紅葉の小旅行(1) 泉山磁石場と石場神社、歴史民俗資料館
世間ではコロナで疲弊した業種救済のため、GO TO ナンチャラを盛んに行っている。
そこで私もその恩恵を承りたいと思い、佐世保日帰りバス旅行に参加した。
GOTO割引で、旅行代金はかなり安かった。その上1000円のクーポンももらう。(これでお土産を買った)
コロナ禍について私なりの意見はあるが、世間はマスコミやコロナ芸者から散々脅かされすぎて、まともな事を話せない状況なので、話すことをやめている。
その安全対策をしっかりしたバスに乗り込み朝9時に長崎駅を出発。
まず有田の泉山磁石場へ連れていかれる。
バスツアーの最大の魅力は「連れて行ってくれる」所にある。
普段、神社・古墳・古跡めぐりの撮影旅行では、グーグルマップを頼りに、ひたすら目的地まで走る。そんな旅ばかりしていたので、「連れて行ってくれる」旅は楽でなんだかほっとするのだ。
泉山磁石場
知らなかったが、泉山磁石場は国指定史跡だった。
磁石という文字があったので磁石(じしゃく)を採掘する場所かなと思っていたくらいだ。
じつは有田焼の原料となる陶石の採掘場だった。なので磁石(じしゃく)場ではなく、磁石(じせきば)場と読むのが正しい。
陶器と磁器の違い
磁器と言えば真っ白な陶器の事である。
陶器を土もの、磁器を石ものと呼ぶそうで、陶器の方は縄文時代から作り続けている奴で、小学校の時に粘土で作った奴だ。
磁器は、製作するのに粘土ではなく陶石という石の粉末を使い、焼く時の温度も陶器より100度ほど高くしなくてはいけないので難しいのだ。
信楽焼き、萩焼き、備前焼きは陶器で、伊万里、瀬戸、マイセンなどが磁器である。
さて、この場所の事だが、
17世紀初頭、豊臣秀吉の時代におきた、朝鮮出兵の際、日本へ多くの陶工と職人が連れてこられました。その中に朝鮮人陶工の李参平こと初代金ケ江三兵衛らがいました。その金ケ江三兵衛が1616年に有田へ移住し、有田の泉山で磁器の原料となる磁石を発見しました。
文化財課歴史民俗資料館 HPに書いている。
朝鮮出兵の際、何人日本に連れてこられたのかはわからないが、佐賀の鍋島藩で、150人くらい、全体で1000人程度というのが一般的な説である。
それじゃ、日本の磁器は朝鮮由来かと言えばそうではなく、当時、日本に連れてこられた朝鮮陶工達の作っていたものは民芸風の素朴なものだった。
だが磁器の製法を知らなかった日本は、中国、朝鮮の磁器を知り、その後、中国の景徳鎮を目指し、ついに絢爛豪華な「有田焼き」を完成させている。
有田焼が日本の磁器の代表のようになったのは、日本の陶工初代柿右衛門が「赤絵」を日本で最初に発明したからである。
日本最古の磁器は有田焼だが、柿右衛門の赤が誕生すると、中国朝鮮の磁器を抜き去り、海外で人気絶大となる。
海外への紹介は、1641年に長崎の出島でオランダ連合東インド会社から海外の市場へ出したのが始まりとされている。
その有田焼の魅力に取りつかれたのが、ドイツ(当時はザクセン王国)の「アウグスト強王」で、その命令で作られたのが「マイセン」。マイセンは有田の柿右衛門様式の模倣に全力を挙げていたとされている。
日本の文化の特徴だが、新しい技術を外国から学び、その後、オリジナルをはるかにしのぐ物に育てて世界を驚かせるパターンが有田でも起こったのだ。
すばらしい。
バスの添乗員の人に連れられて回ったのが、泉山弁財天神社境内の日本一であろうと思われるの樹齢約1000年のイチョウの巨木、紅葉が素晴らしい有田町歴史民俗資料館である。
私は石場神社(高麗神社)があったので、そこは単独で参拝する。
拝殿の横には朝鮮人陶工で有田焼陶祖、李参平(りさんぺい・日本名は金ヶ江 三兵衛)の磁器製坐像が現在作られている。
石場神社の祭神は山神王とあるので、山の採掘安全を祈願したものと思う。
そこで午前の部が終わった。
時期がよかったのだろう。紅葉が見事だった。さすがはバスツアー。
時期も場所もナイスチョイスである。