懲りない聖職者たち 雲仙の白雀の乱
最近のニュースである。
性的虐待撲滅に協力を、ローマ法王が異例の全信者宛て書簡 http://bit.ly/2nVrdGq
https://jp.reuters.com/article/pope-idJPKCN1L60J7?feedType=RSS&feedName=oddlyEnoughNews&utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
これは聖職者に向けてローマ法王が言葉を述べたもので大問題になっている。
具体的には子供に対する性的虐待である。これは70年以上にわたり、1000人以上が被害を受けたという。約300人の聖職者が関わっていたとされているものの、隠蔽や口止めなどで、大半の聖職者が責任を逃れている。
https://vpoint.jp/world/usa/118865.html
宗教の殆どが女人禁制である。キリスト教だけではなく仏教も同じような問題が話題になっている。
中国、仏教協会長のセクハラは事実と確認 尼僧への性行為強要など
https://www.sankei.com/world/news/180823/wor1808230022-n1.html
実は長崎の雲仙にもその手の騒動が過去起こっていた。
白雀の乱
雲仙は古代より栄えていたことは文献にのっている。
古くは、肥前国風土記に景行天皇が島原を見て、島なのか陸続きなのか知りたいと延べたという話から始まる。
この時に島原を治めていたのは高来津座という国津神(地方の王)が出てきて、大和に従う事を話したという。この話の真意はいろいろ想像できるが、それくらい古いということである。
この雲仙は大宝元(701)年に、行基が高来の峰(温泉山)に大乗院満明寺を開いたといわれる。
この行基さん、いろんなお寺の開祖として書かれているが、あまりにも行基さんの名前があちこちに使われているので、多分言い伝えと言うことだろう。
行基(ぎょうき 668年生)さんは、奈良時代の僧で、国から仏教の布教活動を禁止されている時代に、それを破り行基集団をつくり、近畿を中心に民衆や豪族など階層を問わず、いろんな施設を作って回った人である。
結局その行為が尊敬を集め、日本仏教の最高位である大僧正に最初になったエライお坊さんだ。
もちろん近畿地方には行基と縁のある地は多いのだが、長崎の古寺にもたくさん由緒に行基の名前が出てくる。現実に行基集団が九州に来たという事実がないのでやはり伝説としてみるのが一般的である。
そんな由緒ある場所が雲仙で、1000個ほどのお寺があったという、仏教聖地にまで発展していた。
そして由緒ある一乗院で白雀の乱(1570~1573)というのが勃発する。
瀬戸石原という場所に三百坊のグループがあり、別所という場所には七百坊のお寺があった。
そしてそのお坊さんたちは稚子を持って養っていたという。
稚子とは稚児(ちご)ともいい、剃髪しない少年修行僧(12~18歳くらい)をいう。
瀬戸石原のグループにいる稚児が立派な籠に白雀を飼っていたという。
別所グループの稚児がこれを見てうらやま敷くてたまらない。だけど瀬戸石原の稚児は貸してくれなかった。
そうしたら喧嘩になりお互いを刺して死んでしまったという。
このときに[瀬戸石原・別所]二寺の僧[の間で]言い争いが生じ、果ては兵を出動させて互いに戦う。瀬戸石原の僧が火を放ち、別所の僧坊をことごとく焼き滅ぼす。領主の有馬修理大夫義純が兵三百を派遣して[争いを]制し、やっと鎮定するを得た。
休暇村 雲仙(補説1)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kyniska/Qkamura14-2.html
上のページにはここまでしか書いていないが、他のページには争いの原因が稚児にあるとして有馬義直は全坊の稚児を滝に落として処分したと書いてあった。
とんでもない話である。
一般的には子供の喧嘩に大人が出たということだが、全坊の稚児を滝に落として処分という文章を見れば、違う見解が出てくる。
雲仙の稚児とは「男性社会における女性的な存在」で、男色、衆道、少年愛の対象だったと推測されるのだ。
稚児どうしの争いに、僧侶が分別をなくして争うのは、色恋沙汰としか考えられないからだ。だからこそ全坊の稚児を滝に落として処分したのである。
白雀の乱は1570年の昔の話だが、最近の聖職者の話題を見れば、この問題は一向に解決していないらしい。
LGBTの話題もある。
LGBTとは、Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー、性別越境者)の頭文字をとった単語である。
僧侶が稚児をセックスの対象とするのはGayと言えないこともないが、宗教界の中での稚児は女性の代償という特殊な関係である。
つまり歪んだ関係なのだ。
人間というものは、どんなに修行をしても、某脳を払うことができない存在だとつくづく思うのである。