「黒人疲れ」と、世界と日本の距離感
「黒人疲れ」という言葉から考えた、世界と日本の距離感
最近、YouTubeの外国人のトーク番組を見ていて「黒人疲れ(Black Fatigue)」という言葉を耳にした。
その意味は、欧米において人種平等運動(BLM等)やDEI(多様性・公平性・包摂性)が過剰に推進された結果、一般の市民層に疲弊感や不満が広がっている現象のことらしい。
そういえば、思い当たる節がある。
近年の欧米映画を見ると、黒人が主役になっている作品が明らかに増えた。それ自体は別にいいのだが、あの有名なスーパーヒーロー映画でも主役が黒人になり、一番驚いたのは『白雪姫』の実写映画で白人以外のキャストが白雪姫を演じていたことだ。
昭和の時代からディズニー作品に親しんできた東洋人の私としては、さすがに「白人以外の白雪姫」には違和感とショックを覚えた。「欧米の社会は少し病んでいるのではないか」と感じた瞬間でもあった。
膨らみ続ける「罪悪感」と社会の摩擦
もちろん、欧米の歴史における奴隷制や植民地支配はまぎれもない事実だ。
しかし、今になってその過剰な反動が出ているように見える。「白人であること自体の罪悪感」が道徳的圧力となり、過剰な配慮や優遇制度となって表社会に出てきているのではないか。
同じような摩擦はLGBTQ問題でも起きている。女性専用スペースや女子スポーツの現場で、従来の女性の権利や公平性とぶつかり合い、いわゆる「LGBTQ疲れ」を生み出している。拡大し続ける移民問題も、根っこは同質の歪みだろう。
「黒人疲れ」という言葉自体、現代では非常にセンシティブなテーマだ。それを白人の外国人ユーチューバーがオープンに議論していたことは新鮮だったし、「実はみんな、ずっと重苦しい違和感を抱えていたのではないか」と感じさせられた。
リベラル側の言い分と、日本人の「ピンとこなさ」
当然、こうした疲弊感に対してはリベラル(推進)側からの反論もあるようだ。
「疲れ」を覚えること自体が特権(Privilege)の証拠である
差別の構造性を無視した個人主義(実力主義)への批判
「マルクス主義」や「Woke」といった批判への反駁
社会が変化する過渡期の摩擦(バックラッシュ)に過ぎない
なるほど、論理としては解るような解らないような気もする。
私が無知なだけなのかもしれないが、正直なところ日本人の感覚としてはどうにもピンとこない。日本には欧米のような白人・黒人の歴史的対立が存在しないからだ。
一方で、東アジアに目を向ければ、韓国や中国は日本に対して必ずしも友好的とは言えない。しかし、だからと言って日本の映画やドラマの主役を無理やり中国人や韓国人に差し替えるような運動は起きていない。一部の政治的運動を除けば、大半の日本人はこうした過剰な属性政治を「静観」している。
これこそが、日本の国民性なのだろう。
東アジアの対立と「AI」の分析
気になって、「中国や韓国も西洋と同じように対立構造を好む傾向があるのか」とAIに尋ねてみた。すると、非常に興味深い回答が返ってきた。
中韓も政治的・社会的な対立構造をきわめて激しく作り出す傾向があります。
ただし、その根底にあるメカニズムは西洋の「一神教的な絶対的正義(善か悪か)」とは異なり、「儒教的な道徳優位主義」「政権交代の激しさ」「正統性を巡る序列意識」といった東アジア特有の文化・歴史的要素が影響しています。
なるほど、確かに中韓の場合は「感情論」や「道徳的なマウントの取り合い」がメインに見える。
中国大陸や朝鮮半島は歴史的に激しい覇権争いが続いてきた地域だ。そこに日本も歴史的に少し絡んでしまったがゆえに、今も巻き添えを食らい、不条理な因縁をつけられている側面がある。
私たちが取るべき「最良の知恵」
それでは、私たちはこれからどう振る舞えばいいのだろうか。
結論として、AIが提示してくれたこの視点が極めて的を射ていた。
欧米の一神教的「善悪二元論」とも、東アジア隣国の儒教的「道徳序列論」とも異なる、日本特有の「和を尊び、互いの分を認め、過度に介入しない(棲み分け)」という距離感は、対外的なトラブルを最小化するための強力な防壁である。
欧米の一神教的な絶対正義も、中韓の道徳的な対立構造も、話し合いによる「論理的な妥協」が端から通用しない土俵なのだ。
だからこそ、巻き込まれを最小限にする「実用的な静観」こそが重要になる。
「戦うのではなく、土俵に上がらず、粛々と自国の平和・秩序・調和を守る」
これからの時代、世界中で加速する思想的パニックに飲み込まれないために。この「静かな棲み分け」こそが、日本という社会を安全かつ健全に維持するための最良の知恵なのである。



