飴屋の幽霊 光源寺

飴屋の幽霊像

この話を子供のころに聞かされて、怖さで震え上がった覚えがある。
 
お母さんの幽霊が死んでも赤ん坊を育てていたという、もの悲しさと母親の執念がひと固まりになって、話に凄みを持たせていたからだ。
 
長崎の飴屋の幽霊だが、子育て幽霊とか産女(うぐめ)の幽霊とかタイトルが変わっていろんなところで語られているが、中身はほぼ同じである。
 
また、伊良林の光源寺にその絵があるというので、毎年夏にご開帳の際、ニュースになったりもする。
 
光源寺の幽霊像 伝承では藤原清永がかつての恋人を模して造ったものとされるが、実際には、延享5年(1748年)に常陸国の無量寿寺の幽霊を刻したものとの箱書きと由緒書がある。なお藤原清永という宮大工については不詳である。
 
そして、この幽霊画の存在が光源寺の幽霊を有名にしている。
 

長崎市、光源寺 長崎新聞

産女(うぐめ)

佐脇嵩之『百怪図巻』より「うぶめ」

幽霊が赤子を育てるという話は、実は日本中にあり、死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」という妖怪になるという言い伝えは昔から存在していた。
 
多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。これは出産時に母親と子供はへその緒でつながっているという事実が、ベースになっている。
 
また埋葬の際の儀式は、残酷な話ではなく、妊婦の無念さを晴らす心情があったからだ。
 
昔、出産とは、女性にとって自身の生死をかけた一大事業であった。なので子供の生存率も低く、幽霊になっても子供を育てる執念は、そこから来たのだろう。
 
昔の平均寿命が、思ったより低いのは、赤子が死ぬ確率が高く、ある意味数字のマジックでもある。
 
 
長崎の飴屋の幽霊は、妊婦が死亡したが死後出産したのか、もともと母親と子供が死んでいたのか定かにされていなが、他の地域では、赤ん坊は寺が引き取り高僧となったという話が多いようだ。
 
長崎の場合、後日談があり、飴屋にまた母親の幽霊がやってきて、子供を助けてもらったお礼に、井戸を掘る場所を教えたという。
 
飴屋の優しい善行が、子供を助け、水不足で困っている地域の人たちのための井戸も掘る事が出来たという、「いい話」で終わっている。
 
つまり教訓話である。
 
この話の元になったのは中国の話からのようだ。
 
日本の「飴を買う女」の怪談は、南宋の洪邁が編纂した『夷堅志』に載せる怪談「餅を買う女」と内容が酷似しており、もともとは中国の怪談の翻案であったと考えられる。ウィキペディア なお中国では餅(ピン:小麦粉を練って焼いたもの)で、日本では飴になっている。
 
 

仏教説話

「子育て幽霊」の話は、親の恩を説くものとして多くの僧侶に説教の題材として用いられたという。
 
この恩の概念は宗教では重要視される。
 
恩は東洋だけの考えではなく、キリスト教でも神の恩と言い、無条件に人間を救おうとする神の無償の働きかけのことをいう。
 
仏教ではもっと強いもので、古代インドでは他者によって自分のためになされたことを知り、それに感謝することが重要な社会倫理である、と説かれていた。
 
つまり他の者に命を与えたり命の成長を助けることが「めぐみ」を与えることであり、恩をほどこすことなのだということなのである。
 
そして恵みを受けているにもかかわらず、自分が受けている恵みに気付かないこと、恵みに感謝しないこと、恵みに報いようとしないことなどを「恩知らず」と言う。
 
そして恩知らずは、大体地獄に落ちると説かれている。
 
地獄は死後の世界でもあり、日本の死後の概念はほとんど仏教によって形作られている。
 
一番わかりやすいのが地獄であり、お坊さんの地獄絵解き説法が代表的なものである。
 
その人の生前の善悪の行いによって、「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道」のいずれかに生まれ変わる(転生する)とされる六道輪廻だ。
 

地獄絵

この感覚は日本人なら誰でも持っているだろう。
 

光源寺

浄土真宗本願寺派 巍々山光源寺のホームページより

光源寺は寛永八年(1631)筑後柳川光源寺の僧・松吟(しょうぎん)が来崎し、寛永十四年(1637)に開山した浄土真宗本願寺派の寺である。
 
寛永8年(1631年)福岡県瀬高より長崎に寄住し布教を開始したとあるが、仏教はその時代長崎に根付いている。
 
なぜ筑後のお坊さんが、長崎の市内に寺を建てたかというと、キリシタン政策だ。
 
この時代はキリシタン禁止令が出た後である。
 
1626年には長崎で初めて絵踏みが行われ、1627年雲仙地獄での拷問始まっている。
 
長崎市内の神社仏閣はキリシタン信徒により殆ど焼かれており、幕府は神道、仏教の再建を後押ししている時代である。
 
そんな時代の中での光源寺建立であり、仏教信者の獲得のため、わかりやすい仏教説話を光源寺は行ったのだろう。
 

長崎の信仰

浄土宗や浄土真宗は日本で一番多い宗派である。
 
天台・真言宗 15.7% 浄土系 38.4% 禅系 33.2% 日蓮系 12.7%
 
日本における仏教諸宗派の分布 小田匡保
都道府県別・宗グループ別寺院数 (昭和34年)藤井ほか論文の算出方
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/16343/kg039-03.pdf
 
 
法然の浄土宗、その弟子親鸞の浄土真宗は念仏仏教とと呼ばれ、わかりやすさとシンプルさで、日本の代表的な宗派である。
 
長崎もまた、浄土系が多い。
 
その理由の一つに、庶民的な飴屋の幽霊などの仏教説話の力が大きいのではないかと推測される。
 
光源寺が建てられる前には雲仙で高温の熱湯に、キリスト教徒を突き落とすといった残酷な処刑を行っている。
 
そして高温な温泉を地獄と呼んでいる。これもまた、仏教の地獄をまねて呼んだのである。
 
時期もキリスト教を排除しようとした時期とも重なり、幽霊の絵の演出もあり、庶民に受けいられ、荒廃した長崎は落ち着きを取り戻したと思う。
 

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