長崎港内の岬の話である。

長崎市のパンフレットでは、「長崎は寒村だった」としつこく書いている。

そして、何もない岬に港を作り、長崎港の大本を作ったとある。本当に長崎の岬は寒村だったのだろうか。

港市長崎の成立に関する研究(ベビオ=ヴィエイラ=アマロ)がある。その論文には当時の長崎岬の事が書かれている。

『長崎根元記』西役所は昔、岬の先端部分に森があったことから「森崎」と呼ばれていた。この森崎と鶴城の南門の間に松の並木があった。

『長崎拾芥』昔、江戸町と椛島町の辺りには漁師の家と塩焼きのための場所があった。下町と築町の間は浜だった。外町の地域にはいくつかの田畑があった。

とある。

これを読むと、それなりの人々は住んでいたようだ。

さらに長崎史のスペシャリスト、外山幹夫氏の書籍には、かなり詳しいことが書いている。

イエズス会士の多くはこの岬を未知の無人の地として記述しているが、事実は違う。

まず第一に、南蛮人が長崎にくる以前に、既に外国人(特に東アジア・東南アジア人)との貿易が成立していたのだった。

これは、安土桃山時代前の長崎市に東アジアの物品(主に中世時代の中国産の舶載磁器)が持ち込まれていた事実から推測されている。

さらに長崎の岬に、新規の6町の町が作られる際、文知町という町ができている。

六ケ町

文知町という町がよくわからないのだが、長崎縁起略では則文知、長崎邑略記では、平戸屋文知房が文知町の乙名(代表者)とされたとある。それ以外の説明がないので、則文知という人物が誰なのかは不明だが、名前からして唐人代表のようである。(外山氏の推測によれば、イエズス会士あるいはキリシタン亡命者が、この町を管理していた可能性を示唆している)

森崎は墓地

森崎とその周辺の縄文、弥生、中世の地層から人間の骨と人工物が発見されており、この地域に長期にわたり、人間が存在していたことが明らかになっている。

さらに森崎地域に、発掘調査によって、これまでに五輪塔の石片が発掘されている。

五輪塔

長崎に関する西欧人の記述を見てみれば、

フランシスコ= カリアン(1579年)あの港には雑木林《森》以外何もなかった

ルイス= セルケイラ(1606年)この都市には昔,四つの茅葺きの家屋以外何もなかった…

エンゲルベアト= ケンベファー(1693年)現在集落が建っているところは,《昔は》貧しい漁師の住んでいた惨めな村のみで,「深江」または「入江」と呼ばれていた…

である。

これを読めば、本当にみんな見たのかと疑いたくなる。誰かのコピペばかりのようだからだ。

基本的に、長崎の岬は、無人の地や荒野でないと、都合が悪いようだ。

また、資料によれば、キリシタンが目の敵にしている、日本の神仏の建物もそれなりにあったと記述されている。

長崎のキリスト教化過程前の寺社の状況については、現存する日本の史料群(『長崎名勝図絵(四一)』、『長崎市史(四二)』、『長崎志(四三)』)が、多少の矛盾を示しながら、諏訪大明神(諏訪町の東側)、住吉大明神(現在の小島町の尾崎・正覚寺の付近)、森崎大権現(四四)(森崎の先端付近)の存在を示している。

森崎大権現はあるいは、恵比寿を祀る寺院であった可能性もある(四五)。最近の研究者の他の説によると、天照皇大神を祀る石祠(四六)(現在の伊勢宮)と八剣社(四七)(小島町の内)も存在していたとされる。

これらの事実を考えれば、キリシタン宣教師たちは、無人の荒野にキリシタンの町を作って、人々を救ったという、物語が最初にあったと思われる。

県庁の地に、森崎大権現という神社(仏寺)があり、供養のための五輪塔まであった。

つまり、この地は神域(霊域)だったのである。

港市長崎の成立に関する研究 森崎にある丸が五輪塔

この事は、これまで語られていた長崎市の物語と大きく違っている。

「《昔は》貧しい漁師の住んでいた惨めな村のみで,「深江」または「入江」と呼ばれていた」という、記述も長崎の説明で、よく目にしている。

これは、宣教師の文章をそのまま書いていただけだったのだ。

そして、この長崎の岬にキリシタンの町が作られ、六ケ町は、要塞さながらの軍備を持つことになった。

きれいごとの歴史

どうも、長崎市の歴史の説明は、公平ではないように思う。

なので、現在行われている県庁跡地の発掘は、先入観なしに進めてもらいたいためである。

新しい発見も、これまで作られている長崎の歴史に沿うような解釈をしてしまうと、真実が覆い隠されてしまうのだ。

学者の人たちに期待したいものである。

長崎港


参考論文
港市長崎の成立に関する研究
アマロ ベビオ ヴィエイラ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsahj/67/0/67_2/_article/-char/ja