セクハラが流行る世間に見える不寛容と反グローバル
最近はハラスメントの文字をたくさん見かける。
ハラスメントとは他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指す。
ハラスメント(harassment)の種類は多い。まあ、何でもハラスメントという文字をつければ、なんとなく問題があるように見えるだけなのだが。
セクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、ジェンダー・ハラスメント、キャンパスハラスメント、ドクター・ハラスメント、アルコール・ハラスメント、スモーク・ハラスメント・・・
本当にきりがない。
しかし、ハラスメントなんて・・と書けば、人権派と呼ばれる人たちから、自己批判しろと責められる。昭和生まれの60過ぎのおじさん達にしてみれば、やや恐怖の状況である。
差別
ハラスメントの大本には、差別がある。
狭義の差別は世界中にあるが、一番わかりやすいのは、人種差別、民族差別だろう。
歴史的に見れば、ドイツのナチスによるユダヤ人迫害、アメリカ合衆国や南アフリカに見られる有色人種への差別がある。
西洋人における、有色人種への偏見は、少なくなったとはいえ、現在も根絶されているわけではない。
これらのあからさまな差別に立ち向かったのが、人権運動だ。
人権(human rights)とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利とされている。
しかし、人権という考えは最初からあったわけではない。
自由主義(リベラリズム)に基づくブルジョア革命・産業革命・資本主義等と共に、考えられ進化していったといえる。
そしてこれは、血で血を洗う戦いの歴史でもある。
イギリス革命(権利章典 1689年)、アメリカ革命(独立宣言 1776年)、フランス革命(人権宣言 1789年)がわかりやすい。
さらに、この人権を特化させて、何でも平等という理想から生まれたのが、共産主義である。
こうなってくると、ハラスメントのイメージを大きく超えてしまう。
そして、この人権の流れが、ハラスメント告発につながってくる。
となれば、ハラスメント告発もまた戦いなのだろう。
グローバルな社会
今でも言われているのだが、グローバル化の推進というお題目である。
グローバルとは、社会的・経済的に国や地域を超えて世界規模でその結びつきが深まることとされている。
そしてグローバリゼーションとは商人の考えである。商売を発展させようとすれば、当然、国境の垣根は邪魔になるからである。
この言葉を個人に適応させ、閉じこもらず、どんどん表に出ていく姿勢を推奨する風潮がある。
しかし、やはり経済中心の考え方で、人類すべてが仲良くしようという事には、ならないのである。
ナショナリズム
EUを離脱したイギリスがいい例である。
離脱した理由は、移民の大量増加で国の経済が疲弊してしまったからである。
世界が一つになるという理想は、現実には不可能だったのだ。これは、共産主義にも言える。
そして現在、アメリカファーストというナショナリズムをトランプ大統領が宣言した。
これで理想主義から現実主義へと変わっていったと思う。
人間はどうだろう。
人類、みんな仲良くという幻想は終わりつつあるのだ。
人は自分自身の自尊心を守るために、ハラスメントという告発を選び始めたからだ。
不寛容な時代
現代は不寛容な時代ともいわれる。
ネットの発達により、個人の考えを簡単に発信できる。そしてその匿名性を得た言葉は、他人への攻撃へと向かうことが多くなった。
価値観の違いを許容できなくなってしまった感がある。
ハラスメントも、あからさまな圧力を除き、価値観の違いを許容できなくなった時、告発が起きる。
それなら、人間はダメな方向に進んでいるのだろうか。
不寛容な時代に生きるには、冷静さを伴った客観的な視点が、必要だとよく言われる。
しかし、「冷静さを伴った客観的な視点」を常時持てないのが人間なのである。
グローバル化の反動
現在の流れは、グローバル化と言われた拡散思想の反動だと思う。
若者と年寄、金持ちと貧乏人、優等生と落ちこぼれ、右派と左派、喫煙者と非喫煙者。
人間なので違うのは当然である。無理に仲良くすることはない。
不寛容な時代もハラスメントの時代も、通過性の現象だ。
行ったり来たりの振り子の人間社会である。
「人間万事塞翁が馬」を座右の銘にしたいと思う今日この頃である。
基本的生物権
人権の事ばかり考えていたのだが、人間以外の生き物には、生きる権利はないのだろうか。
食べるために育てられる豚や牛の豚権、牛権である。
いつか、人間の中で、この人間以外の基本的生物権を言い出す奴が出てくるかもしれない。
さて、そんな時、人間はどう考えるのかな。
今度は「権利」とは何かを真剣に考えなければならなくなってくる。
そう思えば、楽しくなってくるのである。