作られた伝説の裳着神社
長崎市で最も古い神社で850年以上の歴史があるとされているが、神功皇后伝説が本当なら、1400年以上の歴史があることになる。
天正年間(1573~92)神社・仏閣等の焼き討ちがあり、社も廃絶に帰しましたが、寛永3年(1626)島原藩主・松倉豊後守重政が当社及び村内六名の神社を再興し、社殿の改築、御戸張等を寄進しました。
これはキリシタンの仕業だ。
裳着神社の祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后となっている。
神功皇后が母、仲哀天皇が父、そして応神天皇は子供である。そして相殿祭神は竹内宿祢大臣、大伴武持大臣、物部胆昨連、中臣鳥賊連、大三輪大友主君と書いている。
この相殿祭神の意味は、仲哀天皇の崩御に際し、皇后の神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘匿した。
そして、大伴武持大臣、物部胆昨連、中臣鳥賊連、大三輪大友主君に天皇がなくなったことを、人民に知らせてはならないと日本書紀に書いていることによる。
つまり、この神社の神様たちは、神功皇后伝説一色になっている。
やはり話が出来すぎている。
裳着神社は、明治以前は八武者大権現を祭っていたという。
当初は、弁天山に祀られていたが、約850年前に現在地に遷座されたという。
現在弁天山には、茂木厳島神社だけがある。
どういう事だろうか。
厳島神社の看板には、漢字が違い伊都岐島神社と書かれている。
海の見える小山にあるという事から、海の神様である宗像三女伸の末娘、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る神社で間違いないだろう。
その神様を残して、八武者大権現を今の裳着神社に移している。
八武者大権現という神様はウィキペディアには載っていない。
ただ、大権現とは、日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。
現在から逆算すれば、約1200年前のことか。そうすると鎌倉幕府の時代になる。
鎌倉幕府は、平家を倒した源氏の政権である。
権現様は武士から信仰されている神様で、よく言われるのは八幡大菩薩だ。
八武者大権現と八幡大菩薩は同じ意味である。
八武者と名前を変えているのは、茂木の近くに矢上という場所があり、そこには八幡太郎義家の伝説がある。
そこと繋がりがあるのかもしれない。
想像だが、武士の世の中になり、海の神様の場所から、武士の戦いの神様だけを町中に引っ越しさせたのではないだろうか。
茂木という地名の本当の由来
茂木(もぎ)という地名の由来について、本来“裳着”であるという解説がほとんどだが、本当にそうだろうか。
歴史を見れば、キリシタン布教で社殿を焼かれ一時廃社、寛永3年(1626)再建され茂木の鎮守となる。その後裳着神社となったとある。
裳着神社という名称は、神功皇后が三韓出兵に際して、この地域で衣装を着けられたことに始まるとあるが、明治元年(1868)4月に「裳着神社」と改称している。
かなり新しい名前である。
明治政府が神道を国家神道と定めた結果、茂木の人々が神功皇后伝説を引っ張り出し、茂木を裳着に変えたのではないかと、私は思っている。
地形から見れば橘湾の豊かな漁場があり、正面は五十猛島と呼ばれた島原半島がある。
五十猛とは木の神様である。
長崎側にある茂木地域も、森林地帯なので、茂木という名称は自然なのだ。
古くから町を流れる青菜川の河口を利用した良い港があり、この港から島原、熊本、天草、鹿児島、柳川、佐賀とが直線で結ばれ、船を利用する多くの往来者がいた。
早朝に長崎を発ち、田上を越えて、茂木の港から船を出し、順風に乗るとその日のうちに、薩摩(鹿児島)の阿久根か川内の京泊に着くことができたのだという。そこで長崎と茂木を結ぶ旧茂木街道ができ、さらに茂木で獲れた鮮魚を運ぶために年代をおって整備されていったのだ。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0402/
近くには曲崎古墳群(まがりざきこふんぐん)もあり、古代より栄えていた地域だったのだ。
神社は人々の思惑で変化していく。
まあそれも日本らしいのだ。
大切なのは、何かを祀ることで、人々は団結していくものだからである。