名護屋城跡の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/nagoya/kaisetu.html名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
ここは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築城された「名護屋城」の城跡である。
尾張名古屋と音が同じ名護屋で、何か秀吉が意図的につけたのかと思ったが、たまたま偶然だった。
尾張の方は那古野(名古屋)氏がいて、ここは名護屋氏が所領していたらしい。
「なごや」の意味は、和やかな等という「なご」からきている。
他説には霧(ナゴ)の多い土地とか、波が高くしばしば海岸を越える土地だから(浪越)とある。
(黒澤明監督による『乱』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。)
何もない観光地
名護屋城跡は何もない。石垣などの城跡のみである。
しかし、案内板にある戦国武将の名前はなじみのあるものばかりで、不思議なリアリティーがある。
文禄・慶長の役に際し築かれた大阪城に次ぐ巨大な城だったとある。
確かに、広い敷地を回るだけで30分ほどかかった。
そして、空き地には天守閣後を示す石の塔がぽんと置かれている。
「太閤が 睨みし海の 霞かな」
青木月斗という昭和の句人が詠んだ句の碑が建てられている。
この名護屋城跡は秀吉そのものだ。
そして、その号令に全国から集まってきた武将たちの跡もある。
徳川家康、伊達政宗、そんな有名人たちもこの地にいたのだ。
想像するだけで嬉しくなってしまう。
時間を経て、秀吉や戦国武将たちの視線を共有していると思えば、感動ものである。
秀吉が見ていた、朝鮮半島。
そこに何があったのか。
玄海の海のかなたに見える、壱岐と対馬の島影。
確かに見えるのだ。
それがわかっただけで、ここに来た甲斐があった。