大籠 善長谷教会
住所は長崎市大籠(おおごもり)町519。深堀の海側の道を走ると大籠町に着く。
このあたりの神社は旭琴姫大明神、新田神社があるが、隠れキリシタンの神社と思われる箇所が何個かある神社だった。
解説によれば、1823年に外海・東樫山から移住したキリシタンの子孫が住む山里とある。
作られたのは1885年(明治18年)で、一家族を除いてカトリックに復帰したという。
気になるのは、復帰しなかった家族である。
いわゆる隠れキリシタンとなり、独自の信仰を変えることがなかったのである。
これは潜伏キリシタンと隠れキリシタンに呼び分けられている人たちの事を言う。
この事は、日本人のキリシタン信仰について大きな示唆を与えている。
私の考察だが、日本は多神教の国と言われている。これは根深く自然宗教が残っている事でよくわかる。
神仏混合とも関係するのだが日本人は、厳格な戒律のある一神教は向いていないのである。
自然環境が過酷で外圧がある地域で、生き延びるために一神教は生まれる。
日本はどうかといえば、過酷な自然環境はあったが他国からの侵略はなかった。
やはりこの事が大きいと思う。
日本にやってきたカトリックは残念ながら不幸な道をたどってしまう。
これは西洋思想と日本思想の違いから生まれた悲劇なのである。
教会という演出
各地にある僻地の教会を訪ねているが、いずれにしても美しい。
人は見た目に弱いものだ。教会に神が存在していることを信じ込ませるために、華麗な建物を建てる。
仏教も同じで、おおきな建物と金ピカの仏像で仏のありがたさを民衆に伝えるためである。
それに比べて神道は素朴である。
神社と載っているので行ってみると石の祠だけという場所も多い。
なぜ日本人は大きな岩や山を信仰するのか。
その問いの反対にあるのが、教会であり仏寺なのだ。
善長谷教会は美しい教会である。
奇跡の物語を伝えるためのルルドもある。
この美しさは西洋の美意識なのだ。
近くに行ったら訪れることをおすすめする。