墓のない軍艦島
長崎県西彼杵郡高島町端島・・・通称、軍艦島
今も、長崎の海に浮かんでいる。 1974年。僕が19才の時、無人の島となった。
そして、2015年7月に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界文化遺産に登録された。
昭和62年頃、東京で写真をやっている後輩から、長崎の僕へ電話が入った。
「軍艦島へ行きたい」とのことだった。
「軍艦島?、ああ、端島の事か」 僕は一瞬戸惑った。
端島に「撮影すべき魅力ある被写体」があるとは思わなかったからである。
しかし、日本の廃墟マニアには有名な場所らしい。
そのあたりの事情に詳しいカメラマンの先輩と相談した挙句、3人で軍艦島に行きキャンプを張って1泊しようという話になった。
好奇心である。「軍艦島」の「有名な廃墟」を僕も撮影しようと思ったからである。
釣り船に話をつけて、渡してもらい「軍艦島」へ乗り込んだ。 僕たちは体育館跡らしき場所の玄関にテントを張った。 三人とも、カメラマンである。
手際よくセッティングを済ませると、思い思いに廃墟の中をカメラを構えて歩きまわった。 (この時代はデジタルカメラでもなく、オートフォーカスのレンズも出始めたばかりだった)
僕は、この廃墟の建物が怖かった。
不思議な威圧感があるのだ。
僕は、奥深く歩き回るのをためらった。
普通ならフィルム10本ぐらいはすぐに撮影してしまうのだが 今回は、なかなかシャッターを押せなかった。
それだけを今も覚えている。
今思えば、この感覚は東京時代にも一度あった。
僕がカメラを持ってほっつき歩いていた時、僕のすぐそばで救急車が止まったのだ。
そちらを見ると人垣が出来ている。
僕も、急いで人の輪の中にもぐりこんだ。
人が倒れていた。
病気なのか、事故なのかわからない。
僕は報道カメラマンのふりをして、何枚か写真を撮った。
すぐ近くに塀があったので、急いでのぼり、「倒れている人を取り囲む群衆」という構図をねらい、でファインダーをのぞいた。
そして条件反射的にシャッターを押した。
その時、とてもいやな感じがした。
軍艦島の廃墟にカメラを向けたときも、「その感じ」がした。
だから最後まで腰が引けていた。
もう二度と廃墟は撮らないだろうと、そのとき思ったのだ。
夜になり、広場に二張りのテントを設営 僕のは簡易式のドーム式テントで、袋状の奴で簡単にできる。
先輩のテントは山岳用の本式のテントで、ペグを打ちロープで立ち上げるタイプのものである。
持ってきた炊事セットでコーヒーを沸かし、レトルトのカレーを食べる。
島の外には長崎の夜景が瞬いている。
ひとしきり雑談をかわし、寝袋にくるまって寝る。
何分かした後、先輩が血相を変えて僕たちのテントに入り込んできた。
「ゴキブリがおそってきた!!」 島には猫やイヌはいなかったが、ゴキブリだけは無数に住んでいるらしい。
山岳用のテントの地面の隙間から、多数のゴキブリが侵入してきたのだ。
人はいなくなるがゴキブリだけは生き続けていく。
自然の摂理である。
翌朝、迎えの船が来て何事もなく僕たちは、軍艦島を離れた。
僕には「撮りたくないもの」がある。
いや「撮れないもの」がある。
僕の力不足もあるし、「撮りきれない」と最初からあきらめている場合もある。
人がいなくなった場所というのはいつだって荒れ果てていく。
そこに何の意味があるのだろうか。
もし意味があるとすれば、それは重要な事なのだろうか。
「意味がある」から撮影するわけではないが 静かに見守っていたいものもある。
軍艦島には、日常必要な施設はすべてあったが、墓だけはなかった。
墓を作る場所がなかったので、隣の中ノ島で火葬し、墓を作った。
だから、軍艦島には霊はいない・・はずである。
いつか軍艦島の廃墟が自然と風化していき、何もなくなってもとの岩礁になる日 が来るだろう。
その時まで、静かに海の上にいてほしい。
僕はそれを、陸の上で見つめているだけでいい。
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