江の浦
現在は埋め立てられていて昔の姿はまったくないが、旭町商店街に写真スタジオを構えていた私にとって、最も馴染み深い地域でもある。
またこの地域には有名なお栄さんのホテル、ヴェスナがあり、丸尾山があった入江を江の浦という。
ロシア人のためのホテルヴェスナは船津浦(現在は旭町)といい、俗にロシア村といわれていた地域である。
江の浦は、江戸時代では浦上淵村稲佐郷に属し、大正2年(1913)稲佐町、旭町などとなり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の町域の江の浦町になったという。
名前の由来は、海が陸地に入っている状態(入江)だから、江の浦となった。
この川はいろいろ埋め立てられているが、現在も稲佐山中腹から流れているのを確認できる。
稲佐地区と弘法大師
江の浦川をたどりバイクで細道を登っていくと、弘法大師の像が見える。なかなか大きいしっかりとした石像である。
いってみると小屋には長崎四国第四十三番霊場とある。
その下には長崎へんろという看板があり、さらにもう一枚には長崎四国八十八ヶ所霊場巡拝案内の文字が有り、萬福寺-江の浦大師堂-大龍山泰三寺とある。
萬福寺は稲佐警察署を下った場所に有り、昔は延命寺といっていた。
長崎へんろのへんろとは、四国のお遍路のことである。
「お遍路」とは、弘法大師(空海)の 足跡をたどり、八十八ヶ所の霊場を巡拝することをいい、四国だけではなく全国にもお遍路と呼ばれる巡礼がある。いつ頃作られたかわからないが、そんなに古くはない作りのようだ。
空海は長崎に大変関係がある。804年、第14回遣唐使船4隻が、久賀田之浦(三井楽)に寄泊後、唐に出発したと伝わるもので(肥前国風土記)、この船団の中に、当時31才の空海、38才の最澄が唐に向けて出発をした。
長崎市には香焼(こうやぎ)という島があるが、嵐にあった空海を乗せた船は緊急でこの島に立ち寄り祈りのためにお香をたいて祈ったという。
香焼(こうやぎ)という地名の由来には、この伝説からきたものだという。
また長崎市の岩屋山には空海が入山したとも伝えられており、小さな伝説が長崎にも数多く残っている。
そのせいかもしれないが、私の家も真言宗である。なので仏壇には弘法大師が祀られており、お経は「南無大師遍照金剛」から始まる。
江の浦地域のお寺は悟真寺と萬福寺がある。
悟真寺については又次の機会に書きたいが、ここは長崎で一番古い寺とされている。寺院創建は1598年とされているが、この場所は「淵村稲佐郷の岩屋山神宮寺支院跡地」である。
岩屋山神宮寺は正確な創建は不明だが、西暦700年代といわれている。つまり悟真寺が立つ700年か800年にすでにこの稲佐の江の浦地域にお寺があったということである。
悟真寺の近くに第23番札所の「宝珠山萬福寺」がある。昔は延命寺さんと呼ばれていたが、近年「萬福寺」となったが、一覧などでは「延命寺別院・萬福寺」と記載されている。
この萬福寺は現在、コンクリート作りのビルになっているが、木造からビルに建て替える際、檀家から寄付を募り、その高額さに私はびっくりしたものだった。
古代の江の浦を想像すると、悟真寺の場所に岩屋山神宮寺支院があり、ある程度は栄えていたのだと思える。記録もなにもない地域だが、この地域の弘法大師信仰は古代よりあり、それが現在まで息づいているのだ。