封印の鳥居 ―― 消された太陽神
八月の終わりの湿った風が、山間の集落に吹き溜まっていた。
女子大学生の葵は、汗を拭いながらスマートフォン画面のマップアプリと古びた和紙のメモを見比べていた。大学の日本古代史ゼミで執筆中の卒論――『畿内と西国における太陽神信仰の変容』。その資料集めの最中、古い文献の片隅にだけ記されていた名がある。
『出雲坐天照御魂神社(いずみにますあまてるみたまじんじゃ)』
一般的な教科書や観光ガイドには一切載っていない。だが、対馬の阿麻氐留神社や京都の木嶋坐天照御魂神社を調べていくうちに、どうしても無視できない異質な「アマテル」の気配が、この山里の小さな社に繋がっていたのだ。
坂道を登りきると、鬱蒼とした杉林の合間に、木造の鳥居が佇んでいた。
何十年も手入れがなされていないのか、木肌は黒ずみ、苔がむしている。だが、不思議と威厳のような圧迫感があった。葵は首から下げた一眼レフカメラの電源を入れ、まずは鳥居の全景をフレームに収めてシャッターを切った。
カシャ、と乾いた音が静寂に響く。
鳥居をくぐり、石畳を踏みしめて境内へ進む。左右には苔むした狛犬が二体、険しい顔で境内の外を睨みつけるように立っていた。正面の社殿は小さく、ガラスの格子戸は固く閉ざされている。
「やっぱり、無人なのかな……」
葵が格子戸に近づき、薄暗い内部を覗き込もうとした、その時だった。
「何かご用かな、お嬢さん」
「――っ!?」
声はすぐ背後から聞こえた。気配など欠片もなかった。驚いて跳び起きるように振り返ると、そこには作務衣を着た小柄な老人が立っていた。竹箒を手に持ち、静かに目を細めている。
「あ……すみません! 驚かせてしまって。あの、私、大学で古代史を勉強していまして……この神社のことについて、少しお話を伺えないかと思いまして」
葵は慌てて名刺代わりに学生証を提示し、深く頭を下げた。
老人はふむ、と深く頷くと、穏やかな笑みを浮かべた。
「このような辺境の社に古代史の学徒とは珍しい。まあ、古いことだけが取り柄の社じゃからな」
「やっぱり、古いんですね。あの……こちらの祭神は『アマテル様』とお聞きして伺ったのですが」
葵がノートを取り出しながら尋ねると、老人の箒を動かす手がぴたりと止まった。
「……ほう。『アマテラス』ではなく、わざわざ『アマテル』と口にするか」
老人の目が、うっすらと開かれた。その瞳は濁りがなく、吸い込まれそうなほど深い黒色をしていた。
「ええ。皇室の祖先とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)とは別に、古代日本には『アマテル』と呼ばれる独自の太陽神が全国に存在していたはずなんです。対馬や京都、そしてこの出雲の地にも……。でも、大和朝廷による律令制の確立とともに、それらの多くは歴史の表舞台から消されたか、アマテラスに統合されてしまった。私は、その消された太陽神の足跡を追っているんです」
葵が熱を込めて語ると、老人は静かに竹箒を社務所の壁に立てかけた。
「そうかい。消された、か……。お嬢さん、良い眼をしている。だがな、消されたのではない。――閉じ込められたのじゃよ」
「え……? 閉じ込められた?」
「ついて来なさい」
老人はくるりと背を向け、社殿の側面へと歩き出した。葵は困惑しながらも、引き寄せられるようにその後に続いた。
社殿の裏手には、古びた本殿がひっそりと鎮座していた。その周りは極太の注連縄で厳重に囲まれている。
「お嬢さん。大学の講義では、あの鳥居というものは何だと教わった?」
「ええと……神域と人間社会を分ける『結界』です。人間や邪気・魔物が神聖な社殿に入り込まないようにするための門だと」
「逆じゃ」
老人は淡々と言い放った。
「逆、ですか……?」
「人間や魔物が入らぬようにしておるのではない。神がこの神社から外へ出られぬようにしておるのじゃ」
「な……何をおっしゃっているんですか? そんな話、どの文献にも……」
「文献を書いたのは誰じゃ? 勝利した大和の側だろう」
老人の声には、怒りとも嘆きともつかない、途方もない重みが宿っていた。
「大昔、大和と出雲は戦争をした。そして大和は出雲をねじ伏せ、乗っ取った。出雲の頭領であった大国主は、和睦の条件として誓約を交わした。『神の事象は出雲が治め、人の事象は大和が治める』とな。古事記にある国譲りの話じゃ」
「はい……建御雷神との交渉で、国を譲る代わりに目に見えない神々の世界を出雲が仕切ることになったという……」
「そうじゃ。しかし、大和は約束を守る気など端からなかった。和解に見せかけ、恐ろしい謀略を巡らせたのじゃ。大和は全国各地で自然そのもの――山や森、巨岩や川に宿っていた地方の神々……いわゆる『国津神(くにつかみ)』を、社という狭い木箱に誘い込み、そこに閉じ職めた。そして、入口に一つの仕掛けを置いた。それが鳥居じゃ」
葵は息を飲んだ。
「鳥居は、国津神を社に縛り付けるための異国の呪導網……巨大な結界じゃ。鳥居の上には『ヤタガラス』という大和の監視役が止まり、常に内部を睨んでおる。鳥居の形をよく思い出して見なさい。『天』という漢字に似ておろう。天とは、大和の天孫族のことじゃ」
(※葵のメモ帳:天 = 上の横棒二本 + 鳥居の脚部。天孫族が上から抑え込み、神の出口を塞ぐ形。)
「もともと鳥居はただの門じゃった。だが大和はそこに細工をし、天孫族の神は自由に通過できるが、国津神は決して潜り抜けられない仕掛けを施した。神社に閉じ込められた国津神は、人々との直接の交わりを断たれ、長い年月をかけて力を削がれていったのじゃよ……」
「そんな……じゃあ、アマテル様も……?」
「アマテル様だけではない。かつてこの国に満ちていた無数の原初神たちが、全国の神社という名の牢獄に囚われている」
老人は社殿を見上げ、深々と息を吐いた。
「だからこそ……『神無月』があるんじゃ」
「神無月……! 10月に全国の神様が出雲に集まるという……」
「そうじゃ。出雲ではそれを『神在月』と呼ぶ。全国の鳥居の結界が年に一度、一瞬だけ緩む時期がある。その隙を突き、囚われの神々が密かに身体を抜け出し、この出雲の地に集うのじゃ」
「集まって……何をするんですか?」
「決まっておろう。大和の呪縛を破り、再びこの国を本来の姿に戻すための……作戦会議じゃよ。伊勢の神々が神無月の件に一切触れず、知らん顔を決め込んでいるのはなぜか分かるか? 出雲に集う国津神たちの怨嗟と熱量が、恐ろしくて反論もできぬからじゃ」
背筋に、氷を突きつけられたような戦慄が走った。
学説でも伝説でもない。老人の語る言葉の一つひとつが、信じがたい現実味を帯びて葵の脳裏に突き刺さる。
「……でも、老爺さん。どうして私にそんな大切なことを話すんですか?」
老人は静かに葵を見つめた。
「お嬢さん。お前さんが首から下げているその機巧(からくり)で、さっきわしを撮ったろう?」
「え……あ、はい。鳥居と一緒に……」
「再生して見てごらん」
葵は震える指先でデジカメの再生ボタンを押した。液晶画面に、先ほど撮影した画像が表示される。
――画面を見て、葵は息が止まった。
木造の鳥居の横に立っているはずの老人の姿が、どこにも写っていない。
ただ、静まり返った背景の杉林と、古びた社務所だけがくっきりと写っている。
「え……? 嘘……そんな……」
驚愕して顔を上げた時、目の前にいたはずの老人の姿は、跡形もなく消え失せていた。
ヒュッ、と冷たい山風が境内を駆け抜ける。社殿の鈴が、誰の手も借りずに「ガラガラ……」と不気味な音を立てて揺れた。
「ひっ……!」
恐怖が全身の皮膚を粟立たせた。あの老人は人間ではない。神社に囚われ、何百年も力を削がれ続けてきた、この地の「神」そのものだったのだ。
葵は逃げ出そうと、踵を返して参道を走った。
汗だくになりながら、出口であるあの黒ずんだ鳥居へと突き進む。
――だが、鳥居の数メートル手前で、葵の足はピタリと止まった。
頭の中で、老人の言葉が鮮明に蘇る。
『鳥居は、通過を拒む巨大な結界じゃ』
『天孫族の神は通れるが、国津神は通れない』
目の前に立つ木造の鳥居。その二本の横柱が、まるで冷酷な「天」という文字の形をとって、葵の頭上に重くのしかかっているように見えた。
(私……アマテル様の存在を知ってしまった……)
(消された本当の神々の秘密を聞いてしまった……)
鳥居の柱の隙間から見える外の風景が、どこか遠く、別の世界の出来事のように歪んで見える。
「私……外に、出られるのかな……?」
自分がまだ「人間」なのか、それとも禁忌の真実に触れたことで「神の側の存在」として取り込まれてしまったのか――。
葵は脚を震わせながら、夕闇が迫る鳥居の影の下で、踏み出すことのできない一歩を前に立ち尽くしていた。


