秋も深まり長崎の紅葉が気になる季節である。

近所でもないのだが、淵神社の近くにもみじ谷という場所がある。

もみじ谷という名前が風流である。

という事はもみじ谷には紅葉のもみじがあるかもしれないと思い、散歩がてらもみじ谷方向の坂を上った。

もみじ谷


今もみじ谷というと、みなさんがピンとくるモノがある。そう焼き場である。

正式名称を長崎市もみじ谷葬祭場という。

昔は「竹ノ久保の焼き場」と言っていた。出来たのは大正時代からというので結構古い。

私の親戚のクチの悪いおばさんが伴侶のおじさんに文句を言う時「早いとこ竹の久保に行かんね!」というフレーズを良く使っていた。

それを聞いてみんなケラケラと笑ったもんだった。

それがいつの間にか「もみじ谷斎場」が通り名になっていたようだ。


5分ほど成人病センター横の坂を登ると火葬場につく。

何度が来たことがあるんだが、こんなにまじまじと見たことはなかった。

ああ、ここだったんだと思った。


もみじ谷というくらいなので、昔は立派な谷だっんだろう。

左右に小山がせり出している。

もみじ谷

紅葉はあまり見なかったが、紅葉や柿の実がちらほらあり「もみじ谷」という名前がついた頃は、きっと立派な紅葉があったんだろうなと推測できる。

紅葉谷とは淵町と梁川町の境にあたる谷合を紅葉谷といい、中央に流れる川を紅葉谷川といいます。また、紅葉谷川の最下流の橋を椿谷橋といいます。

江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、竹の久保に梅谷(うめがだに)という梅林があったと書かれています。そしてここは福田氏の別荘であったとあり春先には見事な梅を咲かせていたといいます。

『広助の丸山歴史散歩』 – BIGLOBEより抜粋


椿や梅、紅葉など江戸時代は淵神社を含め風流な地であったと書かれている。

火葬の歴史

世界を見渡せば殆どが土葬だった。ところが日本では縄文時代から火葬はあったらしい。それは遺跡から火葬骨が出土しているからだ。

長崎県ではその物証が発掘されているから驚きである。

長崎県大村市の弥生時代後期(2世紀ごろ)の竹松遺跡において、長崎県教育委員会の発掘調査により火葬による埋葬と見られる人骨が発見されている。これが検証のうえ認められれば、火葬の歴史はもっと古くから存在することになる。ウィキペディア

日本の火葬は仏教と共に伝わったという説が有力とされている。それはお釈迦様が火葬されたという話が元になっているのだが、縄文から火葬があったとすれば、火葬は日本人独特の埋葬方法だったのかもしれない。

もちろん土葬もあったが、土葬火葬の場所を調べれば渡来人か原日本人かがわかるかもしれない。

この事は又別のページで書きたいと思う。

火葬場の煙突

火葬場に行く羽目になって、ある程度の時間を待つ事になる。そんな時子供だった僕たちは、火葬場の煙突を時々見に行った。

人間を焼いた煙が出てくると聞いたからだ。そして煙が出たのを見て家族のもとに報告に行ったという記憶がある。

もみじ谷火葬場の煙突

写真はもみじ谷葬祭場の煙突である。

長崎市の人は絶対一度はお世話になる場所である。なんだか人の一生の最後を見る場所のようで、少し怖さがある。

もみじ谷の火葬場。

ミスマッチだと思ったのだが、ふとこの句を思い出した。

あの良寛の辞世の句
 
<裏を見せ 表を見せて 散るもみじ>

なるほど。

風流な土地だった淵村である。

ここまで考えていたのかもしれないなと思い一人で納得してしまった。

もみじ谷