AKBの秋元康氏についての要約(まとめ)
いろんなニュースに載っているAKB。
今や社会現象である。
【第8回AKB総選挙】指原莉乃が史上初のV2 前田敦子&大島優子超え
AKB48の45枚目のシングル(タイトル未定、8月31日発売)の楽曲を歌う選抜メンバーを決める『第8回AKB48選抜総選挙』が開票され、HKT48チームHの指原莉乃(23)がAKB48総選挙史上初の2連覇に輝いた。 http://news.yahoo.co.jp/pickup/6204749
総選挙という文字があると、いつ安倍政権が解散をしたんだと早とちりしてしまい、苦笑いをする。
なんとなくは知ってるけど、よく知らないAKB。
すべてのアイドルたちは時代の申し子であり、うたかたの花である。
諸行無常を思えば、それもまたいいと思う。
今回はAKBを生んだ張本人秋元康氏についてまとめてみた。
定義 AKB48は秋元康のプロデュースにより、2005年12月8日に誕生したアイドルグループである。
「AKB48」は何人かというと、48人ではない。
正規メンバーと研究生を合わせて100人超え、ギネス世界記録に認定されている。
2016年現在、姉妹グループとして日本国内にSKE48・NMB48・HKT48・NGT48、日本国外にJKT48・SNH48があり、グループの総称として「AKB48グループ」・「AKBグループ」・「48グループ」とも称されている。
現在フィリピン・マニラを拠点とするMNL48、台湾・台北を拠点とするTPE48、タイ・バンコクを拠点とするBNK48プロジェクトが進行中。
まるで財閥並みの海外進出を狙っているグループなのだ。
そもそも秋元康とは何者なのかというのをおじさんは知っておく必要がある。
1958年5月2日東京生まれという事なので、2016年現在では58才。(私の場合弟と同じ年である。)
官僚志望で、開成中学を受験するも不合格。
中央大学附属高等へ進学し大学は中央大学文学部。
高校の偏差値は73以上なのでかなり優秀。(日本一の開成高校の偏差値は81以上)
大学時代から放送作家のアルバイトをはじめサラリーマンの4倍近い収入を得ていたという。
かなり目先の利いた学生だったようである。
『ザ・ベストテン』『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』の構成を担当して高視聴率を挙げる一方、さまざまなジャンルの楽曲の作詞を手掛ける。小泉今日子「なんてったってアイドル」、とんねるず「雨の西麻布」などの曲をヒットさせる。
1988年、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚。第1子(長女)あり。
その後、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当。
早くから実績を積み上げていた駿馬だ。
すべてに才能があったというわけではなく、タレントショップブームの1987年頃、便乗して青山で「うんこや」という名前の和食パブを開いたことがあるが僅かな期間で閉店している。
他にも飲食店を開店したが、どれも成功せず閉店を余儀なくされた。
飲食業はむいていないようだ。
奥さんはもとおニャン子クラブ
相手の女性をみれば、その人のいろんな事がわかる。
生年月日は1966年12月28日 4人姉妹の次女。実家は自転車屋。中学ではソフトボール部。
福井県立若狭高等学校(偏差値52)卒業後、予備校へ入学すべく上京、女子美術短期大学(偏差値45~46)中退。デビュー前からチェッカーズの大ファン。
2016年現在49歳。見た目はスレンダーな美人。
身長は157.5 cmなので小柄である。秋元氏は1958年なので、8才年下。
私の勝手な判断だが、
おニャン子クラブは結成時は11人で、解散時は19人いた。
みんなアイドルとしてテレビに出ている存在なので、人並み以上に可愛い。
その中で小柄でスレンダーな容姿、8才年下のO型を選んだという事は、ややロリコン趣味があるようだ。
秋元氏もO型なので二人の波長は合ったのであろう。
小柄でスレンダー年下となれば、「良妻賢母」が秋元氏の理想と見える。
小難しい理屈を言わない(学歴から見れば、中の下くらいの普通の学力?)女子力の高い女性は、1950年代の男性の理想ではないだろうか。
秋元氏が自由に仕事が出来るのは、きっと妻の力と存在だったといえる。
更に、グラマーな女性や派手な雰囲気の子を選ばなかった秋元氏は賢明である。
つまり、自制心がしっかり効いている男性だと推測される。
失敗もある
順風満帆の勝ち組と思いがちだが、世間に知られている失敗も多い。
▼1983年にオーディションでミホ、レイコ、チーコの3人が選ばれ、少女隊結成。翌年の1984年8月28日に「FOREVERギンガムチェックstory」でデビューする。そのプロモーションには総額30億円(一般的には40億円)をかけたとも言われたがこける。
▼1993年「とんねるずの生でダラダラいかせて!」から生まれた女子小学生によるアイドルユニット「ねずみっ子クラブ」はおニャン子での成功を忘れられず取り組むも全くの泣かず飛ばずで1年で解散。
▼オーディション企画を2度ほど行うも目ぼしい新人は発掘できず。
▼「生ダラ」をプロデュースしたものの、見事にこける。
▼1998年セガの社外取締役に抜擢され、「夕やけニャンニャン」と同じ放送時間帯で「DAIBAッテキ!」という番組を企画、アイドルグループ「チェキッ娘」を作りだすも、これも見事に大コケ。
▼フジテレビと連係でおニャン子クラブの男性版グループとして「息っ子クラブ」を作ったものの、1年もたたずに解散。
失敗といわれているプロデュースも多いけど、それを糧にして「AKB」があたったというべきだろう。
作詞という孤独な作業が本業ということを考えれば、そんなに浮ついているとは思われない。
AKBのエスカレートしているプロデュースは、作詞家という本業が安定しているからこそ出来る、遊びの要素の強いプロデュースのように思える。
きっと、AKBとの関わり合いを絶つ時期をも頭に入ってるんじゃないかな。
同じ50年代の男として、わかる部分もある男性だ。