晩秋の長与、中尾城公園
11月16、17日 長崎の楽器店主催の合同発表会の撮影で、長与の町民文化ホールに行く。
この立派な建物は、中尾城跡に建てられていて、斜面には、整備された公園がある。
特にスパイラルスライダーは、息子に人気で、何度も連れて行っていた。
しかし、2015年7月、利用者のけがを受け、4年間使用中止になっていている。最近、2021年度からは工事ができるよう県と協議を進めている報道があり、よかったと思っている。
中尾城
中尾城跡といっても、その跡はない。
今は公園になっていて、頂には城を模した展望台があるのみである。
この城を作ったのは長与権ノ助であるという。
現地は、標高90mの丘陵で、東西約150m、南北約100mを計ります。今は、森になっていますが、土塁・石垣・堀切などがのこっています。土塁とは、城への敵の侵入を防ぐために築かれたものです。「郷村記」の記録に天文年間(1532~1555)に長与権ノ助(※)が築いたとされています。
主郭標高 92m、比高 60m
城域 東西150m、南北50m
遺構 主郭、出郭、二ノ郭、土塁、段築
この城は、万が一の事があった場合を想定し、非常時に備えるために前もって構築されたのではないかとみられています。中尾城跡(丸田郷中尾)
https://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/bunkazai/iseki/nakao.html
長与の由来
町名『長与』の由来というのがある。
神功皇后が朝鮮半島に遠征した帰り道、式見村に上陸して陸路を長与まで来ると夜になってしまいました。野営をしなければならなくなり、その夜がとても寒くて一睡もできず夜明けを待ったといい、「ああ長夜だな」ともらし、その「夜」が「与」に転じたという説があります。
http://www.nagayo50.jp/7/top.html
神功皇后は伝説の女傑で、おなかに子供を宿したままで、朝鮮半島を制圧したと、古事記に書かれている。
その神功皇后が登場している町である。歴史は恐ろしく古い。
長与権ノ助はなぜ、城を建てたのだろうか。
朝鮮軍の対馬侵攻
長与村の『郷村記』には、「明応の頃より大村氏に属するか」とある。
明応という年号は1492~1501年の間である。
時代は室町幕府だ。
長崎には、まだキリスト教が来ていなくて、静かな港町だったはずである。
しかし、1419年には応永の外寇(おうえいのがいこう)という事件が対馬で起こっている。
室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を目標とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。高麗史によると、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出した。
対馬に侵攻する朝鮮軍は、軍船227隻、兵員17285人の大規模なものだった。
これは朝鮮側の記録であり、日本側の記録では全く様相が違う。
少弐満貞の注進状
「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。
対馬に17000人の軍隊を派遣し、対馬側は700人である。
普通なら、圧勝のはずである。
ところが対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、 戦局は膠着状態に陥った。 損害の大きくなった李氏朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ、7月3日に巨済島へ全面撤退した。
とある。
朝鮮軍がいかに弱かったか、いや日本の武士がいかに強かったかという見本みたいな戦いだったのだ。
九州は元寇もあり、朝鮮半島からたびたび攻められている。
玉之浦納の反乱
そして、五島では1507年玉之浦納の反乱(たまのうらおさむのはんらん)が起きている。
この時代は五島の当主は第15代宇久覚だったが、15代覚が没し嫡子の囲が19歳で立った。
この時に玉之浦納は反乱を起こす。
玉之浦納は宇久家を滅ぼしたが、その統治はよくなかったとある。1521年宇久家は再興戦を行い、玉之浦納を打ち破っている。
昔の日本は、それほど平和ではなかったのである。
長崎の長与もそんな時代を反映していたのだろう。
長与が大村藩なら、佐賀藩に攻め込まれるかもしれないし、長崎内でも戦はあったとされている。なので、頑丈な中尾城を作ったのだろう。
長与には、中世(鎌倉・室町時代)の山城はこのほかに「東高田城」「西高田城」「唾飲城」があったと記録にある。
長与氏は大村氏の配下となっていたが1586年、長与純一は大村純忠に反旗を翻した。大村純忠は長与氏を討伐するため唾飲城に兵を差し向けました。しかし城を守る長与氏の激しい抵抗になかなか城を落とせず、大村勢はのどがかわき動けなくなりました。そのとき、「梅干?、梅干?」と叫びながら山を登ってくるものあり。大村方の大村彦右衛門でした。それを聞いた大村軍の兵士は皆、口にたまったつばを飲みのどをうるおすと一気に城を攻め落としました。それで、唾飲城(浜城)と呼ばれるようになりました。
なんとも滑稽な話だが、長与氏もやはり戦国の武士だったというわけである。
長与は晩秋を迎え、色とりどりの装いをまとっていた。