江戸幕府は、世界を知らない事と外国の武力に怯えて不平等条約を諸外国と結ばされた。

一般に安政五カ国条約ともいう。

安政五ヵ国条約〔版本〕

相手国はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスである。

その内容は長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどである。

詳しく書くと領事裁判権という。これは外国人が日本で犯罪を犯しても日本人は手を出せないという決まりである。

そして関税自主権の放棄である。これは取引の際、日本側が自由に関税をかけるという自由がなくなるという事だ。

長崎といえば、オランダ船と唐船しか見たことがなかったのだが、ロシア・イギリス・フランスの軍艦が長崎港に頻繁に来るようになってしまった。

これらの国は、昔の出島時代と違い、我が物顔で長崎を闊歩していった。

ひどい話である。

過去、織田信長、豊臣秀吉の時代にもスペインなどのヨーロッパの船が日本を訪れたが、その時代は戦国時代だった。

一説によるとその時日本が所有していた鉄砲の数は世界で一番と言われるほど、軍備が充実していた。

これに恐れをなして、スペイン、ポルトガルは無理なことは言い出せなかったのだ。

ところがそれから200年以上経った時、日本の軍事力は見る影もなくなっていた。

それに加え、西洋は鉄の軍艦や巨大な大砲を持つ、強力な軍事国家だった。

そこで、軍事力に物を言わせて日本に詰め寄り、不平等条約を有無を云わずに結ばされてしまったのだある。

現代でもそうだが、軍事力というのは外交に絶大な影響を与えるのである。

 

白人国家の悪行

まず最悪なのがイギリスである。

19世紀のイギリスは工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。

イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった。ウィキペディア

残虐な欧米植民地主義時代

つづけて19世紀中頃に、ドイツ、フランス、アメリカ合衆国はイギリスに続いて産業革命をなしとげている。

そして白人社会は植民地主義に舵をとった。

正確に言えば侵略主義である。

日本の教科書にも、平然と植民地主義と書いているが、これは侵略主義であることを忘れてはいけない。

ところが、西洋では白人はが有色人種より優れており、また、植民地支配はその近代化に必須の経済基盤・政治基盤を発展させることに繋がるので、有色人種にとって利益になるのだと言っていたのだ。

欧米植民地主義の凄まじい実態

無茶苦茶である。

そして、植民地にされた国の人々はひどい目に合わされ続けていた。

■アボリジニ(オーストラリア)の原住民殺しは20世紀に入っても続き、ニューサウスウェールズ州立図書館に残された資料には、1927年の日付で「今日の収穫アボリジニ17匹」とある。当時は日曜日にみんなでアボリジニ狩りをしていた。
高山正之 正論2008/9月号

■インドネシア人は、家畜よりひどい存在として扱われていた。
前野徹 「戦後歴史の真実」

■米国はフィリピン人に「スペインの植民地支配を終わらせる」と嘘を言ってマニラに進出し、スペインに代わって植民地にした。話が違うと抵抗するフィリピン人を米軍は徹底的に殺しまくった。米上院公聴会では、殺した島民数を20万人と報告している。
高山正之 週刊新潮2006/4/20

イギリス政府は木綿を作りにくくするために、木綿の作り手たちを何万人も集めて、その手首を切り落とした!

■インドの木綿工はそのまま仕事がなくなって、餓死してしまった。ベンガルからインド洋まで、何百万人という白骨が並んだと伝えられている。
福田和也  魂の昭和史

■植民地時代のインドネシア原住民とオランダ人の所得比は、1:13,000 だった。そうやってオランダの隷属下に置かれていた。
土屋敬之 「ストップ偏向平和祈念館」

■別の曜日には彼らはアボリジニの女を犯した。そして妊娠すると豪州政府が出てきて母と子を引き離し、子供だけを白人世界に引き取る。いわゆる融離政策というものだ。
高山正之 週刊新潮2008/9/25

■シンガポールでは、イギリス人の女性は夜になると涼をとるために、人力車を雇い現地人に何時間でも引かせた。 三浦朱門 「日本の正論 」

■蚊に刺されて化膿し、血や膿を全身に流して働く現地人に、薬ひとつ与えなかった。
性病が蔓延して、街ゆく男たちの鼻骨が露出しているのは珍しくなかったが、衛生教育ひとつ行わなかった。(オランダ人だけは完璧に衛生的な環境で生活していた)
小川義男 正論2005/12月号

欧米植民地の残虐さ より一部抜粋
http://kenjya.org/ajia1.html


これらの事は幕府にも知れ渡っていたので、手向かいできなかったのである。


そんな中、1863年大政奉還が起こり、世間は物騒になった。

長崎奉行は幕府の消滅を知って、アメリカの船に乗って江戸へ逃げ出したという。長崎奉行が勝手に逃げ出したので、長崎の町は無法地帯になってしまった。

その時活躍したのが、土佐藩、薩摩藩、佐賀藩の藩士たちであった。彼らは長崎在中の藩士たちをまとめ、さらに坂本龍馬の海援隊を加え長崎の町を維持したという。

海援隊

その後様々な事件が起こるが、長崎の町はそれでも貿易港として少しづつ成長していく。

そして、高島、端島炭坑の石炭。三菱による造船と不平等条約を解消するための富国強兵政策に従い、長崎も変貌を遂げていくのだった。