いただきます
「いただきます」 と元気な子供たちがいっせいに声を上げる。
その様子を写真に撮る。
卒業アルバムの写真撮影だ。
口の周りに、トマトケチャップをいっぱい付けて、笑いながら食べる幼稚園園児の写真は、命の輝きだ。
写真撮影を生業としている私でも、思わず口元がほころんでしまう光景である。
東京で7年ほどの学生時代とアシスタント時代をすごした頃の食卓は、お世辞にも豊かと呼べなかったが、四畳半で仲間と一緒に鍋で食べるインスタントラーメンは「ごちそうさま」といえる美味しさだった。
恋人を誘って、場違いのレストランへ行き、一緒に食べるディナーの「いただきます」は、祈りにも似た切なさがあったと思う。
子供が生まれてからの食卓は、賑やかだった。
三人のひときわ大きな声の「いただきます」と「ごちそうさま」は家族の希望だった。
長男の成人祝いの時に、すし屋で食べたにぎりは、喜びの味がした。
二人前をぺろりと食べ、私の分まで食べる長男の「ごちそうさま」は実に頼もしいと思った。
仕事仲間と食べる昼飯は忙しい。
割引クーポンを出して、昼定を食べるときの「いただきます」は、それなりに充実している。
仕事の話が食事中に出て、食べるというより、食い物をかきこむ様で、「ごちそうさま」もおざなりがちになる。
訳あって、今は一人暮らしをしている。
夜一人で食べる食事の「ごちそうさま」は口の中でつぶやく。
食事の美味しさもほどほどである。
一人暮らしの「いただきます」と「ごちそうさま」はやはり、どこか、わびしさが付きまとう。
食事への感謝は、生きていることへの感謝なのだ。
しかし、命の果てるまで、声は小さくなっても「ごちそうさま」と呟いていたい。
いろいろあったが、生きてきた事に感謝したいのだ。