コッコデショは大阪・四国の檀尻が起源

全国版の報道ステーションというテレビショーで取り上げられたコッコデショ。2018年の今年はおくんちに登場する。

長崎くんち 太鼓山〈コッコデショ〉

そこでコッコデショの歴史をおさらいする。

正式には樺島町太鼓山といい、「男」の演し物であるため、女はコッコデショを担いだり乗ったりしてはならないという決まりがある。これは女人禁制という一般的な神事の決まりごとを踏襲しているだけで深い意味はない。

樺島町

この出し物をやる樺島(かばしま)町だが、樺島が長崎市内に出来たのは1580年頃とされている。

1580年というのは大村純忠が長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した年である。

樺島町はもともと長崎(野母)半島の島の名前で、この島には湧き水が多く、川場島(かわばしま)と呼ばれていたが、それが樺島(かばしま)という名前になったと言われている。ウィキペディア

樺(かば)とは、みんながよく知っている白樺のとおり、樺の木の事であり、硬い木で平らな面がいつまでも保持出来るという事で体育館の床などによく使われている。もともと寒い地域に生える広葉樹だが九州にも高地にはえている。

樺(かば)は「かにわ」「かんば」とも読むし、昔は船にも使っていたとあるので川場島(かわばしま)が樺島(かばしま)となったという説は頷ける。

 

その野母の樺島に天然痘が流行った。

天然痘

この天然痘、恐ろしい病気で「うつる」伝染病である。中国大陸からやってきた病気で日本書紀にも天然痘の事が書いてあるくらい古い。

その天然痘が野母の樺島に発生したため、現在の樺島町に移り住んだことから樺島町ができた。

多分野母の樺島にもキリシタン信者がいて、長崎がキリシタンの町になったので、その伝手で長崎に移り住んだと思われる。

という事は長崎の樺島町はキリシタンの町だったと推測できる。

各地のコッコデショ

樺島町は海岸ので船乗りたちの宿泊施設があった。

その当時貿易相手のオランダや唐の貨物運送をしていた大阪堺の船乗りたちが樺島町に宿泊していて、堺檀尻(だんじり)の事を伝えたという。

これがコッコデショの始まりである。

現在の写真を見ると、淡路島津井の布団だんじり、大阪堺 西湊ふとん太鼓がコッコデショとそっくりだ。

大阪_堺_西湊_ふとん太鼓

淡路島津井の布団だんじり

また、掛け声や歌などは印象は違うが、最初子供であと男衆というだんじり唄の定石は、長崎のコッコデショにも受け継がれているようだ。

また、四国の久通太鼓台もよく似ている。

高松市牟礼町の久通太鼓台 ユーチューブ
https://youtu.be/-ikglSsbH1g

第40回 堺まつり パレード 西湊ふとん太鼓
https://youtu.be/RkqzNZauzkg

長崎のくんちはキリスト教対策のイベントである。

諏訪神社は長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社にして全国に約25,000社ある巨大な神社組織である。本来出雲系の神を祀っており、縄文の信仰ともいわれている。

諏訪神社

創建は1555年となっているが諸説がある。

キリシタンの町になって、長崎市内の神社仏閣がキリシタンから焼き討ちになっている時期である。

だれも神社を復興しようとしなかったが、長崎奉行や代官らの役人たちから後押しを受け、青木賢清という修験者(山伏)を連れてきて神主とし、キリスト教徒の妨害をしのぎながら、現在の松森神社の場所に小さな神社をなんとか立てたのが始まりである。

修験者(山伏)というのは、どこか怪しげで、青木賢清もキリシタンから「天狗」つまり「悪魔」とののしられていた人物である。ウィキペディア

まあ、対キリシタンで国の援助を受けてなんとか作り上げた神社で、そこから、これまた対キリシタン工作としてイベント型お祭りを作り上げたのだ。

おくんち

長崎のおくんちの特色は、ショーアップされた出し物に特色がある。

色んな場所の出し物をアレンジして、ショーとして披露するので、見た目がとてもいい。

コッコデショも大坂、四国の檀尻よりかなりショーアップしているのを見ればそれがよくわかる。

そして他の地域のお祭りと決定的に違うのが、民衆参加の神事ではないという所にある。

なんだか非難めいてきたが、それが長崎のおくんちの特色なのだ。

だから、見せる時神社は木戸銭をとる。

祭りの出し物をお金を取って見せるのは長崎だけだ。

色々書いたが、長崎のコッコデショは素晴らしい。

たとえ大元が大阪、四国の出し物だとしても、長崎らしくショーアップされている素敵な出しものである。

私もみんなと同じように、今年のくんちを楽しみにしているのだ。

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