イギリスの成り立ち 要約(まとめ)
ユニオンジャック
女王陛下、ロールスロイス、ビートルズ、スコッチウィスキー
日本にも馴染みのあるイギリスだが、その成り立ちは複雑である。
イギリスの歴史をまとめてみた。
イギリスの正式名称
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
英: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
連合王国(イギリス)
イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド(現在では北アイルランドのみ)より成る。
ヨーロッパ大陸の北西岸に位置し、同国はグレートブリテン島、アイルランド島北東部、その他多くの島嶼を含む。
イギリスの人口は6,471万人。
同国の統治は、議院内閣制の立憲君主制に基づいている。
首都ロンドン
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の成立の流れ
イングランド
紀元前 ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立
ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族。
西暦43年ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服した。
ローマ帝国時代のブリタニアはケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨した。
ゲルマン人のアングロ・サクソン諸部族がブリタニアに侵入し、グレート・ブリテン島南部を征服した。
ゲルマン人
ゲルマン語を使い、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。
アングロ・サクソン人
5世紀頃、現在のドイツ北岸、南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。
その結果アングロサクソン七王国ができる。
5-7世紀にブリテン島南部のピクト人はアングロ・サクソンによって吸収・消滅。
有名な逸話
ブリトン人の君主アーサー王の伝説。
アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物「これを引き抜いた者は王となるだろう」と書かれた台座に刺さっていた剣を引き抜き、魔法使いマーリンの助けで名君に成長していく。聖剣エクスカリバー
アーサーは諸侯の騎士たちを臣下に迎えて円卓に席を与え、円卓の騎士が結成される。
ブリテン島南部の小国家割拠状態の中から次第にイングランド地方が形成されていった。
(イングランドの名称はアングロ・サクソン諸部族の中のアングル人に由来する)
ウェールズ、スコットランド、アイルランドにはケルト系部族国家が継続した。
9世紀の初めにウェセックス王国のアルフレッド大王によって政治的に統一される。
1013年にはデンマークのカヌート大王(クヌート)によってイングランドは北海帝国の領域に組み込まれ1042年まで支配される。
1066年にフランスのウィリアム1世によって征服、支配される。
(その結果イングランドはフランス文化の影響を強く受ける)
ウェールズを併合
イングランドのエドワード1世がウェールズ大公を殺し屈服させる。
そしてイングランドの政治的支配下に入る。
イギリスを構成する4つの非独立国のうち、ウェールズは13世紀末という早い時期にイングランドに服属し国権の一体化が進んでいたため、国旗の中にウェールズの国旗の意匠が取り入られることがなかった。
アイルランドを植民地化
12世紀中頃 イングランドのヘンリー2世が軍を率いてアイルランドに上陸し支配する。
しかし、アイルランドの抵抗は成功し、イングランドの支配から脱却。
スコットランドと連合
スコットランドはケルト系ピクト人、ゲール人人、アングロサクソン人、ヴァイキング等が次々に渡来し混在し混じり合って出来る。
(13世紀 ロビン・フッド 弓の名手で、イギリスのノッティンガムのシャーウッドの森に住むアウトロー集団の首領で義賊)
その後たびたびイングランドが軍事侵攻。
最大のものは1292年のイングランド王エドワード1世による侵攻
スコットランドは一時的にイングランドの隷属下に置かれたが、ウィリアム・ウォレスの反乱(参考映画ブレイブハート)などスコットランドはイングランドに対抗
14世紀初めまでにスコットランドは再びイングランドからの独立。
アイルランドを併合
1541年ヘンリー8世は一方的に「アイルランド王」を自称。ジェームズ1世の統治下でアイルランド全島の支配が確立した。
グレートブリテン王国の成立
(参考映画 恋におちたシェイクスピア 1564年ウィリアム・シェイクスピア誕生
・『エリザベス』)
1707年にアン女王がイングランドとスコットランドの合同法が成立し、グレートブリテン王国として一体化した。
大英帝国
イギリスの歴史の中で植民地政策は大きい。
大英帝国ともいわれ、その全盛期には世界史上最大の面積を誇る帝国であり、唯一の超大国とも呼べる地位にあった。
19世紀中葉のイギリス最盛期時代(ビクトリア期)に、英国世界(世界市場)の半分を握る国家として存在していたのだが、植民地の経済に依存していたイギリスは、植民地をもたない米独に工業で追い抜かれしまう。
植民地拡大の時代
国内の絶対王権が安定したのちイギリスは17世紀初頭にオランダ共和国とともに大航海時代に乗り出す。
東インド会社はアジアに進出し、主にインドに拠点を確保する一方、北米大陸にも多数の植民者を送り出した。
19世紀後半のヴィクトリア朝時代には、大英帝国の絶頂期を迎える。
(参考にしたい映画 ヴィクトリア女王 世紀の愛)
イギリスの植民地(70ヶ国以上)
アメリカ合衆国東海岸(独立時の13州)
カナダのケベック以外のほぼ全域
エジプト以南の東アフリカ
インド(現在のパキスタン、バングラデシュ含む)
マレー(シンガポール、東カリマンタン含む)
オーストラリア、ニュージーランド
カリブ海のスペイン領以外の小島
フォークランド諸島
第1次世界大戦後の中東(今のイラクあたり)
中国の華北地域と香港
イギリスの戦争
100年戦争
フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。
1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態をさす。
フランス絶対絶命の時に現れたのが、ジャンヌ・ダルク
結果 イギリスはカレーを除いて、大陸から撤退しグレートブリテン島に収まる。
薔薇戦争
百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱である。共にプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争で。
(1787年 フランス革命 「ベルサイユのばら」1799年のナポレオンによるクーデターまでが革命期とされている)
1814年から1815年 ナポレオン戦争後のヨーロッパの枠組みを話し合うべくウィーン会議が開かれる。
「会議は踊る、されど進まず。」
第一次世界大戦
イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランス、ロシアと三国協商を結び、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗。
1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入。
アメリカの助けを借りてイギリス・フランスが辛勝する。
この後、イギリスの発言権は弱まりはじめていく。
第二次世界大戦
1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドへの侵攻を始めたのに対し、イギリスはフランスはドイツに宣戦布告をし第二次世界大戦が勃発。
1945年9月2日にはポツダム宣言が調印され、ドイツ、イタリア、日本は無条件降伏。
第二次世界大戦終結後、ヨーロッパは自由主義国家群の西ヨーロッパと、社会主義国家群による東ヨーロッパの2つに分裂。