「あってはならない事故」という魔法の言葉
テレビのニュースをつけると、偉い人たちが並んで深々と頭を下げている。
フラッシュがパシャパシャと焚かれ、神妙な顔つきの代表者が、用意された紙を読み上げる。そこで必ず耳にするのが、あのお決まりのセリフである。
「この度は、あってはならない事故を起こしてしまい……」
私はこのフレーズを聞くたびに、強烈な胃もたれのような不快感を覚える。そもそも日本語としておかしくはないだろうか。「あってはならない」と「事故」という言葉を平然とくっつけて使う神経が、どうしても理解できないのだ。
辞書を引くまでもなく、「事故」とは本来、予期せぬ不運や不可抗力によって偶発的に起きてしまう災難を指す。一方で「あってはならない」とは、人間の作為や管理、判断によって絶対に防ぐべき義務があったことを意味する。
つまり「あってはならない事故」という珍妙な日本語は、「防ぐ義務をサボった人災です」という本音と、「でも突発的な不運だったことにしたい」という保身を、無理やり接着剤でくっつけた言葉のキメラなのだ。なんという便利な魔法の言葉だろうか。これさえ唱えれば、自分たちの怠慢やコスト削減のツケが、まるで「空から突然降ってきた不運」に早変わりするのだから。
思い返せば、この国には「便利な言い訳のテンプレート」が昔から見事に揃っている。
まず燦然と輝く金メダル級のセリフが「想定外」である。福島第一原発の事故のとき、耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。巨大な津波が来る可能性を事前に指摘されていたにもかかわらず、巨額の対策費をケチって見ないフリを決め込み、いざドカンと壊れたら「想定外の天変地異でした」と顔を覆う。自分たちで「想定の範囲」を都合よく狭く設定しておいて、そこからはみ出したら「想定外」と呼ぶのだから、これほど気楽なリスク管理はない。もし宝くじが外れるたびに「外れるとは想定外だった」と騒ぐ人間がいたら、ただの痛い人である。だが、大企業やエリート官僚がこれをやると、なぜか立派な釈明会見の台本として通用してしまう。
次に定番なのが「現場の判断」と「マニュアルの不徹底」である。
知床で観光船が沈んだときも、悪天候を無視して出航させた責任を、結局は現場の船長に丸投げするような姿勢が透けて見えた。最近でも、波浪注意報が出ている荒れた海へ修学旅行の船を出航させ、尊い生徒の命を奪った痛ましい事故があった。学校側の会見では「船長が大丈夫だと言った」「注意報のことは知らされなかった」と、見事な責任のパス回しが披露された。
注意報が出ている危険な海へ生徒を送り出しておきながら、いざ沈めば「不慮の事故」と呼び、「相手が何も言わなかったから」と他人のせいにする。これなら、安全管理責任者などというポストは不要だろう。責任を取る気がないのなら、パイプ椅子にでも座らせておけばいい。
そして会見の最後は、決まって「第三者による調査委員会の立ち上げ」と「再発防止に向けた周知徹底」で締めくくられる。具体的に誰がどう腹を切るのかは一切語らず、「現在調査中ですので」と時間を稼ぎ、世間の怒りが冷めるのをじっと待つ。あの深々としたお辞儀の角度は、被害者への謝罪ではなく、嵐が過ぎ去るのをやり過ごすための風よけの角度なのだ。
天災であれば仕方がない。巨大な地震や容赦ない台風は、人間の力ではどうにもならないことがある。しかし、人間が判断をサボり、警告を無視し、コストを惜しんで引き起こした悲劇は、絶対に「事故」などと呼んではならない。それはただの「人災」であり、もっと言えば「作為的な怠慢の結末」である。
取り返しのつかない結果をもたらしておきながら、「あってはならない事故」という言葉で薄め、悲劇を「運が悪かった話」にすり替える。そんな無責任な言葉のロンダリングに付き合わされる遺族や被害者の無念さは、いかばかりか。
そろそろ、あの用意された台本を読み上げるだけの茶番劇をやめてはどうだろうか。
会見を開く偉い方々には、ぜひ一度、心の底からの本音を語っていただきたいものだ。「コストを惜しんでサボっていたら、案の定やらかしてしまいました。すべて私たちの責任です」と。まあ、そんな潔いセリフが聞ける日は、天地がひっくり返っても「想定外」だろうけれど。



