悟真寺 長崎市の最古の寺院

長崎県長崎市曙町6-14 悟真寺(ごしんじ)

悟真寺は長崎市に現存する最古の寺院になっている。

しかしその年代は1598年とあり、比較的新しく戦国時代の終わりごろである。

その理由はキリシタンの焼き討ちにある。

1580年(天正8年)、長崎はキリシタン大名の大村純忠によってイエズス会に寄進され、その結果多くの神社仏閣が打ち壊された。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉はバテレン追放令を発令。翌年にはイエズス会から長崎を接収し天領としたが、それでもなお長崎はキリシタンの勢いが強く仏教は廃れていた。

1596年(慶長元年)筑後国・久留米善導寺の僧聖誉玄故は、仏教再興を図るべく来崎。

1598年(慶長3年)肥前国彼杵郡淵村稲佐郷の岩屋山神宮寺支院跡地に本寺を創建。創建後まもなく、長崎で貿易を行っていた明国商人の欧華宇と張吉泉が帰依し、当時長崎唯一の寺院であった本寺を菩提寺とした。

これが一連の流れである。

赤門(竜宮門)

悟真寺

その後、1602年(慶長7年)には長崎奉行により本寺境内に100間四方の朱印地を与えられ、唐人墓地が設けられた。以後、寺請制度の整備により華僑独自の菩提寺である興福寺・福済寺・崇福寺創建まで、本寺が長崎における華僑の菩提所となった。

長崎で一番古いとされているが、その本堂などは何度も建て替えられている。

本寺は海と山を挟まれた高台に位置していることから、創建後幾度となく暴風雨の襲来を受けている。

本堂は1814年(文化11年)の再建以後、大正時代までに4度修復を受けた記録が残っている。

1945年(昭和20年)8月9日の原爆では本堂や鐘楼が全壊、赤門(竜宮門)も半壊した。

そのうち、本堂は1959年(昭和34年)に再建されている。

現在は赤門(竜宮門)も修復されている。

境内の比翼塚

比翼塚

門の脇には「金嶼枯骨合葬之処(こがねじまここつがっそうのところ」という看板があり、比翼塚(ひよくづか)がある。

寛文年間に、博多の豪商伊藤小左衛門が航海の禁を破り磔刑に処せられた際、遊女が嘆き悲しんで海に身を投げたことがあった。金嶼(こがねじま)で見つかった骨は、「こがね島(はだか島)のこと」とあります。前述の伊藤小左衛門の磔刑があった「こがね島(はだか島)」のことが書かれていまして、その島は、現在は埋め立てられ、三菱重工業の工場の敷地内になっているとのことです。

この看板には松竹秀雄氏の名前がある。松竹氏は稲佐地域の歴史を調べていた方で、著書も多く、稲佐地域に、いろんな歴史の看板が建てられている。

稲佐悟真寺国際墓地

オランダ人墓地

ロシア人墓地

ロシア正教 記念礼拝堂

昔は「あちゃばか」と呼ばれていた所で、阿茶(あちゃ)さんとは中国人の愛称である。

つまり唐人の墓地だったのだ。

1602年(慶長7年)、長崎在住の唐人らは、貿易のため長崎を訪れていた商人や、明からの政治亡命者の死没者のための墓地開設を当時の長崎代官であった末次平蔵に請願。その結果、菩提寺であった悟真寺の隣接地に唐人墓地が開設された。

オランダ人墓地

1649年(慶安2年)には、それまで水葬とされていた在留オランダ人の死没者の埋葬が許されるようになり、本寺の唐人墓地の一角にオランダ人墓地が開設された。

以降、1858年(安政5年)にはロシア人を埋葬するロシア人墓地が、翌1859年(安政6年)にはオランダ人・ロシア人以外の外国人を埋葬する稲佐国際墓地が開設された。

なお、後者は長崎港東岸の外国人居留地と遠く離れており不便なことから、1861年(文久元年)には大浦国際墓地が居留地近隣に開設されている。

それ以外にも文化財がおおい。

長崎市指定史跡
唐人墓地祭場所石壇、浦上村渕庄屋志賀家墓地、唐通事潁川家初代墓地等

この墓地は有名なので、詳細はホームページなどを参考にしてほしい。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0203/index1.html

唐人墓地祭場所石壇

稲佐遊郭

1860年、この墓地の近くに稲佐遊郭が誕生している。

それはロシア人専用であり、14歳から22歳まで遊女27人丸山等から派遣されたと記録にある。

総数14軒の建物があり、遊女の数は約115人。結構大きな遊郭である。

中国人墓地

国際墓地30基

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