中国と日本 (5) 日本にあこがれた孫文と長崎の梅屋庄吉
ひとくくりに中国というのは、やはり間違いである。
中国4千年というが、その間様々な王朝が興き、そして滅びっていった。
数え方にもよるが最低15以上の王朝が存在していた。
そしてその王朝の主人公は、漢民族だったり、モンゴル族だったり、満州族だったりしている。
当然そこにある文化も変わっていった。
なので、日本の天皇家のように一つの王朝で2千年続いた国と比べることはできない。
やはり中国はカオスの国である。
清国
前回は清国の事を書いた。
清国は、ヌルハチ(後金 女真(じょしん)族 後の満州族)が明からから独立し、ヌルハチの後継者が明を滅ぼし、清という国を打ち立てる。
つまり清は満州族の王朝である。
満州族は古くは女真族といい、ツングース系と呼ばれる満州からシベリア・極東にかけての北東アジア地域に住む人たちである。満州族は固有の言語を持っており、私たちが通常思っている漢民族とは違う。
だが、映画などでアジアの人々を見れば、極端な民族間の違いはないと思える。みんな、顔が似ているのだ。
満州族や漢族の人たちが、現在日本に住んでいて、日本語をしゃべるなら、私たちは出身を当てられないだろう。
アジアにおける民族の違いはやはり文化だろう。顔は似ているんだが、髪型や洋服、食べ物、考え方が違う。
女真族
女真族という名称に、女という文字が入っているが、これは漢民族がつけた名前で、蔑称に近いものだった。
日本人を倭人と呼ぶようなものだったので、女真から満州と名前を変えている。
女真族の風俗は変わっていて、髪を編んでいる、強力な毒矢の技術を持っている、人の尿を貯めて顔や手を洗う、地中に竪穴を掘って住む、などである。
漢民族は、女真族を尿で手や顔を洗う民族として、見下していた。しかし、生粋の狩猟民族だったので、戦いは強かった。
日本にも関係していて、刀伊(とい)の入寇という、対馬や九州の大宰府を襲撃した事件があった。この刀伊は女真族が主流だったとされている。
辮髪(べんぱつ)
清国といえば、あの頭の前半をそり上げ、三つ編みで後ろに垂らした髪型である辮髪(べんぱつ)の印象が強い。
満州族が中国大陸を制圧(1644年)すると、この辮髪を漢民族にも強要した。
「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」というくらい強力な政策で、拒否する者は死刑になった。
最初は嫌がった漢民族も、19世紀には辮髪は完全に普及し「中国的な風習」とまで言われるようになる。
この清はモンゴル、チベットを含む史上最大の中華帝国へと成長した王朝で、期間は1644年から1912年。
清国の特徴は、少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を始めとする多民族と広大な領土を支配した事だ。うまくバランスを保ち二百数十年続く。
そんな清国を西洋の覇者イギリスが揺さぶった。
この時代のイギリスはやりたい放題で、インドで製造したアヘンを清に売って巨額の利益を得ていた。
アヘン(阿片)は習慣性のある麻薬である。その麻薬をインドで作らせて、清国に売りつける三角貿易の形態を維持する。
しかし清国も黙っちゃいられないので、イギリスと戦争をしたが負けてしまう。アヘン戦争である。
その結果、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲となったわけである。
現在、香港は中国に返還されたが、今までのイギリス領だった自由主義国の香港と、共産主義の中国ではうまくいくはずもない。今、盛んにデモが行われているが、全世界が、その成り行きが注目している。
孫文
清時代のイギリス領 香港で、辛亥(しんがい)革命が起きる。
革命が勃発したのは1911年で、孫文の影響を受けた革命軍が口火を切る。
清国は革命軍の制圧に失敗し、中国内の15省が次々と独立を宣言した。
その結果、1911年(明治44年)12月29日、上海で孫文が中華民国大総統に選出され、清国は滅亡したのである。
孫文とはどんな人物かは、いろんな本に載っているので詳しくは書かないが、ざっさくりいえば、中国史上、最初の民主化運動を起こした中国人である。
青年時代、ハワイで過ごし、アメリカの影響を強く受け、クリスチャンになる。その後、香港に戻り医者となったが、革命に身を投じ、アメリカとヨーロッパ、日本などを転々として世界中に名が知れ渡ることになった。
この当時の雰囲気を知りたくて「孫文の義士団」という映画を見る。
ストーリー 清末の中国では革命派と清朝廷の対立が激化していた。1906年、革命派のリーダーである孫文が香港入りし、同志たちと会合する事が決定。この情報をつかんだ清朝は大規模な暗殺団を香港に派遣した・・・
こんな話である。
日本の明治維新によく似た状況で、孫文の人気は坂本龍馬か、高杉晋作といった感じだろう。
この映画の中にも辮髪はたくさん出てくる。こんな感じだったのかもと思いながら見る。
そして、最終的には初代中華民国臨時大総統になり、「中国革命の父」「国父」と呼ばれる。
誕生した「中華民国」は、その後、袁世凱、蒋介石と続き、1937年に起きた盧溝橋事件を契機として、中華民国は日本と全面戦争状態に入る事になる。
日本は、それ以外にも、1941年にイギリス・アメリカ合衆国と戦争になり、中華民国は連合国側につくことになる。
つまり、日本は西洋人と中国人を敵に回し戦ったのである。
この戦争を太平洋戦争と呼んでいるが、この名称は戦後日本に押し付けた名前で、本来は大東亜戦争と日本人は呼んでいた。
大東亜とはアジア共栄圏を目指す考え方で、アジア主義と言っていいだろう。
この考え方は、アジアで蛮勇をふるう西洋人たちに対抗した考え方で、明治維新後、日本人の多くが考えていた思想である。
梅屋庄吉
孫文は日本が好きで、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。日本は清国を倒し民主国家を作ろうとしている孫文をあらゆる面で支援している。
長崎県出身の梅屋庄吉もその一人で、1895年(明治28年)に中国革命を企図した孫文と香港で知り合い、多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与している。
1913年(大正2年)に孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命した後も、孫文への援助を続けている。
梅屋庄吉は貿易商・梅屋家に養子入りする。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港で貿易商として地位を築いた。1905年(明治38年)ごろに日本に帰国し、日活の前身であるM・パテー商会を設立。映画事業に取り組んで白瀬矗の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じている。 結局、孫文に対する革命への資金援助額については、現在の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。ウィキペディア
梅屋庄吉はアジア主義者である。
19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策を考えていた人物で、のちの大東亜共栄圏、そして大東亜戦争につながっていく。
長崎の孫文と梅屋庄吉
革命を指導した孫文と、孫文を支援した長崎出身の実業家、梅屋庄吉との関係を記念し、長崎県と中国湖北省は2011年から友好交流関係を結んでいる。
■『ナガサキ人梅屋庄吉の生涯:長崎・上海で、孫文と庄吉の足跡を探す』 小坂文乃、長崎文献社■旧香港上海銀行長崎支店 - 跡地を改装した博物館内で梅屋庄吉及び孫文との関わりについて展示。■「孫文・梅屋庄吉と長崎」 - 長崎県文化振興課
など、幼少期に長崎で暮らしていたので、長崎との関係も深い。
一つ書き忘れたが、1902年中国に妻と3人の子がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
ここのところを思えば、女性などには緩かったのだろう。
孫文と梅屋庄吉については、多くの方が書いていて、いい本もたくさんある。
長崎人として知っておきたいことは、清国を倒した辛亥(しんがい)革命の中心人物だった孫文と、それを援助したアジア主義の長崎出身の事業家梅屋庄吉という事だ。
孫文が、現在の中国の実情を知れば、目を回しただろう。
中国はカオスの国である。
孫文が革命を起こして、王朝を倒し、近代的な中華民国を興したのに、共産主義の毛沢東も行動を起こしていた。
そして、毛沢東と蒋介石は戦い、中国共産党の毛沢東が勝利し、蒋介石は台湾に逃げ込むことになる。
現在の台湾は、中国から逃げ込んだ国民党を抑え込み、台湾国を作り上げようとしている。これもまた日本にも関わりがある重大関心事である。
孫文に対する評価だが様々である。
孫文の場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。 ウィキペディア
そう、時代は生きている。
予測不可能な時間に対して、結果的に乗り切った孫文は、「持っていた」人物だったと思う。それが私の感想である。