長崎に住み続けていると、時折聞く話で「佐賀の人間が歩いた後は、草木も生えぬ」なんてのがある。

ただの偏見なのは間違いないのだが、この話の大本は江戸時代の財政難で佐賀県一帯が行った政策の事と思われる。

このいわれなき風評に対し、弁明をする。

鍋島直正の藩政改革

鍋島直正

佐賀の七賢人の一人と言われる鍋島直正(なべしま なおまさ)は江戸時代末期の大名で佐賀藩10代藩主である。

17歳で家督を継いだ直正は、江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、斉正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。

当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあり、その財政は破綻状況だった。

だが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔をうかがわねばならないことが多く、倹約令を出すのが精いっぱい。

天保6年(1835年)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を、斉直の干渉を押し切って実行。

役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行う。

さらに藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。

これだけでもすごいと思う。

天領だった長崎は、こんな財政難などなかったのだ。国内唯一の南蛮貿易の場所として、それなりの大変さもあったのだが、やはり裕福さを感じさせる地域だったのだ。

佐賀藩は長崎の警護を担当していた時期がある。

だが長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。

アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させる。

結局、質素倹約と経営手腕を見せつけられた商人たちは鍋島直正を「そろばん大名」と呼んだのだった。

この事で「佐賀の人間が歩いた後は、草木も生えぬ」と言われたのだろう。

佐賀の歴史は波乱万丈で、長崎とも深くかかわっている。古代は吉野ヶ里遺跡があり、戦国時代は竜造寺家、江戸時代は葉隠れ、明治維新は大隈重信、江藤新平がいて、人物も多彩である。

また、明治維新の行政に不服を唱え、1874年の佐賀の乱を起こした懲罰で、佐賀県自体がなくなってしまうという珍事も起こっている。

こじれる長崎新幹線

佐賀県が突如、九州新幹線西九州ルートの協議入りを了承…赤羽大臣「図らずも、一歩前進」 https://response.jp/article/2020/06/10/335465.html

最初から、佐賀県は長崎新幹線のフル規格新幹線化やミニ新幹線化に反対していた。

それをなし崩し的にね長崎側は工事を進めてきた経緯がある。フリーゲージトレイン構想も結局現時点で不可能となり、結局長崎は事業費負担金で解決しようとしている。

長崎人や他県の人たちは「なぜ佐賀県はかたくななんだ」「良い条件を引き出そうとゴネているだけではないか」と陰口をたたいているようだ。

だが、大東亜戦争の終戦後、闇市の闇米を拒否して栄養失調で餓死した山口良忠裁判官の話もある佐賀県である。

この事業の本筋を考えれはその非難は当たらない。

今回は佐賀県贔屓の話だったが、長崎人とすれば佐賀県に学ぶところは多い。

今は長崎になっているが、昔の諫早や矢上は佐賀藩だったので、祭りの浮立やのんのこ踊りなどの文化も誕生している。

現在の長崎は、県庁出身の知事と市役所出身の市長が舵を取っている。その為いい事もあるが弊害もある。

現在のリベラル体質の長崎市政県政である。理想論はいいのだが、困難な現実に、実力で対応できるのかが、やや不安でもある。



引用 ウィキペディア