長崎といえば三菱である。三菱といえば岩崎弥太郎氏である。

岩崎弥太郎

福山さんの龍馬伝では香川照之が岩崎弥太郎を怪演していて話題にもなった。

歴史の本でもよくでている岩崎弥太郎氏であるが、改めてまとめてみた。

生まれは1835年で土佐の人である。

父親は地下浪人(じげろうにん)だった。地下浪人とは土佐藩の侍の身分制度で上士(上級武士)と下士(下級武士)に分かれており、40年以上郷士身分であった者が、郷士身分を他者に譲って浪人となって、地域に居付いた者を地下浪人という。

坂本龍馬も郷士である。まあとても身分の低い侍だったという。

岩崎家は甲斐武田家とつながりがあり、あの岩崎家の家紋三階菱も武田菱に由来すると言われている。

詳しくいうと土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作ったのだ。

岩崎家が用いていた「重ね三階菱」

土佐山内家が用いていた「土佐柏」


岩崎弥太郎氏はそれまで土佐藩官職位だったが、廃藩置県でやめるしかなくなり、海運業私商社の九十九商会の経営者となったのがスタートである。

こぶりながらも業績は順調で明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更。さらに明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更している。

この時にあの三菱のマークは誕生した。

インサイダー取引

弥太郎が大儲けしたのは、新政府の高官となっていた後藤象二郎から情報を得て、機敏に実行したからである。

各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ている。

このあたりから、岩崎弥太郎氏の政治商人として有名になっていく。

明治7年、台湾出兵という事件があった。

1874年(明治7年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件(宮古島島民遭難事件)が発生した。

この事件に対して、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」としたことが責任回避であるとして、犯罪捜査などを名目に出兵したもので、54人殺害という大規模な殺戮事件であるため、警察ではなく軍を派遣した。日本軍が行った最初の海外派兵である。

台湾は現在中国から飲み込まれようとしているが、懸命に抵抗している国である。歴史的な経緯から親日であり、これから大切にしなくてはいけない国の一つである。

長崎は台湾と関わりが深いので、ここから台湾の歴史の話に移る。

 


台湾は中国にとって長らく中華文明の教化の及ばない「化外の地」だったので何の興味もなかった土地だ。

隋や元の時代に台湾に侵攻したことがあるが何の成果もなく引き上げてしまった。17世紀以降、オランダ、スペインが台湾を支配したことがあったが、中国は何の関心も示していない。

注目されてきた台湾

16世紀の明朝時代になってからで、倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。

台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。

そのために、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。ウィキペディア

 

豊臣秀吉は台湾に興味を持って、人を派遣したが、台湾内にちゃんとした国がなかったため、関係は結べなかった。

長崎からも1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官 村山等安が軍勢を出したという記録がある。

原住民しか住んでいなく、国が存在しない台湾に、領有を宣言したのがオランダの東インド会社である。

オランダ東インド会社

1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。

そしてスペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功している。

 

長崎では東インド会社といえば何の批判もなく、平戸の和蘭商館は観光地となっている。出島にも和蘭商館はあった。

しかし、紳士の会社ではなくアジア侵略の尖兵だったことは理解しなければならない。

出島

 

オランダによる統治期間中、東インド会社は大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。

だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。

台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。

台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。

鄭成功(ていせいこう)

鄭成功

鄭成功(ていせいこう)の記念碑は長崎県の平戸にある。

何故かと言うと日本の平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれたからである。

中国では明朝が滅亡し、満州族の王朝である清が進出して来た。

鄭成功(ていせいこう)は明朝の人間である。

なので「反清復明」という拠点を台湾に作りたかったのだが、清朝の攻撃を受けて鄭成功(ていせいこう)政権は実質21~23年間で終了している。

鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現しなかった。

しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦として人形浄瑠璃化された。

国性爺合戦

清朝はとりあえず台湾を征服したのだが、やはり関心は薄く、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。

現在、台湾の近くの釣魚島(尖閣諸島)にも清朝の主権が及んでいたと主張しているが、それは嘘である。

台湾 九份 夜景

 

台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。

19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。

1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港されることとなった。

アロー戦争とは、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争で、イギリスとのアヘン戦争で痛い目にあった清では外国人排斥運動が盛んとなった。

1856年10月8日に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した。

イギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。

実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。

まあ、イギリスはやりたい放題で清を食い物にしていたという事がよくわかる。

フランスも清にちょっかいを出しており、その結果仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合っていたのだ。

アメリカの圧力

ちょうどその頃、1856年の夏に、日米和親条約の規定に基づき、アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、伊豆の下田に着任した。

タウンゼント・ハリス

ハリスは、日米修好通商条約の締結に当たって、アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつつ、イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、江戸幕府に圧力をかけたのだった。

参照、引用 ウィキペディア