レンズの先のサディズム―祭りを食い荒らす「自称カメラマン」と法の抜け穴
〈高円寺阿波踊りでも不安の声〉「踊る姿は見てほしいが…」女性踊り手の性的消費とSNS拡散、一律の撮影規制に揺れる現場の葛藤(集英社オンライン)
夏の風物詩といえば、夜空を彩る花火、響き渡るお囃子、そして汗を流して乱舞する踊り手たちである。しかし近年、伝統ある祭りの沿道に、もうひとつの「熱狂的な生態系」が定着しつつある。巨大な望遠レンズを構え、踊り手の胸元や太もも、衣装の隙間を異常な執念で狙い続ける「自称・写真愛好家」たちだ。
彼らの情熱は凄まじい。祭りの熱気や文化の美しさなど眼中にない。レンズの先にあるのは、ただ一点、性的なアングルだけである。そして、その獲物を手に入れた後のお楽しみが、インターネットという現代の広場への「無断陳列」だ。ご丁寧にスローモーション加工を施し、扇情的な言葉を添えてSNSや掲示板へ放流する。
世間ではこれを「歪んだ性癖」などと片付けがちだが、精神医学の物差しを当ててみれば、事はそう単純ではない。これは「マゾヒズム(被虐趣味)」などという可愛らしいものではなく、他者を一方的に辱め、コントロール下に置くことで快感を貪る純然たる「サディズム(加虐性)」であり、肥大化した自己愛と承認欲求の成れの果てである。手の届かない輝く存在を自分の手で性的なコンテンツに引きずり下ろし、ネットの同類たちから「神の一枚」と称賛されることで全能感を味わう。他人の尊厳を燃料にして燃え上がる、なんとも燃費の悪い自己顕示欲だ。
写真という技術には、そもそも残酷な一面がある。「時間を切り取る」という便利な機能は、見方を変えれば「被写体から文脈を剥ぎ取り、物として固定化する」行為でもある。祭りの躍動感の中で一瞬だけ生じた着崩れを、永遠のデジタル標本として固定し、全世界に晒し上げる。一度ネットの海に流された画像は「デジタルタトゥー」となり、被害者に消えない恐怖を与え続ける。シャッターひとつで他人の人生に泥を塗れるのだから、これほど安上がりで卑劣な暴力も珍しい。
では、なぜこんな連中を現場で一網打尽にできないのか。ここに現代社会の皮肉なジレンマがある。
2023年に「性的姿態撮影等処罰法(撮影罪)」が施行され、盗撮や無断公表への包囲網は確かに狭まった。下着を直接覗き込むような古典的マヌケなら、警察も現行犯で御用とお縄を頂戴させられる。しかし、現代のハンターたちはもっと狡猾だ。公道の安全な距離から望遠レンズを使い、着物の上から際どいラインを切り取る。「伝統の美を撮っていただけ」「祭りの躍動感を記録していた」と澄まし顔で言い逃れをされれば、警察官も現場で内心のスケベ心まで家宅捜索するわけにはいかない。
近代国家は、どんなに醜悪な欲望であっても「内心の自由」だけは保障してしまう。心の中で何を妄想しようが、法律は手を出せない。その結果、現場は「表現の自由」や「公道での撮影」という美名に守られたグレーゾーンの跳梁跋扈を許すことになる。
結局のところ、割を食うのはいつも純粋な踊り手たちだ。猛暑の中で見せパンやインナーを着込み、熱中症のリスクと戦いながら自衛を強いられる。耐えかねた女性や子どもたちが祭りを去り、伝統文化が痩せ細っていく。レンズを抱えた現代の妖怪たちは、文化を愛でるふりをしながら、その実、文化を内側から食い荒らしているのだ。
法律が内心を裁けない以上、彼らに思い知らせる方法はひとつしかない。「あなたのやっていることは芸術でも趣味でもなく、ただの陰湿な加虐行為であり、バレた瞬間にとんでもない代償(社会的破滅と賠償金)を払う割に合わない愚行だ」という現実を、規約と法的手続きで淡々と突きつけることである。他人の尊厳をオカズにして得られる安っぽい承認など、人生を棒に振るほどの価値はないのだから。



