2020年1月24日(金)からランタンフェスが始まった。2月9日(日)までの2週間だ。
 

ランタンフェスティバル

1994年に始まったので、24年目になる。最初の年に見に行ったことを思い出す。湊公園でこじんまりとランタンを展示していただけだったのに、10年ほどたった時、いきなり大きなイベントになったと思う。
 
まあ、冬の観光の目玉になったので、文句はない。
 

中国

長崎は中国となじみが深い。
 
ただ、この時期は新聞もテレビも、日中友好のオベンチャラ記事と、やたらに持ち上げる提灯記事ばかりで、あまりのあからさまに、辟易してしまう。
 
新型肺炎の流行で、このイベントで、長崎も、もしかしたら大流行するかもしれないのに、そんな事は一切書かない。
 
毎日新聞のツイッターだが、「春節に合わせ、長崎ランタンフェスティバル開幕 中国人観光客 マスク着用で互いに気持ちよく」 – などと書いている。
マスク着用で互いに気持ちよくなんていう書き方が空々しい。
 
咳をしている中国人に近づかない事を広めるべきである。
 

中国と日本

中国と日本の関係は、ご存じの通り、深い。
 
日本の歴史で中国が登場するのは、邪馬台国の時代である。
 
最初に書くべきなのだが、中国と一口にいうのは間違いである。
 
いくつもの帝国ができ、そして消滅していった歴史だからである。そしてその帝国の人々は、いろんな地域の種族である。
 
この事を心にしっかり止めていないと、大きな勘違いをしてしまう。
 
そこで、簡単に中国の帝国を記す。
 
ざっくりというと殷・周・秦・漢・晋・隋・唐・宋・明は漢民族、元は蒙古族、清は満州族と言われている。全土統一以来漢民族による朝代は漢と明のみとも言われている。
 
つまり、日本のように単一民族の王朝ではなく、ほとんどが複合民族の国である。
 
そして、現在は中華人民共和国という、共産党一党支配の共産国家である。
 
こんな歴史の中で、日本の事が中国の歴史書に書かれているのが、有名な魏志倭人伝である。
 
邪馬台国紛争は、この本から始まっている。
 
この時代の中国は1世紀ぐらいの三国志の時代で、日本でも人気のある、諸葛亮孔明が登場する、あの三国志の時代である。
 
この時代はの力関係は、中国(隋)が親分で、邪馬台国は子分だった。
 
この時に遣隋使(けんずいし)という言葉が出てくる。600年(推古8年)から618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。このころはまだ日本ではなく、倭国だった。
 
あの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」の聖徳太子の文章は、この2回目の遣隋使(607年)である。
 

聖徳太子

 
この時すでに、日本は国力では隋にかなわないまでも、独立国としての気概に満ち溢れていた。
 
隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる。
 
その後は、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)である。663年10月、百済を助けるために、中国の唐と朝鮮半島の新羅連合軍と戦った。
 

白村江の戦い

これは、ぼろ負けだった。
 
白村江の戦いは日本が外国と戦った最初の戦争である。
 
日本は守りを固めるため、改革を進ませ、645年大化の改新により、豪族中心の政治から、天皇中心の政治となっていく。
 
この時代の中国は、まだ唐である。白村江の敗北をかみしめ、唐との交渉を続ける。そして、もらうものの方が多い公貿易をしている。
 
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献している。
 
894年菅原道真は、唐の混乱や日本文化の発達を理由として遣唐使を廃止する。
 

菅原道真

ここまでが、中国との関係の一区切りである。
 

古代の長崎と中国

野母崎にある観音寺は709年の建立とされている。こんな古い時代は、長崎市内より、野母崎が海外との交易港として中心だったようである。
 
663年「白村江の戦い」で大敗したので、唐・新羅連合軍に日本本土を侵略されないよう、対馬に防人や烽(とぶひ)を設置して侵略に備えている。
 
長崎名勝図絵(江戸時代初期に書かれたもの)に肥の御崎(野母崎)に警固所が有ったことが記されている。
 
このみさきの観音様へと続く道を人々は「御崎道(みさきみち)」と呼んだ。なぜ野母崎半島の先端にこんなりっぱな寺院があるのかというと、昔からこの港は重要な貿易港で中国へ渡る要地だったからだ。ここの港から再びここへ帰って来るように、ここの観音様に願をかけて礼拝したのだという。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0612/index1.html
 

観音寺

 
 
という訳である。
 
キリシタンが来ていない長崎の状況は、あまり記録はないが、武士団が長崎にいた事は記録に残っている。
 
長崎市には土着の丹治比(たじひ)氏一族、他の地からやってきた深堀氏と福田氏もいた。
 
辺境の地、長崎は平野もなく、農業だけでは無理で、漁業や交易によって生計を立てていたと思われる。
 
しかし、その時代、中国地域からやってくる貿易に関して大きな問題はなかったようだ。