北方領土問題を知る

今問題になっている北方領土である。

なんとなくわかっているが、そもそも北方領土の問題とは何かということが、私の頭の中では整理がついていない。

いろんな解説があるが、自分なりに整理をしてみたい。

北方領土の概要

日本国政府は、ロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している北方領土について、返還を求めている。ウィキペディア

これはわかる。

ここからは、北方領土問題への歴史的流れである。

ソ連参戦

太平洋戦争の終盤、アメリカ軍は1945年(昭和20年)8月6日、日本に新型爆弾(原爆)を落とした。

原爆投下を知ったソ連は行動を起こす。

「このままでは、アメリカに日本を全部取られてしまう」

スターリン

そう考えたソ連の大元帥スターリンは、8月9日日本に対して宣戦布告をする。

実はソ連も日本と戦争がしたかったのだが、アメリカ軍に遠慮をしていたのかもしれないし、最初は日本軍が勝っていたので、様子を見ていたのかもしれない。

しかしアメリカが勝つと思ったソ連は、あからさまに日本との戦争を言い出している。

太平洋戦争

少し時間を戻すがこの事はアメリカ・イギリスはすでに了解済だった。

ヤルタ会談

1945年2月のヤルタ会談(アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦による首脳会談)でソ連の対日参戦をすでに決めていた。

この会談では大日本帝国を早期に敗北に追い込むため、ナチス・ドイツ降伏の3ヶ月後に、ソ連は日本に攻め込むと話している。

そして日本の降伏後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした極東密約を結んだのだ。

まずはドイツである。

アメリカとすればソ連が余計なことをいい出したと思ったと思うが、ドイツはヒトラーが率いる手強い国である。

連合国で戦ったほうがいいに決まっている。

結局ドイツは東からソ連、西からアメリカ・イギリス両軍の攻撃を受けてドイツを無条件降伏をさせた。

日独伊三国同盟

アメリカ対ソ連

ソ連は共産主義でアメリカは資本主義である。現在でもそうだが犬猿の仲である。

このままアメリカが日本を負かして占領すれば、ソ連は目と鼻の先に、アメリカが居座ることになる。

とても面倒くさい事になってしまうのだ。

ここは、手をこまねいているわけはいけないと、日本に宣戦布告を行うチャンスを伺っていたのだ。

アメリカにしてみれば、ソ連がしゃしゃり出てくる事を警戒している。

そこで、ソ連に見せつける為に原爆を日本に落として見せる。

ソ連よ、あんまり出しゃばるんじゃねえ」そんな所である。

しかしソ連も後には引けないので、その後すぐに日本に宣戦布告をした。

原爆投下後の8月9日の夜中、ソ連軍は国境を越え満州に攻め入る。

旧ソ連軍

戦闘開始である。

アメリカに遅れを取っていたので必死の侵攻だ。兵士6万人に火砲950門、戦車・自走砲166が満州の国境を襲った。

日本軍は為す術もなく、玉砕だったり集団自決が相次ぐ。

脳天気な日本政府

実は日本政府は必死にソ連に接触していた。

何故かと言うと敗戦濃厚さを自覚して、ソ連の仲介に最後の望みを託していたのだ。

日本は負け始めた時、判断がどんどん甘くなっていった。

都合のいいことばかりを勝手に信じ、楽観的というかアホというか、ここに日本のダメさ加減が暴露されてしまっている。

貧すれば鈍す。まさにこの状態が日本だったのだ。

そんな頼みの綱のソ連が日ソ中立条約を破って満州に攻め込んできたのだ。

この時に、さすがの日本も敗戦を確信した。

新聞や政治家が、ソ連の条約破りのことを言うが、実は日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告している。

日本側が鈍感だけだったのだ。

 

アメリカはソ連の参戦を知り、わかっていながらもカチンと来た。

でしゃばった真似をしやがって!

そう言ったかどうかはわからないが、更に2発目の違うタイプの原爆を8月9日に長崎に落としてみせる。

広島に投下された原子爆弾はウラン235(ウラニウム235)

長崎に落とされた原爆はプルトニウムを使用している。

これは明らかに実験であるし、ソ連への威嚇である。

2発目は長崎に落としたのだが、本来は北九州市の小倉に落とすつもりだった。

多分朝鮮半島に近ければどちらでも良かったのだ。

なぜかというと満州を攻めているソ連が朝鮮半島を経て日本に上陸するのを見越しての威嚇だったのだ。

そして日本は敗戦を決めたのだ。

その後の流れ

8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、日本側は連合国にポツダム宣言受諾を通告。

玉音放送

8月15日、日本国内で敗戦を告げる玉音放送が流れるとともに、ソ連は北千島への作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。

8月16日には日本領南樺太へソ連が侵攻。

8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦をしたのだが、ソ連はそれに構わず侵攻を続けている。

ひどい話である。負け戦の国を相手にソ連は自分の取り分を力ずくで確保しようとしたのだ。

Akimamaより https://www.a-kimama.com/outdoor/2017/07/72136/

南樺太には40万人以上の日本人が住んでいた。大急ぎで北海道へ逃げ出すのだが、日本人が逃げ出す船の内3隻がソ連軍に攻撃され、約1,700名が死亡している。

さらに陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡している。

負けた国の人間を、それも民間人を平気で殺戮をするソ連軍の非道さを知れば、当時のソ連軍の悪質さがよく分かる。

8月16日、日本の大本営から即時停戦命令が出たため、日本側の関東軍総司令部が停戦と降伏を決定

8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。

アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥はソ連軍参謀本部に対して攻撃停止について申し入れたが、協議に応じなかった。

Douglas MacArthur smokes one of his favorite corn cob pipes on a ship bound for Luzon Island in the Philippines on Jan. 20, 1945. Five Star Insignia on his collar denoting him general of the Army. (AP Photo/Pool)

ソ連とすれば、なんとしても樺太を北海道占領の拠点としたかったのだ。

この時、真岡郵便局に勤務していた9人の女性電話交換手が服毒死した。

なぜ女性電話交換手が疎開もせずに戦闘地に残っていたかというと、自衛のために日本人はソ連軍と決死の覚悟で戦っていた。日本の兵士たちの連絡網を維持するために、女性12名が残って業務を続けた。

上陸したソ連軍の攻撃は激しく、民間人に対しても無差別攻撃が加えられた。電信受付嬢は郵便局へ向かう途中射殺され、避難先の防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいた。ソ連軍が上陸し、金品の略奪や殺戮の中、青酸カリを飲み若い電信受付嬢は自決をする。

北海道稚内市の稚内公園にある「殉職九人の乙女の碑」はこの事件を慰霊するものである。

九人の乙女の碑

8月18日、ソ連による千島列島への侵攻と占領。

8月23日、スターリンは、日本軍捕虜50万人のソ連内のシベリアなどの捕虜収容所へ移送。

8月28日から9月1日までに、ソ連軍は北方領土の択捉・国後・色丹島を占領した。

これにより、北方領土はソ連の物となったのである。

アメリカとソ連の密約

終戦直後にスターリンは、アメリカのトルーマン大統領に、北海道を南北に分割して北半分をよこせと要求している。

アメリカはこの要求に対して考える。

ドイツは南北に分断されている。このままだと北海道も南北に分断されてしまう。

なのでアメリカは北方4島をソ連に与えたわけである。

これは当時のアメリカの公文書に残っている事実である。

ダレス恫喝

結局アメリカ一国で日本は占領されてしまった。

その後もアメリカはソ連に対して牽制を続けている。

アメリカが一番危惧したのは、日本とソ連が和平条約を結ぶことである。

冷戦状態のアメリカとソ連の中はすこぶる悪い。なので日本がソ連と和平条約を結ばないようにと画策を続けている。

戦争から6年後サンフランシスコ平和条約が締結される。

日本は、1951年9月8日に署名したサンフランシスコ平和条約(連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復)により、千島列島におけるすべての権利、権原及び請求権を放棄している。

それでも日本は戦争で失ったものを取り戻そうとして必死だったのだ。

1956年10月、鳩山一郎首相の時、日ソ共同宣言に署名することになった。

「共同宣言」では「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記されている。

ここに2島返還のことが示されている。

そして、その返還は日本とソ連が平和条約を結んだ後だと書いているのだ。

この時アメリカは動く。

日本が平和条約をソ連と結ぶことは、アメリカにとって利益にならない。

そこでダレス(アメリカの政治家)はソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光(日本の外交官)に迫り2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。

ジョン・フォスター・ダレス

これが有名な「ダレス恫喝」である。

それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。

つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。

ここが重要である。ここに北方領土問題の根源がある。

当時の日本政府の言う歯舞群島及び色丹島は北海道に付属するものという理屈をソ連が認めたと言える。

ソ連側は二島「譲渡」として受け入れ、一時は平和条約締結がまとまりかけた。

ところがこの「譲渡」という言葉に日本側は反発をする。

何故かと言うと「ダレス恫喝」が効いているからである。

まあ、アメリカとすれば日本とソ連が仲良くなっては困るのだ。

なので、ソ連が絶対飲めないような四島一括返還を日本政府に言わせたのである。

国内世論も四島一括返還は当たり前だという風潮であった。

まんまとアメリカ政府の思い通りになったというわけである。

野党の意見

2019年一月現在、安倍首相とプーチン大統領のせめぎ合いが続いている。

どうなるかは不明である。

ところで野党の皆さん方はどう言っているかということを記しておく。

国民民主党の玉木雄一郎代表の場合、北方領土「2島先行」引き渡し 国後・択捉は段階的返還という。まあ妥当な線だろう。

ところが

立憲民主党は「四島一括は譲れない」。共産党は猛反発、千島列島全体の返還を要求。

この2党は北方領土問題を解決する気がないらしい。

千島列島を返せというのなら、戦争覚悟で交渉しないと無理である。

話し合いなどで解決できるとは、誰も思っていないのに、理想論ばかりの先行で、話を聞くべき内容がない。

しかし、日本の軍備を充実させ、日米同盟をもっと緩やかなものにすれば、少しは進展があるかもしれない。

これは一歩間違えば、ソ連との開戦を意味する。

そこの所をよく考えないといけないのだ。

現在、世界は軍備と経済のパワーバランスで成り立っている。

それが現実であり、これからもそうだろう。

歴史を知ることで、口先だけのエセ平和論は見破れるのだ。

これからも見守りたい。

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