長崎に黒船あらわる
黒船と言えばアメリカのペリーで、歴史を知らなくても関東の横須賀(神奈川)にでっかい船が現れて、日本人がびっくりしたという話はみんな知っている。
実は長崎にも黒船が来ている。
ペリーが浦賀を去って1月後、ロシア海軍4隻の軍艦が長崎港に現れたのだ。
黒船来航
嘉永6年(1853)7月18日、今度はロシアの海軍中将プチャーチンが4隻の軍艦を率いて長崎に来航しました。プチャーチンの目的は、開国と通商、さらに千島・樺太の国境を決めることでした。
威圧的なアメリカのペリーと比べ、ロシアのプチャーチンはあくまでも紳士的であったという。そのため、江戸には直接行かずに長崎にやって来たという。
紳士的と言っても「冷静、丁重、強硬」という、日本をある程度見下してはいたのだが。
しかし、長崎奉行所の態度は煮えきらず江戸に問い合わせるという事で、一度は長崎を去ったが、結局ロシア軍隊は長崎にやってくることになったのだ。
この時期、日本はアメリカ、イギリス、ロシアの恫喝に等しい開国要求を飲まされてしまう、弱い立場であったことは間違いない。
また国際法に無知な日本人は、様々な不利な条約を締結してしまう。
この屈辱が、日本の明治維新の原動力になっていく。
ヨーロッパやロシア、アメリカは白人の国の住人である。
アジアの極東にある日本など、黄色いサル程度にしか思っていたことは間違いない。
この話は、現在(2018)放映されているNHKの大河ドラマの「西郷どん」の方をご覧になったほうがよくわかると思う。
ロシア村
さて、長崎にやって来たロシア人は泊まるところが必要である。
その場所が、私の地元「稲佐」である。
稲佐はロシア村とも呼ばれていた時期があり、いろんな資料が残っている。
そして稲佐に新しい場所が一つ出来上がる。
ロシア艦隊の乗組員向けにつくられた「稲佐遊郭」である。
昭和33年(1958)の売春防止法施行まで続いた稲佐遊郭は、大正14年(1925)当時、貸座敷は19軒、娼妓の数は154名にものぼったそうだ。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0904/index2.html
長崎には丸山花街がある。出来たのはかなり古く長崎開港(1570)の時である。
その時代は鎖国政策で、外国人が集められた出島が出来てオランダ人、ポルトガル人いた。
そして丸山遊女が唐人屋敷やオランダ屋敷(出島)への出入りを許されていた事もあり、遊女の衣装は豪華絢爛であり日本の中でも特別視されていたほどである。
その数は 延宝版「長崎土産」には「丸山町遊女屋59軒遊女335人内太夫69人、寄合町遊女屋44軒遊女431人内太夫58人」とある。
長崎にロシア人が来たのは、江戸時代末期である。
観光に来ていたわけではない。日本を脅しに来ているのだ。なので態度がでかい。
ロシア人が長崎の中心地に来るのを嫌がり、対岸の稲佐にロシア人専用の遊郭を作ったのだ。
長崎にやって来たロシア人達は、将校と水夫では教育の程度の差が大きかったらしく、丸山の遊女は粗暴な水夫を嫌っていた。
そのせいもあり稲佐遊郭は乗組員専用ということになったとある。
検梅
万延元年(1860)に来日したロシア海軍提督ピリレフの要請により、稲佐遊郭において日本で初めて検梅が行われたのは有名である。
その時は稲佐遊郭だったらしく、丸山遊郭は検梅を拒否している。
しかし「1870年英国海軍軍医ニュートン来崎、丸山遊女に検梅実施、激しい反対・抗議起こる」と記録にある。
この事でも、丸山と稲佐の違いを知ることが出来る。
日露戦争のステッセル将軍が稲佐に宿泊
日露戦争で負けて捕虜となったステッセル将軍は稲佐に宿泊させられている。(家族一行16名で稲佐に上陸し、お栄のホテルに3日間滞在した)
この話は有名で、稲佐には「ステッセル上陸の碑」が立っているくらいである。
以上の話は、いろんな本に載っているので詳細は省くが、日本とロシアが戦争をして、日本が勝ったという事実すら知らない若者が多い。
長崎は終戦時原爆が投下されているので、戦後「平和教育」がしっかり行われ、明治維新から大東亜戦争敗戦までの歴史を語ることがはばかれていたような気がする。
稲佐遊郭一つをとっても、ヨーロッパの植民地政策に翻弄されている、弱小アジア国日本の姿が浮かび上がってくるのだ。
戦争反対を強く唱えるなら、日本の戦争の歴史を客観的に知る必要がある。歴史を知らなければ、なぜ日本が戦ったのかがわからないからである。
長崎に来たロシアの黒船はその象徴だ。
開港時に来たポルトガル船とは全く意味が違う。
それらを異国情緒として一括りにしない知識が大切なのだ。