沿岸を守る中世の武士団 福田氏
長崎市内に、残っている城はないが、その残滓と伝説は残っている。
そして、それらの跡を現在でも見ることが出来る。
今回は福田地区の城の跡を見に行った。
長崎に福田という地名がある。
小さな港町だが、昔ここに福田遊園地というのがあった。
正式には長崎遊園地である。
長崎自動車は長崎港西岸の国道202号線沿いに位置する西彼杵郡福田村(現、長崎市)小浦の海岸埋立地を整備して、1957年(昭和32年)3月16日に長崎自動車の子会社として株式会社長崎遊園地を設立。
同年4月20日に、大型遊具14基を備えた本格的な子供向けレクリエーション施設長崎遊園地を開業する。
オープン当初は、長崎市内唯一の遊園地施設であった。プール、ゴーカート、観覧車、野外ステージ、ランニングコースを有する運動場などがあった。夏場にはボート遊びや釣りができる海水浴場も開かれていた。1983年3月からは大型遊具を16基に増設し、屋内遊戯場も完備した。
平成8年(1996年)8月31日に営業を終了。
終了した原因は、ハウステンボスや長崎オランダ村の進出だと言われているが、時代の流れだったと思う。
昭和初期の生まれの人なら、行った人も多いだろう。
なので、福田といえば遊園地、海水浴場というイメージが今でも残っている。
その福田遊園地のあった場所からそれほど遠くない場所に、福田氏の歴史が眠っている。
福田氏
平安時代末期の治承4年(1180年)、後白河法皇家臣の平兼盛(平包守)が九州の肥前国老手・手隈の定使職に任ぜられて長崎の福田にやってきた。
今から1000年以上昔の話である。
平兼盛(平包守)は隈(くま)平三ともいう。
老手・手隈の定使職というのは彼杵荘(長崎)老手村(福田村)、手隈村の事で、そこの地頭職になる。
平包貞には子が無く、家督は弟の平包信(兼信)が継いだ。平兼信は土着して、その地を福田と名付け、自身も隈(くま)姓から福田を名字としている。
これが九州平姓福田氏の始まりだという。
地名を変更した理由は載っていないが、老手村(福田村)という名は、老いるという字が入っていたので、縁起の良い文字(福)に変更したのかなと推測する。
福田という苗字は、もともとは開墾の難しい「深田」を良田にしたいという願いから「福」という文字を使った呼び方である。
全国にも有名な福田姓は多いので、それらにあやかり福田としたのだろう。
現在の長崎市には丹治比(たじひ)氏一族がいた。いつ頃からいたのかは不明だが、長崎氏や戸町氏の本家と言われているので、中世以前かも知れない。
長崎の土着豪族以外では、深堀氏と福田氏がいる。深堀氏は承久三年(1221)の承久の乱において鎌倉幕府方として戦い、肥前国彼杵荘戸八浦の新補地頭となったとある。
とすれば、福田氏のほうが100年ほど早かったと思われる。
その時代にでも長崎市内には、小規模でも豪族がいたので、争いを避けるために福田という、陸路に不便な場所に陣取ったと思うのだが、外海に面しているので海の交通が逆に便利だ。
福田氏は平家の流れである。
そして平家は伝統的に海族である。
更にその時代の長崎は平地も少なく、山に囲まれているので、海上交通のほうが良かったと思う。
また、日本国の防衛の面でも大切である。
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。
有名なのは、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した刀伊の入寇(といのにゅうこう)という事件が起きている。
ということで、福田への出向は朝廷の意向もあったと思われる。
日本最大の危機、元寇もあった。
1度目を文永の役(1274年)2度目を弘安の役(1281年)という。
この蒙古襲来にも現地の在地勢力として福田兼重・兼光親子が参加している。
(弘安の役では、深堀家も参戦しており、深堀時仲の戦功著しく肥前国神埼荘にも荘内の地を与えられている)
深堀氏と福田氏という中央政権から出向してきた武士団たちが、共に長崎港の入口を守っていたことに注目したい。
戦国時代には福田荘に残った嫡流の一族が勢力を伸ばし、領主としての地位を確保している。
しかし戦国時代末期にキリスト教と出会うことになる。
永禄8年(1565年)にはポルトガルの定期船が来航し福田浦に入港した。
初めてポルトガル船を迎え、活気を呈し教会も建設され、各地からキリシタンらが集まってきた。
大村純忠も幾度かこの地を訪れて、キリスト教の神父達やポルトガル船の司令官とも会談している。
永禄8年(1565年)に南蛮貿易の権益を巡って松浦氏の襲撃を受けるが、福田氏はこれを撃退した。
その事があり、天正元年(1573年)福田城を築城している。
天正14年(1586年)に、福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配下に入っている。
江戸時代になると福田氏は大村藩に仕えていて、一門重臣として行動し、幕末を迎える。だが、福田氏の直系は途絶えてしまった。
その末裔には陸軍大将・福田雅太郎が出ている。福田雅太郎は日清戦争には第1師団副官として出征する。
余談だが、1928年大日本相撲協会会長、1930年枢密顧問官に就任している。
現在の福田地域は、大型の商業施設が出来、活況を呈している。
しかし、城跡らしき場所は荒れ果て、祐徳稲荷神社が古びれて残るばかりだ。
小学生が作ったと思われる案内だけがあり、残念である。
まさに強者達の夢の跡なのだ。
墓地の辺りは出丸
30メートルほど登る。
神社は戸が閉められている。
奥の社殿もあり、昔はちゃんとした神社だったと想像できる。
この裏が城跡と言われている。
主郭は神社境内となっているので、当時の遺構か不明ではあるが、東側面に低い石積された小さな段が多く残されており、主郭の西側にも一部石積らしきものがある。