諏訪神社の三の鳥居の上の道を、西山の方に進み、西山神社の一之鳥居を過ぎて少し進むと、左近稲荷神社という大きな立看に出会う。

左近稲荷神社

結構急な石段の参道を登ると、古びた社殿が見える。

左近稲荷神社 参道

左近稲荷神社

左近稲荷神社

締め切った扉には、紐のしめ縄がかかり、賽銭箱も鈴もない。しかし朽ちかけた赤い鳥居もあり、裏に回ると巨大な岩を包むこむようにして建てられている社殿も、それなりの歴史を感じる。

左近稲荷神社

左近稲荷神社

さて、この神社の左近稲荷神社という名前が珍しい。

この神社名の由来を調べてみる。

由来書

人々の衣食住を司る保食大神(お稲荷さま)をお祀りするおやしろで、古くは神殿が巨岩の上に建てられ、この岩を「鉄砲岩」と呼ぶところから「鉄砲岩神社」とも称された由緒ある神社。

左近稲荷神社 由来書

左近稲荷神社裏手の大岩

鉄砲岩

まず「鉄砲岩」だが、多分大砲状の岩があり、それがご本尊となっていると思う。

拝殿を覗いてみると、確かに岩が拝殿に覗いているのがわかる。他県にも同様の岩を鉄砲岩と呼んでいるので、間違いない。

左近稲荷神社

岡山県にある鉄砲岩

昔は観世音菩薩が安置されていたというので、鉄砲岩という奇岩を神域として、仏教や神道などが寄せ集められた場所だったのだ。

左近稲荷神社の眼下には町が広がっている

近くにある西山神社は修験道の山伏信仰がメインで、少し強面の神社に対して、この左近稲荷神社は、観音様やお稲荷様を祀り、庶民の信仰の場所だったのではないかと推測される。

その場所が、廃仏毀釈運動で明治7年に「左近稲荷神社」という名称だが、その理由を書いた書がない。

左近

左近という名前だが、役職の名前である。

近衛府(このえふ)は令外官のひとつで、禁中を警護する部隊の事である。

この部署には左右に各1名(左近衛大将・右近衛大将)いる。その役職に将監(しょうげん)という位があり、左(右)近大夫(さこん(うこん)のたいふ)将監となる。

左近とはこの左近大夫のことだと推測される。

長崎にこの左近さんがいるかどうか探したら、島原城に高力左近将監がいた。

高力一族は武蔵岩槻藩主→遠江浜松藩主→肥前島原藩主という経歴がある。つまり各地を転々としている。

肥前島原藩初代藩主になった高力 忠房(こうりき ただふさ)という殿様がいる。

島原城

通称、左近大夫と呼ばれていた。

高力 忠房は、島原の乱後の肥前島原4万石へ移封された。あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、さらに長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。

この事から、西山にも左近大夫に関係する人たちが住み続けたのではないかと思われる。

すべて憶測だが、稲荷神社は、かなり自由な神社で神社のために尽力を尽くした人の名を神社の頭につけることはよくある。

すべて憶測だが、しょうがない。

今後記録が出てくることを望む。

神社のすぐ下にある祠。観音様かもしれない。

左近稲荷神社絡みた景色