断捨離って本当にいいことなのか?
断捨離(だんしゃり)とは、なにか仏教の言葉かと思ったら、ウィキペディアで調べるとそうではなかった。
1.沖正弘が提唱したヨーガの思想。1976年の著書『ヨガの考え方と修業法 上巻』において「断捨離」という語が使用されている。
2.作家のやましたひでこが提唱し、商標登録する、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想。
なるほど、造語なんだ。
少し有り難みが減るような気がする。
守破離という言葉が芸事にはある。
剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。
デジタル大辞泉「守破離」の解説
「断捨離」という言葉は、「守破離」という言葉から来たように思う。
断捨離の本意
この言葉はヨーガの行法が元になっているという。
様々な物事への無執着を意味するのだが、執着を捨てるというのは仏教でもよく言われている言葉である。
「執着(しゅうじゃく)」という煩悩(ぼんのう・心の汚れ)であり、これをなくせば苦はなくなるとされている。
まあ、仏教でも108つの煩悩があるというくらいなので、大変難しい修行なのである。
面白いことに、ウィキペディアには断捨離の問題点が載っている。
断捨離を意識するあまり、同居する家族の所有物を勝手に捨てたり売却してしまうことでトラブルになる例もあり、妻が夫の貴重なコレクションを同意なく捨てる、子供が大切にしていた思い出の品を親が勝手に捨てるなどで、離婚問題(特に離婚調停や裁判離婚)などに発展することが多々ある。
笑ってしまう内容だが、これを読めば、断捨離が自分本位な事がよくわかる。
コレクター
いわゆる収集家である。
私の周りにもたくさんいる。
よくあるフィギアコレクターをはじめ、機械、ポスターなど、私にはわからない趣味趣向の人々。
彼らはオタクとも呼ばれるが、その知識は敬服せざるを得ない。
断捨離を勧める人たちにとって、コレクターは不倶戴天の敵だろう。
執着を捨てるという仏法に対し、執着することが生きがいと思う人たちは凡人の極致だ。
だが、あの親鸞聖人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができると言う。
自分の問題点に悩み苦しんでいる人に対して、悩み苦しんでいる姿を受け入れて「無理しなくていい、そのままでいい」と説く。
さすが親鸞聖人である。
なぜこんなに断捨離にいちゃもんを付けるかといえば、断捨離という言葉が説教じみているからである。
例えば「片付けする気持ち」と言ってくれたら、ここまでカチンと来ないと思う。
身辺を身ぎれいにすることは大賛成である。
それは自分にとって、本当に大切なものがわかるからだ。
「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」
捨てるという意味が違うが、この人生の教訓は身に染みるものがある。
さて、かたずけという言葉に反応して、自分の部屋を見てみる。
飾っている家族の写真、これは捨てられない。
大きなテレビ、これはオンデマンドの映画を見るために必要だ。
カメラや撮影関係の道具、これは仕事に必要。
部屋にいる猫、同居しているので捨てられない。
財布のお金、捨てるほど入っていない。
酒、たばこ、捨てる気はさらさらない。
なるほど、今の私には特別捨てるものがないようだ。
という事は、これらを全部抱え込んで行くしかないようである。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」
家康の遺訓である。
ただ、年齢がある。
そのうち捨てなくてはならないものが増えてくるだろう。
それまでは、この無駄な物たちと楽しみたいと思う。