先日スコセッシ監督の「沈黙 -サイレンス-」という映画を見る。

沈黙 -サイレンス-

原作は遠藤周作氏の「沈黙」であり、場所は長崎。内容は信仰と殉教、そして司祭の棄教である。

映画は全編重い雰囲気なのだが、重いテーマを丁寧に描いている。

私の映画への感想は★4つを付ける秀作だと思った。

司祭の棄教

司祭が踏絵を踏んで棄教するという「沈黙」の内容は、出版当初のカトリック教会からの反発は非常に強いものがあったという。

それはそうだろう。カトリック世界においてそれはタブーだからだ。

しかし公式の記録に載っている通り、司祭が棄教したというのは事実である。

ポルトガル出身のカトリック宣教師クリストヴァン・フェレイラは日本において拷問によって棄教し、沢野忠庵(さわの ちゅうあん)を名乗ってキリシタン弾圧に協力した。また、沈黙のモデルとなったジュゼッペ・キアラという司祭も棄教した。

沈黙 -サイレンス-

それ以外にも有名な転びキリシタンではトマス荒木、ミゲル後藤、ジョアン・バプチスタ・ポルロ、マルチノ式見市左衛門 などの氏名が掲載されている。ウィキペディア

何故棄教したのかという事が「沈黙 -サイレンス-」の一つのテーマになっている。さらに信者たちの殉教が重要な動機になっているのも間違いない。

遠藤周作氏の「沈黙」は1966年に書き下ろされ第2回谷崎潤一郎賞を受賞した名作である。その内容は様々な方が評論を書いているので、興味のある方はそちらをお読みする事をおすすめする。

遠藤周作

26聖人

私は長崎在住なので、この「沈黙 -サイレンス-」を見た後、長崎のキリシタン関係のことを考えた。

いまやキリシタン迫害の歴史は世界遺産になり長崎観光の目玉である。長崎市のパンフレットには様々な記念となったことを喧伝している。

その中の一つに26聖人がある。

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。(以下省略)
長崎市の公式ホームページから引用
https://www.at-nagasaki.jp/spot/113/

観光用の宣伝文なのでしょうがないけど、キリシタンへの恐怖の拷問ばかりが目立つ内容で、少し片手落ちの感が否めないのだ。

これは26聖人の話ばかりではないのだが、日本におけるキリシタン禁教の歴史を語る表向きの言葉はどこか偏っている。

確かに大きな悲劇なんだが、世界の中の長崎という視点を欠いては、その話は空虚なものになってしまう。

そんな理由で「26聖人」の事実を書いてみたい。

日本でのキリスト教布教の意味

26聖人での重要な点は「日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めて」という点である。

日本の権力者は宗教に対して寛容だった。共産党のように宗教すべてを排除するような事はしていない。

ただ、戦国時代から日本統一をしようという野望の前に、宗教でまとまった勢力に対して容赦はしなかった。

キリスト教だけを問題にしたわけではなく、日本国内の宗教がらみの事件を見れは一目瞭然である。

本願寺の一向一揆との戦いと比叡山の焼き討ちは有名である。

一向一揆とは浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動で参加者は土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民である。

比叡山の焼き討ちは反信長勢力との戦いであり宗教弾圧ではない。

信長のタブーをものともしないAI的思考が、新日本国家を作り上げる為に善悪を超えたブルトーザー的豪腕を必要としたのである。

その信長と共に行動していた秀吉も信長の思考に同調する人物だった事は間違いない。

日本におけるキリスト教の芽生えに対して、信長的な考えを展開していったのは無理もない所である。

豊臣秀吉


日本統一を果たしたとはいえ、反秀吉の勢力は確実に存在している。

この反秀吉勢力と外国とつながるキリシタン大名が結託すれば、再度日本は戦国時代になってしまう。

そしてキリシタンの後ろにはスペイン・ポルトガルというその時代の覇者が手ぐすね引いて日本を狙っている。

その事を秀吉は恐れていたのである。

なので秀吉による直命によるキリシタン処刑は、戦いのない国の確立を望む秀吉の意思を明確に表したものと理解して良いのだ。

秀吉の国際感覚がキリスト教の向う側にある世界の実態に危険信号の赤ランプを点滅させた最初の事だったのだ。


そんな豊臣秀吉がキリシタン禁教令を発布した理由は

1.秀吉が九州征伐の時に感じたキリシタンに対する警戒心

2.キリシタン大名やキリシタン(信者)によって寺社が焼き払われたり僧侶が迫害されたりした事

3.ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られている事例が発覚した事

が挙げられている。

しかしこのキリシタン禁教令は脅しであり、南蛮貿易は遂行し宣教師たちは日本で活動は黙認、キリシタン信者たちへの棄教はなかった。

これは秀吉ならではの政治姿勢で、ボクシングで言えばガードを固めながら前進していき相手のスキを見て打ち込む戦法だと見てとれる。

 

イエズス会とフランシスコ会

26聖人と呼ばれるキリスト教徒たちの逮捕は何故起こったのかを考えたい。

逮捕された場所は長崎ではなく京都だ。

京都といえば仏教の本拠地であり、秀吉大阪と目と鼻の先にある重要な場所である。

そんな場所で、新しく日本にやってきたフランシスコ会の宣教師たちはイエズス会のやり方を不満に思い、これみよがしな活発にキリシタン布教を行った。

ここは重要である。

これまでキリスト教を布教していたのはイエズス会で、あのフランシスコ・ザビエルもイエズス会である。

イエズス会は布教活動のために設立され、キリスト教を広める為にどこでもでかけていったチャレンジャーで「ロ-マ教皇の軍隊」とも呼ばれている。カトリックの最大派閥で、2番手はフランシスコ会である。

イエズス会は、文化に順応しながら伝道を考える穏健派、フランシスコ会は既存文化を無視する形の最右翼グループと言っていいだろう。

フランシスコ会系は、南米からフィリピン経由。トップに宣教することで、キリスト教国化が成立した歴史を経由した国からきていることもあり、同じ方法論を日本にも適用したのではないか。
キリスト者からのメッセージ
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=391

秀吉は京都で派手に布教するフランシスコ会を挑発的なグループと考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。

捕まったのは大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名である。

26聖人のうち後の2人は、24人を京都から長崎へ連行する際世話人をしたキリシタンである。

そして長い道のりを経て長崎まで連行されている。これは当然見せしめの旅である。

捕縛されたキリシタンは処刑される場所に、キリスト処刑の地ゴルゴダの丘に似ている西坂を自ら選んだという。

そして1597年2月5日処刑された。

ここまでが経緯である。

 

なぜ聖人に認定されるまでに265年かかったのか

この26人は処刑の7年後京都大阪のキリスト教信者から聖人としての請願が出され、教皇庁は調査の結果、聖人ではなく「列福」という栄誉を与える。

26聖人として認定されたのはかなり後の1862年6月である。

1862年はまだ江戸時代で、あと5年で大政奉還の徳川 慶喜が征夷大将軍になる頃である。

そしてあの黒船の登場で、日本でのキリスト教の布教は転換期を迎える。

1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。ウィキペディア

キリスト教はカトリックと呼ばれる教会中心主義とプロテスタントと呼ばれる聖書中心の両派がある。

日本には1859年5月にアメリカのプロテスタント宣教師2名が来日したのを皮切りに、それ以後続々と来日している。

一方カトリック側はやや遅れて1862年横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会を建てている。

そしてカトリック教会のローマ教皇庁は、長崎の26人の殉教者を「聖人」に格上げしたのだ。

これはどう見ても、プロテスタント側との布教争いの結果としか見えない。

これが26聖人の事実である。

そしてカトリックの聖人はこの長崎の26聖人がアジア初である事も付け加えておく。

IFの世界

もし秀吉がキリシタン禁止令を出さなかったら日本国はどうなっていただろうか。

夢のようなパラダイスが日本に誕生しただろうか。

一般的な歴史学者だったら、日本はスペインの植民地になっていただろうと答えるだろう。

もしかしたら、外国勢を巻き込んだ戦国時代に舞い戻ったかもしれない。


「沈黙 -サイレンス-」のテーマとは少しかけ離れたようだが、キリシタン禁教はそれほど重要な事件だったということを再認識させられた映画だった。