心田庵と移民の町長崎
心田庵(しんでんあん)は長崎市内で大人気の建築物である。あまりの人気の高さで紅葉の時期や桜の時期は訪れる人で大混雑するほどだ。
創建 寛文~天和期(1660~80年代)
心田庵は、何兆晋(がちょうしん)が長崎片淵郷(現在の片淵2丁目)に建てた別荘です。
何兆晋は、寛永5年(1628)に長崎に来た住宅唐人・何高材(がこうざい)の長男で、万治元年(1658)に唐小通事となりました。父・高材とともに長崎の清水寺本堂(国指定重要文化財)を寄進したことでも知られます。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p025881.html
心田庵のいう名前の由来は、「何兆晋(がちょうしん)の心の田畑はとても広大」だという意味が込められているという。
何兆晋の名前のとおり、父は中国(唐)からやって来た移民で何高材(が こうざい)という。その長男に生まれ、長崎で小通事という役職についていた。
唐通事は文化度が高く財力があり、長崎では尊敬される名士である。その何兆晋(がちょうしん)が、役目を10年ほどで退職し、長崎の文化人が集う別荘を建てた。
つまり年若くして花鳥風月三昧の遊民となり、友人が集う庵を建てた。
それが心田菴(しんでんあん)である。
何兆晋は琴を愛し茶道に傾倒したということから、今の心田庵にも琴が置かれ、抹茶のサービス(1杯500円)をしている。
まあ簡単に言うと江戸時代の唐人が建てたサロンである。
貿易都市長崎は移民都市でもあり、そこでは国籍による文化的差別は殆どなかったと思われるし、逆に能力の高い移民は尊敬されていた。
その移民代表格の何兆晋(がちょうしん)の別荘が今でも残っていて大人気ということである。
移民都市長崎
現在の長崎にも大量の外国人が住んでいる。現在は中国、韓国人以外にもベトナム人、フィリッピン人などの人が住み仕事をしている。
そして市内のスーパーやコンビニの受付に日本人以外の人が多く働いているのが目につくようになった。
そして江戸時代もそうだったのだ。
「当時の長崎の人口は6万人、その6分の1が中国人であったといわれています。しかし、膨大な銀や金の国外流失に頭を痛めた幕府は、貿易額を縮小するため、元禄2年(1689年)唐人屋敷を開設、以後、厳重な監視を行いました。」(長崎歴史文化博物館の展示より)
ここで幕府は貿易制限と外国人の管理を強めたのである。
いつの時代でも移民の問題は起きる。
そうなると移民を弾圧しているなどと、お花畑の過度な人権派やなんでも平等の共産主義思想の人達から言われるが、国策が優先されるのは何時の時代でも同じである。
しかしそれでも長崎に住み着いた中国人、朝鮮人は日本人と結婚し、日本の名字になったりして長崎人と同化していくことになる。
それが近代まで続いているのである。
現在「じけもん」と呼ばれている昔から長崎に住んでいる人たちの血脈には異国の血が何割か混じっていることは間違いない。
これからの移民達
今は2018年である。
今話題になっている移民法が成立した年である。問題の多い法律だが決まったものはしょうがない。
これまでは中国朝鮮と日本と隣接する国の人たちだったが、これからはベトナム、フィリッピン、インドの人たちが日本人と同化していくだろう。
そして、それは長崎だけではなく日本中で起こるのだ。
古代の縄文から弥生に移ってきた時と同じように文化自体が変化していくだろう。
しかしこれはしょうがないのだ。
移民の国アメリカと同じように、様々な人達が暮らす日本になる。そして他国と同じような問題が起こるだろう。
できれば過去の長崎のように、移民の文化が昇華され未来に残る良き資産になればと思うのである。
心田庵名物のテーブルガラスに映る紅葉や桜のように、みんなが囲むテーブルには日本人の美意識が写っていて欲しいと思うのだ。