長崎の豪族たち

「長崎は、開港以前寒村でした」とどの観光パンフレットにも載っている。

しかし長崎全体が寒村ではなく、長崎の岬付近が寒村だったのである。

開港以前の長崎の岬

開港以前の長崎の岬

長崎の歴史は、キリシタンのための開港と貿易の歴史が華やかで、それ以前の長崎がどんなだったかということを、知らない人も多い。

「長崎は、開港以前寒村でした」という文章が呪縛のようにとりつき、洗脳状態なのかも知れない。

しかし、歴史書にはもっと古い時代のいろんな事柄が載っていて、名もない歴史を刻んでいる。

今回はそれらをご紹介したい。

長崎港

長崎で一番古いといえば、景行天皇行幸の際、彼杵(そのき 長崎)に寄ったという記録や、神功皇后が長与に泊まったとかの伝説である。

これは神話の話だが、それだけ古くから長崎は記録されている。

神社では岩屋神社の縁起が西暦700年ほどと書かれている。野母崎の観音寺も古い。

岩屋神社

しかしそれだけで、残りの神社仏閣は1600年以降に建てられている。

その理由は、キリシタン教徒による神社仏閣の焼き討ちである。古いお寺や神社は、キリシタンの町になった時から、有無を云わさず焼かれてしまった。

キリシタンの人にしてみれば、仏教は偶像崇拝の悪魔教である。神道も悪魔の伝導所だったのだ。墓地を壊し、坊主、神主を追い払う所業が続く時代があったのだ。

そのせいで、長崎の過去の歴史が見えにくくなっている。残念である。

日本二十六聖人

さて、日本の歴史は、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、南北朝、戦国、安土桃山、江戸となる。

古代長崎は彼杵(そのき)と呼ばれていて、奈良時代の荘園制度の時代では、彼杵荘(そのきのしょう)と呼ばれていた。

日本の形が変わっていくことで、当然長崎も強く影響を受けている。

例えば、奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていたが、743年に墾田永年私財法を発布した。

これは開梱した土地の永年私有を認めるものだったため、中央貴族・大寺社・地方の富豪(かつての豪族層)は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなった。

この時代から、長崎も騒がしくなって行くようだ。

壇ノ浦の戦い

室町時代に、今の地名になっている豪族たちの名前がある。

1192年鎌倉幕府成立以後、全国的におきた武士団による開拓の一貫で大規模な移住開発がおこなわれ九州の開拓が行なわれている。

長崎も例外ではなく、この時期に、中央から武士が住み着いたと思われる。

ただ、記録に残されている武将の出自が疑わしいものも多い。

例えば地元出身なのに、本当は天皇家の血筋を引いているとか、いいとこの出だとか書かせている記録も多いのである。

そのせいで、なかなか断定はできないが、それらも含め書いてみる。

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丹治比(たじひ)氏

この一族の名前を書いている長崎関係の読み物は少ない。

だが丹治比(たじひ)氏は中世に長崎を支配した一族である。

中世、長崎と呼ばれる地域の殆どは彼杵荘(そのきのしょう)で、一部伊佐早荘だった。これは福田文書と呼ばれる記録に1182年に書かれているのだが、実際はもっと古くから存在していたはずである。

肥前風土記という本に、彼杵(そのき)の名前の由来がある。景行天皇(ヤマトタケルの父)が長崎方面に行った時、「速来津姫(はやきつひめ)」が美しい玉を献上する。それを天皇は「具足(そない)玉」と命名した。そこから彼杵(そのき)という地名になったという。

これは伝説で信憑性のかけらもないし、西暦での年代も不明なのだがかなり古い話である。

その彼杵荘(そのきのしょう)に住み着いたのが丹治比(たじひ)氏である。

多治比氏のもとを辿れば、宣化天皇の三世孫多治比古王を祖とするとあるが、これも定かではない。この多治比氏は全国に存在しており、どういう経緯で長崎に住み着いたのかはわからない。

長崎の戸町氏、矢上氏、永埼氏(長崎氏)は、この丹治比(たじひ)氏の血筋である。

長崎氏

現在の長崎県や長崎市の名の由来となっている九州長崎氏は、九州千葉氏の流れとされているが、鎌倉長崎氏の一派であるとの説もある。
長崎港界隈の深堀から時津までの広い範囲を領していた九州千葉氏の一族が「長崎」を名乗ったことを起源とする(鎌倉幕府執権・北条氏の御内人である長崎氏の一派であるとの説もある)。

上記は、一般的に書かれている解説だが疑わしい部分も多い。

「長崎拾芥(しゅうかい)」という本には、長崎小太郎が源氏の大将、源頼朝より、この深江浦を貰ったと書かれている。

これを本当だと思えるだろうか。

「長崎実記」には1186年長崎小太郎が長崎にやってきたとあり、「長崎氏系譜」、「長崎略縁起評」、「新選士系録」には長崎小太郎重綱という武士が、1223年頃、彼杵荘に下向したとある。

「長崎略縁起評」には長崎小太郎重綱は下総佐倉(千葉県)からやってきたと書かれていて、「崎陽略記」では長崎勘解由左衛門為基が鎌倉幕府滅亡の際、名前を小太郎為直と改めて長崎に閑隠したと書いている。

「長崎縁起評」では南北朝期に長崎勘解由左衛門為基が長崎にやってきて、その子が小太郎だともある。「新選士系録」では長崎小太郎が、桓武天皇からの出自であるとし系譜まである。

これらの資料から、色んな所で九州千葉氏とか鎌倉長崎氏などと書かれるようになったと思える。

だが「福田文書」の、関東御教書(通達)に鎌倉初期に「肥前国御家人 長崎小太郎」という記述があり、長崎小太郎の存在は確かなのだが、いろんな記録書にある本籍の但し書きがない。

そうなると、肥前国御家人が本当で、根っからのジゲモンということになる。

となれば、戸町の近くにあった永埼浦(長崎浦)を開發した武士が長崎氏だということになる。

長崎勘解由左衛門 (武者絵 合羽刷)

長崎氏は丹治比(たじひ)氏の一族で、戸町氏、矢上氏と同じように未開の地で開墾をして、地主になったのである。

その後長崎氏は勢力を広げ、長崎の桜馬場に山城を築き港一体を治めていた。そんな成功時に、自分は実は偉かったんだという、いろんな出自を吹聴したのかも知れない。

この長崎氏の子孫の長崎純景は、戦国時代には大村氏に従属していて、自分自身もキリシタンになり、大村純忠の薦めによって長崎をイエズス会に寄進してしまうのだ。

これにより、長崎はキリシタンの町になってしまう。しかし長崎純景は所領をなくし、各大名を転々として74歳で時津にて没した。

ちなみに洗礼名は「ドン・ベルナルド」という。

浦上氏

浦上氏という名前は出てくるのだがその出自に関しては不明である。

ただ浦上の惣庄屋は高谷小左衛門といい有名なのだが、浦上氏とは違うようである。

熊本の菊地氏が大友宗麟に討たれ、大友氏の家臣となった菊地氏の末孫の菊地蒲三郎正重が慶長(1596年から1615年)の頃、長崎の浦上村にやってきて高谷小左衛門となっている。そして、浦上村惣庄屋となり、明治維新まで庄屋を世襲した。わが町の歴史散歩より

しかし、南北朝の時代にも浦上という名前がある。

南北朝(1336年から1392年)の時代、日本は真っ二つに割れていた。その時代長崎では地主や土豪のうち、北朝についていた者たちによって、彼杵一揆という地域連合組織が結成されており、総員70名ほどの参加者があり、その中に浦上沙弥浄賢(しゃみじょうけん)の名前がある。

また、浦上の地の土豪として浦上与兵衛(浦上村)の名前もある。

やはり古くから、浦上地区には浦上を姓とする土豪がいたと思われる。ネットでは播磨国(兵庫県南西部)の浦上氏が検索で出てくるが、これは違うようである。

長崎港が深江浦と呼ばれていたのだ、地形から見て、浦上川の上流の地だから浦上と呼んだと思われる。

あまり記録にないので、大きい武士の集団ではないだろう。

深堀氏

深堀仲光は承久三年(1221)の承久の乱において鎌倉幕府方として戦い、肥前国彼杵荘戸八浦の新補地頭となった。その子行光は、子の時光を地頭職代官として戸八浦(のち戸町浦)に派遣された以来、時光の流れが戸八浦に在地して、地名も深堀と呼ばれるようになった。

武家屋敷跡

この深堀氏はなかなかの強面だったようだ。

戦国時代の頃には、長崎港を利用する貿易船から関税を徴収し、拒否されると船を襲い積荷を強奪するといった海賊のような側面もあったという。

長崎で活発に活動したのは、深堀 純賢(ふかほり すみかた)である。

純賢は深堀氏に養子として入り18代目を継いだのだが、兄である西郷純堯と共に肥前西彼杵郡長崎の大村氏や長崎氏との抗争に明け暮れる。

兄の西郷純堯(さいごう すみたか)もなかなかの武士である。

西郷氏は熊本の菊池氏の一族とされ、戦国時代の頃には、有馬氏配下として肥前の伊佐早荘(現在の諫早市)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前(島原)に対する前線を守っていた。

有馬氏が衰退し龍造寺氏(佐賀)の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになる。やはり抜け目がない。

この兄弟は、神社仏閣、墓地などを破壊するキリスト教徒が嫌いだったと見える。

キリシタン大名の大村純忠と、同じくキリシタンになった長崎甚左衛門純景を何度も攻撃している。ただ、長崎甚左衛門純景も負けてはいない。純景は鶴城に陣取り、何度もその攻撃をはねのけている。

長崎市内に勝山という場所がある。現在の市役所がある地域なのだが、この「勝山」という名前は、なんど攻撃を受けても、勝ってきた場所だったからという由来がある(他説あり)くらいだ。

なぜ長崎甚左衛門純景は強かったかといえば、やはりキリシタンであったからだと思う。また純景が治める地域もキリシタンが多く、農民や地域住民一丸となって攻めてくる敵と戦ったからである。

その後、1587年前後に豊臣秀吉の九州平定が実現され、日本は豊臣家の時代に入る。深堀 純賢も素直に秀吉に従い、深堀の地を安堵されるのだが、翌年に発せられた海賊停止令に違反する不法行為を咎められ所領を没収され、純賢は佐賀県へ移った。 秀吉はそのあたりは厳しい。

その後、朝鮮の役を契機に鍋島氏の家臣となり、それを機に、鍋島家から後妻を迎え、その子を養子にする。その養子、茂賢は純賢の代わりに文禄・慶長の役に参加して佐賀藩深堀邑6千石の初代邑主となり、佐賀藩家老職の家柄「深堀鍋島家」の祖となった。

その後、深堀の地は、長崎の中にあるのだが佐賀藩鍋島の飛び地として、居城を中心に武家屋敷などをつくり、新しい城下町としての深堀の町を作っていった。

深堀の話として有名なのが、1701年に起こった「長崎版忠臣蔵、深堀騒動」である。

深堀領に使える武士2名と、長崎会所役人高木氏の使用人の間で、すれ違いざまに泥がかかったという事で言い争いになる。その日の夕方、高木氏の使用人たちは仕返しに、仲間を引き連れて五島町(長崎市)にある深堀の屋敷を襲撃。高木氏の使用人達に馬鹿にされ、さらに刀を奪われる。その事に怒った深堀の武士21人が、翌日、無念をはらすために高木家に討ち入り、主人である高木彦右衛門を斬ってしまう。

まあ、ただの喧嘩なのだが、長崎で貿易商人の元締の高木家と、貿易商人と関係がある深堀氏。お互いに気に入らない奴として緊張関係にあったことが、原因だと推測される。

深堀氏は、良くも悪くも武闘派だったのである。

戸町氏

戸町氏は丹治比(たじひ)氏の子孫で本補地頭だった。つまりジゲモンである。

戸町は、古くは「とはち」ともいい、古地図には“戸八”とも記されている場所で、船の停泊地を意味する「門泊(とはち)」に由来するとある。その地を開発したので戸町氏と名乗ったと思われる。

鎌倉時代後期に、深堀氏が上総国(千葉県)から一族を連れて戸町浦にやってきた。深堀氏は鎌倉幕府のお墨付きを持っている上、生粋の武闘派である。

その領地争いの小競り合いは60年に及んだとあるが、1340年頃、結局戸町氏の一族は深堀家の下男になってしまう。

福田氏

平安時代末期の治承4年(1180年)、後白河法皇家臣の平兼盛(平包守)が九州の肥前国老手・手隈の定使職に任ぜられて下向した。その地を福田と名付け、自身も福田を名字とした。

この福田氏は由緒ある一族だと言えよう。

元寇にも現地の在地勢力として福田兼重・兼光親子が参加し、「福田兼重申状」等の資料を遺している。 それ以降の南北朝の騒乱にも参加している。

福田という土地は、外洋に面した小さな漁港であったが、初めてポルトガル船を迎え、教会も建設され、各地からキリシタンらが集まってきた。

その頃に福田の地には教会が建設され、各地からキリシタンらが集まってきた。大村純忠も幾度かこの地を訪れて、キリスト教の神父達やポルトガル船の司令官とも会談している。

南蛮貿易の権益を巡って松浦氏の襲撃を受けるが、忠兼はこれを撃退し、そして福田城を築城する。天正14年(1586年)に、福田忠兼は息子の福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配下に入っている。

戦国時代は大村藩に仕えるが、江戸時代になると、福田氏の直系は途絶えてしまった。

福田城跡

福田城跡

矢上氏

高城台に城館を構えていた「矢上氏」の名が見えるが、諫早の戦国大名西郷氏の滅亡と同時期に姿を消しており、詳細はつかめない。

樒(式見)氏

平家の流れを汲む樒(しきみ)氏による支配説というのがある。
シキミ(樒)常緑高木。有毒で、仏事に用いるため寺院に植栽される。この木に由来するとの説もある。
「式見由緒」には樒越前守三清入道は毛利輝元の家臣であることが記されている。

長崎 古賀(閑)氏

熊本県である肥後各地に古閑村というのがある。
熊本の豪族、内空閑氏と関係があるのかも知れない。

稲佐氏

悟真寺となる以前のこの場所は土豪稲佐氏のやかたがあったところらしい。
宮方についた武士の中に稲佐治都夫輔の名がみえる(大平記・鎮西志・治乱記)。
1362年には既に滅亡・していたと推定される。

悟真寺

長崎の城

長崎に数多くの武将や土豪が存在するということは、領土争いなどがあったという事である。

これらの問題をすべて話し合いで解決したワケではなく、その背景には武力が存在している。なので長崎にも、戦闘の遺跡、つまり城の存在が多数ある。

下記のページには長崎地方の城、山城、お台場などの情報満載である。

肥前・狭田城 山城 長崎県長崎市江平1。肥前・高浜城 山城 長崎県長崎市高浜町。肥前・城山城 平山城  長崎県長崎市城栄町・・など

肥前国のお城一覧
http://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/

平間城山城(長崎市平間町)

平間城山城(長崎市平間町)

一揆

一揆といえば農民一揆が連想されるが、一揆は農民だけではない。

有名なのは、島原の乱がある。

一般的には宗教弾圧に対する反抗という説明が多いのだが、この島原の乱でなくなった多くのキリシタンは、現在も殉教者としては認められていない。

その理由は、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、宗教の弾圧や百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが判っているからである。

これ以外にも、南北朝時代、国が二つに別れた時などは長崎でも自主的な組織が結成されている。これはイデオロギーではなく、防衛のためである。

現在もある地名の名前も、一揆連判状にある。

南北朝時代の1372年一揆の連署者は東西彼杵の全域に及ぶ。
早岐村、針尾、宮村、川棚村、波佐見村、彼杵村、壱岐力(伊木力)村、時津村、浦上村、大浦村、戸町村、樒(式見)村、雪浦村、あるいは浦上村の中野、家野、淵、また深堀、高浜、野茂(野母)など村名、地名を名乗る多数の在地領主が名を連ねる。

浦上村の中野は、現在の橋口から山里小学校付近だろう。それ以外は、今でも町名として名前が残っている。

長崎の地でお互い、しのぎ合を続けていた時代が長崎にあった。

今でも、山城の跡などもあり、強者共の夢の跡が残っている。

その後、長崎地域は天領となり、また違う道を歩み始めだした。

しかし、過去、記録に残っていない人々の歴史が、この地にたくさんあった事だけは事実である。

長崎甚左衛門純景(すみかげ)氏の城砦があった城の古址(しろのこし)


参考 わが町の歴史・長崎 ウィキペディア 等

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