ヒマラヤの土石流と大国たちの「華麗なる言い逃れ」
ネパール外相、土石流巡り中国・アメリカ・インドに「補償」求める考え…温室効果ガスの主要排出国
読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20260902-GYT1I00457/
ツケを払うのはいつも下流の住人
ヒマラヤの山あいで起きた大規模な土石流をめぐり、ネパールの外相が国際社会に強烈な一石を投じた。
中国、アメリカ、インドといった世界有数の温室効果ガス排出国を名指しし、
「あなたたちが大量の温室効果ガスを出してきた結果、われわれの国が被害を受けている。ならば、その損害を補償すべきではないか」
という趣旨の主張をしたのである。
国際外交の社交辞令が飛び交う世界にあって、これはかなり踏み込んだ発言である。
なぜなら、大国が最も聞きたくない言葉の一つが「補償」だからだ。
「支援」はする。しかし「責任」は認めない
ネパールの言い分には、それなりの説得力がある。
ネパール自身の温室効果ガス排出量は、世界全体から見ればごくわずかである。大規模な工業化によって莫大な利益を得てきたわけでもない。
それなのに、気温上昇によって氷河が融解し、洪水や土石流などの被害を受ける危険性は高まっている。
たとえるなら、隣のテーブルで豪華な料理を食べ散らかした客の請求書を、なぜか水しか飲んでいない自分が渡されたようなものである。
ところが大国側の対応は実に巧妙だ。
災害が起これば救援物資を送る。捜索活動を支援する。ヘリコプターを飛ばす。もちろん、それ自体は必要であり、人道的にも意味がある。
しかし、「あなたたちの排出によって被害が起きたのだから補償してください」と言われた瞬間、話は別になる。
大国は急に耳が遠くなる。
理由は単純である。
一度でも、
「わが国の排出によって、あなたの国に損害を与えました」
と認めてしまえば、世界中の島国、干ばつ地域、洪水被災地、山岳国から次々と請求書が届く可能性があるからだ。
そこで使われる便利な言葉が「人道支援」である。
悪いことをしたから払うのではない。
困っている人を善意で助けているだけだ。
つまり、同じ金を出すにしても、
「賠償金」ではなく「お見舞金」にしたいのである。
国際政治では、看板を掛け替えるだけで責任の意味が大きく変わる。
なかなか見事な伝統芸である。
地球を汚して儲け、今度は掃除道具で儲ける
さらに皮肉なのは、これまで大量の石炭や石油を燃やして豊かになった国々が、現在では「脱炭素のリーダー」を名乗っていることである。
産業革命以降、大量の化石燃料を使い、工場を建て、車を走らせ、飛行機を飛ばし、世界規模で経済成長を続けてきた。
そして十分に豊かになったところで、
「これからは地球環境を守らなければならない」
と言い始めた。
もちろん脱炭素そのものは必要である。
しかし途上国側から見れば、多少言いたいこともあるだろう。
先に好きなだけ石炭を燃やした人たちが、後から参加した人に向かって、
「石炭を燃やすなんて時代遅れですよ」
と説教しているようにも見えるからだ。
しかも、その先進国が開発したEV、蓄電池、再生可能エネルギー設備、排出量取引などが、新たな巨大市場になっている。
部屋を散らかして大儲けした人が、今度は高性能掃除機を売って、もう一度儲ける。
言い方は悪いが、そんな構図にも見える。
もちろん彼らはこう説明するだろう。
「市場原理に基づく技術革新への正当な対価です」
なるほど。
厚かましさも理論武装すれば、立派な経済政策になるらしい。
植民地支配でも繰り返された「責任の線引き」
この構図は、気候変動だけの話ではない。
植民地支配や奴隷貿易をめぐる議論でも、似たような問題が繰り返されてきた。
かつてアジアやアフリカを植民地化し、資源や文化財を持ち出した旧宗主国に対し、「返還」や「補償」を求める声は今もある。
しかし、そこで必ず問題になるのが、
「現在の価値観や法律を、過去の行為にそのまま適用できるのか」
という議論である。
法的には複雑な問題であり、単純に善悪だけで片づけられる話ではない。
とはいえ、被害を受けた側から見れば、どうしても割り切れない。
世界のルールを作る力を持っていた国々が、そのルールの中で利益を得てきた。
そして後になって被害を訴えられると、
「当時のルールでは問題ありませんでした」
と言う。
強者がリングを作り、強者が審判を決め、強者がルールブックを書いている。
弱い側が不公平だと感じるのも無理はない。
現代の気候変動でも同じことである。
「損失と損害基金」など、被害国を支援する仕組みは作られつつある。
しかし大国側は、それを自国の法的責任を認める「賠償制度」とは明確に区別しようとする。
ここにも、「金は出す。しかし罪は認めない」という絶妙な線引きがある。
正義は最後には財布と相談する
ネパール外相の発言が突きつけたのは、結局この問題である。
気候変動によって大きな被害を受ける国々にとって、「気候正義」はきれいなスローガンではない。
島が沈むかもしれない。
農地が干上がるかもしれない。
氷河が崩れ、村が流されるかもしれない。
文字どおり、生存に関わる問題である。
しかし大国にとっては、もう一つ別の問題がある。
「では、誰がいくら払うのか」
である。
国際会議では、
「地球を守ろう」
「未来の世代のために行動しよう」
「気候正義を実現しよう」
という美しい言葉が並ぶ。
その裏側では、各国の官僚や法律家が電卓を叩きながら、
「どこまでなら払えるか」
「どこから先は法的責任になるか」
「前例を作らずに済む表現は何か」
と頭をひねっている。
地球環境の問題であっても、最後に登場するのはやはり財布である。
そして残念ながら、歴史を振り返れば、その財布のツケを最初に払わされるのは、たいてい力の弱い国や地域だ。
山が崩れようと、海面が上がろうと、大国側の回答はおそらくこうなる。
「大変お気の毒です。心よりお見舞い申し上げます。ただし、当方の法的責任については認めることができません」
そして最後に、にこやかな笑顔でこう付け加える。
「なお、環境配慮型インフラ整備のための低利融資をご用意しております。ぜひご検討ください」
被害者に請求書を渡したあと、分割払いのローンまで紹介する。
これほど完成された商売も、なかなかないのである。




