長崎の中世、つまり平安、鎌倉、室町時代の読み物はあまりない。殆どが江戸時代初期からの話ばかりである。まあ開港以後は沢山の記録もあり、長崎独特の和華蘭文化が開花するのだから、話が面白いことも事実である。
 

平安時代

 
さて多治比(たじひ)氏だが、色んな本の中でまともに書いていたのは、外山先生の本だけのようだ。
 
多治比(たじひ)氏は、長崎氏、戸町氏、大浦氏、大串氏、時津氏、矢上氏達の本家である。つまり中世の長崎は多治比(たじひ)一族が長崎に根を張っていた世界である。
 
さてこの多治比(たじひ)とは、どんな一族だろうか。
 
ウィキペディアでも詳しくは出ていないが、宣化天皇の三世孫多治比古王を祖とするとある。
 
宣化(せんか)天皇は第28代天皇であり、時代も467年-539年と古い。もともと河内国多比郡(現在の大阪付近)を根拠地としていたとある。奈良中期までは一流貴族の地位を確保したが、その後は藤原氏繁栄の前にしだいに影が薄くなり、平安初期を境に、やがて中央政界から消えていったらしい。
 
とすれば長崎に住み着いたのは、平安中期以降だろう。
 
多治比(たじひ)氏の名前は、多治比(イタドリ)の花が産湯の釜に飛来し浮かんだことにちなみ,多治比古と名づけたことにあるという。
 
多治比(イタドリ)は野草とあり、名前を聞いてもピンとこないが、食べられる草であり、新芽は(タケノコのような姿のもの)を採取し、皮をむいてたべ、全国にいろんな名前でその料理が存在する。
 

イタドリ

 
また、薬にもなり虎杖根(こじょうこん)という名前で、緩下作用、利尿作用があるとして民間薬として使われ、傷口に当てると多少ながら止血作用があり、痛みも和らぐとされる。これが「イタドリ」という和名の由来でもある。ウィキペディア
 
 
野草とはいえ人間にとって有益な草だったといえる。
 
そんな名前の由来を持つ平安貴族だったが、平安時代各地に散らばって、その一派が武士化して長崎に住み着いたといえる。
 
時代が鎌倉時代に移り、鎌倉幕府の権勢は当然長崎まで及んでいる。ただ、長崎の多治比(たじひ)一族は中小領主だったので、劇的な政権交代だったが寛容な態度で接してくれたらしい。
 
(しかし戸町氏は平家側だったらしく、戸町浦地頭職を首になったとある。戸町氏は粘り強い人だったらしく、その失職でへこたれず復活し、戸町の新地頭の深堀氏と対立することになったらしい。色々あるね。)
 
 
 
長崎の古代といえば、岩屋神社や野母崎の観音寺の創建700年代という数字があるように、無人の地だったわけではない。
 
663年の白村江の戦いもあり、朝鮮半島の百済難民を肥前は受け入れている。長崎にも百済難民はいたに違いない。
 
そんな中、激動の長崎とは言えないが、没落貴族の多治比(たじひ)一族は長崎に根を張った。
 
ただ多治比(たじひ)一族がメインになったのではなく、その一族が長崎市内に散らばり所領を持ったという事は、長崎にも武士誕生の物語があったという事である。
 
残念ながら多治比(たじひ)一族の探求はここまでである。要するに記録がないのでわからないのだ。
 
しかし、多治比(たじひ)という名前は知っておくべきである。