に声を失い、ただ身をもだえさせるしかなかった。
その姿を目にした瞬間、小太郎の頭に血が上り、顔が怒りで真っ赤に染まった。
「小百合さんっ……!」
後先を考えず飛びかかろうとした小太郎へ向け、ペドロリアの短筒が躊躇なく火を噴いた!
ズドンッ……!!
狭い室内に爆音が轟き、弾丸は小太郎のすぐ隣にいた倭寇の男のみぞおちを穿った。男は声もなく崩れ落ちる。
「……動くな!」
道智が咄嗟に小太郎を制し、自らが前へ躍り出た。
「異人よ、その娘を放せ! そうすれば命だけは保証してやる! すでにこの船は我らの手の中にあるのだ!」
ペドロリアは小百合の首に左腕を巻きつけ、右手には鋭利なナイフを握りしめていた。
「道智と言いましたね……! この娘は人質です! 私をこの船から安全に出しなさい!」
絶体絶命の窮地において、ペドロリアの目は狂気につり上がっていた。
「分かった、娘を解放せよ。お主の安全は約束する」
道智もまた、ペドロリアの手元から目を離さずに交渉を試みる。
「……物分かりが良いですね。結構です。ですが、娘を解放するのは私が安全な場所へ逃げ延びた後ですよ!」
小百合を盾にしながら、ペドロリアはじりじりと出口へ向かって歩みを進めてきた。小百合の顔は過度の緊張と恐怖で強張り、目の焦点を失っていた。
その時——道智の傍らに立っていた倭寇の頭領・鬼頭竜太郎が、静かに腰の刀を床へ投げ捨て、一歩前へと歩み出た。
「……異人殿、わしをその娘の身代わりにしてはくれまいか」
中肉中背で優しげな顔立ちの竜太郎であったが、その佇まいには長年海を統べてきた頭領たる圧倒的な威厳が宿っていた。
ペドロリアはびくっと足を止めた。
「……あなたは何者ですか!?」
「わしは鬼頭組の頭領・竜太郎と申す者。義によって道智殿に助太刀しておる。そのような小娘では、人質としての価値も低かろう」
「鬼頭組……!? あの倭寇の鬼頭組か!?」
ペドロリアの顔色が劇的に変わった。鬼頭組のジャンク船団には長年煮え湯を飲まされ続けてきたのだ。積載していた貴重な火薬樽を何度も奪われた忌まわしい記憶が蘇る。
竜太郎の顔を目にした瞬間、ペドロリアの中で抑えつけられていた憎悪と恐怖が爆発した。
交渉の余地もなく、ペドロリアは竜太郎に向けて短筒の引き金を引いた!
ズドンッ!!
激しい轟音とともに、竜太郎の身体が大きく吹き飛んだ。弾丸は彼の側腹部を深く穿っていた。
至近距離で炸裂した激しい爆音と血飛沫に、小百合の極限に達していた精神の糸がプツリと切れた。小百合の股間から生温かい液体が溢れ出し、床へとこぼれ落ちた。恐怖による失禁であった。
温かい尿が、小百合を抱え込むペドロリアのズボンを濡らした。
「……ぬ、ぬう!? なんだこれは!?」
劇薬か何かが付着したと錯覚し、ペドロリアが一瞬だけ狼狽して視線を落とした。
そのコンマ一秒の隙を、道智は見逃さなかった。
道智の錫杖が、閃光のごとく一閃した!
因果
ガツン……ッ!!
道智の持つ錫杖の先端部が、ペドロリアの額を正確に突き穿った。
頭蓋骨が惨らしく陥没する重い音が響き、ペドロリアは目を見開いたまま仰向けに倒れ込んだ。背後へ大の字になって崩れ落ちる。
しかし——倒れ込んだ際の激しい衝撃により、ペドロリアが腰に差していた予備の短筒が誤って暴発した!
ズドンッ!
暴発した弾丸は、運悪く小太郎の方向へと一直線に飛来した。
小太郎は叫び声を上げて後方へひっくり返り、支えを失った小百合も床へ膝から崩れ落ちた。
室内に立っているのは、錫杖を構えた道智ただ一人であった。
*
激しい戦いが終息を迎えると、船内では倭寇の男たちが手際よく後片付けを進めていた。
倒れた鬼頭竜太郎であったが、幸いにも弾丸は脇腹の肉を擦過した程度であり、骨や内臓への深刻なダメージは免れていた。手下からの迅速な応急手当を受け、すでに立ち上がって指揮を執っていた。
ペドロリアは軍人ではなく、短筒の扱いに習熟していなかった。現代の拳銃射撃においても至近距離での命中率は高くはないとされるが、暴発した弾丸は奇跡的にも小太郎の股間のすれすれを通り抜けて壁に突き刺さっていたのだった。小太郎が倒れ込んだのは、極度のショックと安堵による腰ぬけ状態のためであった。
「……因果応報、仏罰じゃな」
道智は静かにつぶやくと、惨らしく横たわるペドロリアの遺体に向かって静かに合掌した。
小太郎は急いで着物を拾い集めると、小百合の裸体を優しく包み込み、その肩を強く抱きしめた。小百合もまた放心状態から少しずつ意識を取り戻し、瞳に光が戻り始めていた。
「……小百合さん、もう大丈夫だ……大丈夫だからな」
「……小太郎、さん……」
ようやく掠れた声が出た。
「私……わたし……っ」
「……言わなくていい。何も言わなくていいんだ。さあ、ここを出て、みんなで家へ帰ろう」
小太郎の胸から溢れ出る温かい誠実さが、一言一言に深く滲み出ていた。
*
「小太郎、最後の仕上げに取りかかるぞ」
道智が声をかけた。
「は、はいっ!」
小太郎も我に返り、立ち上がった。
道智の指示のもと、鬼頭組の男たちが手際よく船内で作業を開始した。船体の側壁に黒色火薬の樽を設置し、導火線を敷設していく。
「皆の者、壁際によって耳を塞ぐのだ! いくぞ!」
道智の合図とともに導火線へ火が点けられ、全員が物陰へと身を伏せた。
ドカンッ……!!
激しい爆発音が船内に轟き、南蛮船の側腹部に大きな穿孔があいた。煙が晴れると、その穴からは橘湾の青い海面が見下ろせた。
穴の外には、手配されていた多数の小舟がタイミング良く待機していた。島田宗件の手下たちであった。
「小太郎、そこにある帆布を持ってまいれ!」
小太郎は予備の巨大な帆布を運び出した。道智はその両端に結ばれたロープを船内の太い柱へ固く括り付けると、開けられた穴から海へと垂らした。下の小舟に乗る男たちがその布を受け止め、しっかりと広げる。緊急用の「布製滑り台」の完成であった。
「さあ、女子たち! この滑り台を滑って、下の船へ避難するのだ!」
着物を羽織っただけの少女たちは怯えていたが、小太郎や倭寇の男たちが優しく誘導し、次々と滑り台へと乗せていった。悲鳴と歓声が交互に響き渡る。道智も小太郎も、全員を無事に避難させるため無我夢中で手を差し伸べ続けたのだった。
決断
ピストン輸送によって、捕らわれていた四十人余りの女子たちは全員が無事に小舟へと移送された。
最後の避難を見届けた頃、いつの間にか島田宗件と数人の手下が、穿孔から船内へと登ってきていた。
「宗件様! いつ上って来られたのですか!?」
驚く小太郎に対し、宗件はニヤリと笑ってみせた。そして道智に向かい、深々と頭を下げた。
「道智様……誠にご苦労様でございました。ペドロリアの遺体も確認いたしました。やはり、この男が陰で人身売買の手糸を引いていたのですね」
道智は宗件の真意を押し量るように、静かに問いかけた。
「……宗件殿。お主がこの作戦に協力したのは、単なる義侠心からだけではなさそうだな?」
「……お見抜きでございますか」
宗件は深く息を吐き、静かに語り始めた。
「この大和の国が、これからどのような道を歩むべきか……それを確かめる必要があったのです。いま、我が国は徳川様の手によって、ようやく長きにわたる乱世に終止符を打とうとしております。
海外貿易がもたらす富は絶大ですが、一歩間違えれば、この国そのものが異国に呑み込まれ、滅びへと向かうでしょう。……あのペドロリアの醜悪な遺体を目にした時、私の迷いは消えました。
いまの日本は、まだあまりにも未熟です。西洋が成熟した大人であるとするならば、我が国はようやく元服を迎えたばかりの幼子に過ぎません。大和国には、なすべき課題が山積しております。
恵瓊様は禅宗の僧であられますから、私の申す意味がお分かりになりましょう……。いま我が国に必要なのは、一度外との関わりを断ち、己の内面と深く対話する『座禅(静観)』の時なのです。徳川様も深く苦慮されておりましたが、今回の件を受け、ついに重大な決断を下されることでしょう」
宗件は自らに言い聞かせるように語った。歴史の分岐点において、己の選択が正しいのか否か、深い葛藤を抱え続けていたのだろう。
「……さて、私にもこの船で果たすべき役目がございます。女子たちの救出は完了いたしました。道智様方も、お急ぎ船をお立ちくだされ」
そう言うと、宗件は手下の者たちへ鋭い指示を出した。
「良いか! この船に保管されている設計図、並びに世界の詳細な海図をくまなく探すのだ! また、積載されている火薬や最新式の銃器も、一丁残らず回収せよ!」
指示を終えると、宗件は再び道智へと向き直った。
「……これは将軍様からの極秘の密命でございます。どうぞ他言は無用に願います。後始末は、この宗件にすべてお任せくだされ」
引き締まった声音であった。道智と小太郎は互いに顔を見合わせると、黙って頷き合い、布の滑り台を滑り降りて船を後にしたのだった。
愛と希望
あれから三日の月日が流れた。世間は不気味なほどに静まり返り、何も起きなかったかのように平静を保っていた。島田宗件という男の手腕と影響力の凄まじさを示す証左であった。
二人は日見の隠れ里へと戻っていた。道智は変わらぬ様子で畑仕事に精を出していた。傷ついた小百合の身を案じてのことであった。
今日も朝の作業を終え、畦道に腰を下ろした道智と小太郎は一休みしていた。
「……お昼ご飯ですよーっ!」
遠くから元気な声を張り上げ、小百合が重箱を抱えて走ってきた。小太郎は眩しそうにその姿を見つめた。
「はい、どうぞ!」
二人に弁当の包みを手渡すと、小百合は小太郎のすぐ隣へと腰掛けた。
「ふふ、二人は本当に仲が良いのう」
道智がおどけて二人の顔を覗き込む。寄り添って座る小太郎と小百合は、顔を真っ赤にして俯いた。
あの過酷な事件を経て、二人の距離は劇的に縮まっていた。「お互いに失禁して崩れ落ちた」というあまりにも滑稽で惨めな体験を共有したことが、かえって二人の間の気取りや壁を完全に壊し去ったのだった。
*
小百合は慈しんでくれた爺様を失い、深い悲しみの底にいるはずであったが、努めて明るく振る舞っていた。
彼女が負った心の傷の深さは誰にも測り知れないものであったが、小太郎のすべてを包み込む温かい愛情に支えられ、彼女の心に少しずつ生気が戻り始めていたのだ。
小百合は今も、小さな金属製の十字架を大切に懐に忍ばせていた。
あれほど残酷な目に遭いながらも、彼女は聖母マリアの慈愛の面影を嫌いになることはできなかったのだ。ただ静かにマリア像へ祈りを捧げ、生きていく糧とすることを心に決めていたのだった。
小太郎はその事実を知っていたが、咎めることも、理由を問うことも一切しなかった。
小太郎の願いはただ一つ、「小百合に生きていてほしい」ということだけだったからだ。そのためであれば、彼女がどの神を信じようと何の関係もないと考えていたのである。
小太郎の示した見返りを求めぬ献身こそ、宗教が説く真の「無償の愛(慈悲)」そのものであった。
その柔軟で寛容な精神は、日本独特の寛容さ(アニミズム的調和)を象徴していた。小百合がキリシタンであろうとなかろうと、小太郎の愛は変わらない。彼は難しい宗教の教義など一切知らなかったが、宗教の本質である「救い」と「慈悲」を、その生き様によって体現していたのである。
山あいの村に、柔らかな初夏の陽光が降り注いでいた。爽やかな風が畑の緑を揺らし、頬を撫でていく。
「……道智様。日本はこれから、外国との付き合いを完全に止めてしまうのですか? それでは世界に取り残されてしまうのではないでしょうか」
小太郎が素直な疑問を口にした。
「……そうだな、小太郎。だが、我が国はまだ幼い子供のようなものだ。一度扉を閉じ、内なる知恵と力を磨き上げる時期が必要なのだよ。己と、己の国を信じるのだ。いつの日か、この国が堂々と世界へ羽ばたく日が必ず来るからな」
道智の言葉は、自らの胸に言い聞かせるようでもあった。
「……道智様。西洋の人たちは、なぜあれほど奴隷を欲しがるのでしょうか。おい(私)にはどうしても理解できんとです」
「うむ。高度な文明を持ちながら、世界中から人間を集めて奴隷としている……わしにも理解しがたいことだ。まるで『西洋人以外の人間は、酷使しても良い道具だ』と考えているかのようだな」
「そこですばい! 己は汗も流さず、他人に仕事をさせて楽をする……日本の国にはそんな考え方はなかです! なぜ自分の手を動かして働かんとでしょうか!」
「……まあ、日本とて完璧ではないがな。農民たちが泥に塗れて作った米によって、わしらは生きている。その尊さを忘れてしまえば、我らもいずれ南蛮人と同じように堕落してしまうだろう」
「はい、おいもそう思います! 日本では自分の汗を流して働くことこそが尊いと教えられてきました。南蛮人どもは、働くことを蔑んでいるように見えます」
道智の目が凛と光った。
「その通りだ、小太郎! 人間は自ら働くことを慈しまねばならん。この国は古来より『働くこと』を神聖な営みとして讃えてきた。だからこそ、奴隷などという歪んだ存在を必要としないのだ。もし働くことを卑しいと捉え始めたら、我が国も他の国々と変わらなくなってしまう。……小太郎、お主は大切な真理に気づいたな。偉いぞ」
褒められた小太郎は照れくさそうに笑い、小百合を見た。小百合もまた、温かい笑みを返した。
まだ若いふたりには、これから歩むべき長い未来が待っていた。世界や国家の大きな動向も気にはなるが、まずは目の前にあるささやかな日常を一生懸命に生きることがすべてであった。
生きていくこと自体が容易ではない時代において、「生きていること」そのものに感謝できる心を持つ人間こそが、最も尊い。亡き爺様が、穏やかな笑顔で見守ってくれているような気がした。
「……さあ小太郎、作業を再開するぞ! この畑仕事も、仏から授かった大切な修行だからな。小太郎よ、どのような場所に置かれようと、どのような仕事に就こうと、今という時間を全身全霊で生きるのだ。それこそが仏の真の教えなのだから」
「わかりました! さあ小百合、草むしりに精を出そう!」
小太郎の顔つきには、青年らしい頼もしさが宿っていた。
「はいっ!」
小百合も元気に頷いた。
澄み渡る風が、緑豊かな畑を吹き抜けて行った。
*
その後、西空と恵瓊はそれぞれの自寺へと戻り、修行の日々へと帰っていった。島田宗件と再会することは二度となかったが、誰もがそれぞれの持ち場で自らの人生を全うしたのだった。
小百合は小太郎と祝言を挙げ、共に身を寄せて寄り添い生きる道を選んだ。道智は伊良林の地へ戻り、長崎における仏教再興のための活動を精力的に続けた。
道智の志に触発されるように、全国から多くの高僧が長崎の地を訪れるようになった。
この事件から五年後の慶長十九年(一六一四年)、ついに徳川幕府から全国へ向けた「キリシタン禁教令」が発布された。これまでの牽制的な禁教令とは異なり、幕府の固い決意のもとで出された公式な布教全面禁止令であった。
これ以降、長崎を中心として凄惨なキリスト教弾圧の歴史が本格化していくこととなる。そして二十五年後、歴史に名を残す「島原の乱」が勃発し、翌年に鎮圧された。
この一連の歴史の濁流に対し、安易に善悪の烙印を押すことはできない。それぞれの「正義」と「信仰」が激しく衝突し合い、幾多の血と涙が流された歴史の真実が存在するだけである。
……本来、人間の孤独や絶望を救うために生まれてきたはずの「宗教」。しかし人は時に、その信仰ゆえに他者を傷つけ、深い悲しみを生み出してしまう。
だが、小太郎と小百合が示してみせた「純粋な愛」だけが、そうした悲惨な連鎖を断ち切る唯一の光であった。
「神が開けたパンドラの箱の底に、最後に残されたのは希望であった」という伝承がある。
だが真には、そこに残されていたのは「愛」だったのではないだろうか。
なぜなら——真の愛と希望は、いつの時代であっても、常に隣り合って存在するからである。
(了)

