長崎対佐賀 気質が反対な隣の県の小競り合い
こじれる長崎新幹線、実は佐賀県の“言い分”が正しいhttps://www.itmedia.co.jp/business/articles/1905/17/news035.html
こんなニュースが流れていた。
新聞では、佐賀がごねているっていう論調があるが、今までの経緯を見ると、私も佐賀の言い分に分があると思う。
結構込み入っているのでウィキペディアの九州新幹線 (西九州ルート)で書かれていることをご一読する事をお勧めする。
上から目線の長崎人
長崎は佐賀を少し上から目線で見ているような気がする。
「佐賀人の歩いた後には草木も生えぬ」という話を年寄りから聞いたのを覚えている。
良く言えば、佐賀の人がやった仕事の後には、もう、なにもやることがないくらい何も残っていという意味にもとれるが、本音は悪口である。
しかし、当の佐賀県民は特別な悪口を長崎に言ってはいない。
そう思えば、長崎人のほうが意地が悪いのかな。
「佐賀県はなんにもない」そう思い込んでいる人も多い。
そりゃ、長崎と比べると観光地は少ないかも知れないが、「なんにもない」は言いすぎである。
まあ九州地方の中では最も経済規模が小さい県で有るのは事実であるが、現在の産業は実は多彩である。
長崎に馴染みが多い、烏賊の呼子も、焼き物の伊万里も佐賀県である。
先日、嬉野にいったが、「嬉野は長崎県だよ」と言い切っている友人がいた。
こうなると無知以外何者ではない。
古代史が好きな私にしてみれば、あの吉野ヶ里遺跡と徐福の金立があるだけで、ワクワクしてしまう。
長崎はキリスト教の街になって以来、天領の貿易港になったことで発展していった。
都に一番遠いということが、逆に利点になった街である。
そして、日本中の商人が集まり、まさにちゃんぽんの街になった。
一方佐賀は、侍の藩であり、戦国の雄であり、何度も長崎に攻め込んでいる。
長崎氏は佐賀藩の攻撃を地元で防いでいた。この長崎市の踏ん張りで、長崎は負けなかったのだが、攻め込まれる一方だった。
現在の長崎市の内、彼杵郡や高来郡は幕末時佐賀藩の土地だったのである。
逆に言えば、長崎は貿易を行う長崎港を中心にした、ごく狭い部分しか保有していなかったのである。
まあ天領だった上、商人の町だったので国という感覚がなかった。
やはり、長崎は特別な地区だったのである。
逆に佐賀藩は、その移り変わりが激しい。
葉隠を生んだ佐賀藩の気風は、明治維新後、佐賀の乱(明治9年)を起こしその懲罰として、佐賀県が消滅(長崎県等へ編入)している。
県民性
佐賀県人の県民性は、地味で誠実、几帳面と言われている。
長崎人は開放的、楽天家、好奇心旺盛だが粘り強さにはかけるらしい。
こう見ると、隣の県なのに性格は真反対である。
こじれる長崎新幹線の話題に戻るが、こじれた理由は、県民気質によるところが多いような気がする。
天領だったゆえの国策を盾にして、あまり深く考えずに話を勧めてきた長崎と、最初の話と違うという理由で、工事継続を拒否する頑固な侍気質の佐賀県人。
国策に寄り添う長崎と国策に反抗して県を一時なくしたことのある佐賀。
こじれるのは当たり前か。