松森神社

祭神は菅原道真公、天穂日命、菅原是善命
 
松森天満宮ともいう。長崎でもっとも古い歴史のある神社と言われている。
 
上西山町にあり、諏訪神社の参道、4つ目の鳥居を上がった所から右に曲がった場所にある。
 
この辺りは古い建物も多く、2年ほど前に解体された富貴楼は、この松森神社と隣り合わせだった。
 

在りし日の富貴楼

富貴楼は婚礼の撮影で何度か行ったが、趣のある作りと、狭い急な階段や廊下にひかれた、鮮やかな緋毛氈(ひもうせん)が記憶に残っている。花月などと同じ雰囲気で、江戸時代の料亭の香りがぷんぷんする。ここは、大人の男専用の場所だなと直感的に思った。
 
そんな場所にある松森神社だが、創建は1640年である。
 

本殿

松森神社

松森神社の裏手

その当時の将軍は徳川家光、出島でオランダ貿易が開始され(1641年)、参勤交代が全大名に義務化された時代でもある。
 
ここに松森神社が移った経緯だが、
 
今博多町に住む川上久右衛門と称する浪人が持っていた菅原道真公直筆の露像が、様々な奇跡を現すことから、家のそばに小さな祠(ほこら)を建てて、天満宮と名付け人々の信仰を受けていたが明暦2年、長崎奉行黒川興平(よへい)の肝入りで諏訪神社があった現在の地に移った。
 
 
とある。
 
ここにあった諏訪神社が、今の場所に移り、この場所に松森神社が移転された背景は、やはり対キリスト教政策の一環だ。
 
そして、これは国策なので、当然、長崎奉行が主導だったのである。
 
祭神の菅原道真公はご存じ、大人気の学問の神様である。
 
天穂日命(アメノホヒ)は、天照大御神の子供で、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されている。両者に特別な関係はないが、松森神社ができる前から、この場所に地元の信仰があったのではないかと推測される。
 

様々の神社

この神社の特徴は、いろんな神様が祀られている事にある。
 

松森神社の見取り図

境内見取り図にある地図をもとに挙げてみる。(解説文はすべて 広助の『丸山歴史散歩』より)
 
菅原信清命社
(広助さん)慶安4年(1651)初代宮司の宗也が没し2代目に後藤式部信清が神主になりますが、信清は出雲国春日大明神神主:後藤大和守の孫で以前より宗也に養われていました。それは宗也の出身が藤原家の流れをくんでいたため菅原道真公を陥れたとされる藤原時平の子孫ということで恐縮し、黒川奉行に斡旋を願い出ていました。そこで京都守護職の野山丹後守らから、道真公の子孫である高辻豊永の子の後藤式部信清を神主とします。なお、このとき延命寺第2代住持:尊覚は密教の権威者で高辻家と親しく清信はこの尊覚に伴われて長崎入りします。以降、延命寺は松森社を助け明治維新まで檀家寺としての関係となります。境内にはそれぞれ並列してお祀りされています。
 
(私)つまり、二代目の神主さんを祀っているという事か。
 

菅原信清命社

米津稲荷大明神
(広助さん)米津稲荷神社は社殿の東側に位置し勧請は不明。炉粕町鎮守神でもあります。祭神は倉稲魂神。
 
(私)米津といえば、いまはやりのシンガーがすぐ頭に浮かぶのだが、愛知県、静岡県に地名としてあり、愛知県西尾市には米津駅がある。
 
炉粕町鎮守神とある。炉粕(ろかす)という町名の由来だが、キリスト教禁教以前にあったセントルカス会堂前のルカス通りの転訛説vs銀の製錬の際に生じる留加須(不純物)説があるという。
 
禁教が徹底していく時代に、外国由来の名前が残る町名を使い続けるとは考えにくいので、不純物説を押したい。銀屋町もあるしね。
 

米津稲荷大明神

米津稲荷大明神

今博多町天満宮、新大工町天満宮
新大工町天満宮 (広助さん)明治2年(1869)に新大工町によって勧請され、当初は心字池南側に置かれていました(明治29:1896改修)。昭和44年(1969)今博多町天満宮が松森社境内地に移設した際、合祀されました。
 
今博多町天満宮 (広助さん)明暦2年(1656)この社は西山に移転し松森神社となり、跡地には万治元年(1658)大行院常学という僧が庵を建て仏教の説教場を開きます。正徳3年(1713)大行院と号し、さらには享保8年(1723)八幡町にあった般若院の僧:映澄が大行院を引き受け天満宮を建立し廣徳山大行院と号します。その後、祈祷所や寺坊、本門などを建立が進み、明治維新を経て神社となり今博多町天満宮となります。昭和44年(1969)川沿いの道路建設のため今博多町天満宮は松森神社境内に移設され、山門、基礎台座、社殿が現存しています。
 
(私)博多町が天満宮なのは、ご当地なので当然だろう。新大工町はそれに乗っかったのかな。
 

今博多町天満宮、新大工町天満宮

松森神社

塞三柱神社(下西山神社)
(広助さん)塞三柱神社は下西山町の塞三柱神社奉賛会によって勧請された神社で、祭神は八衢彦(ヤチマタヒコ)大神、八衢媛(ヤチマタヒメ)大神、衢立久那斗(チタテクナド)大神です。これらの神は外部から入ってくる災い、疫病などを町の境界や辻などで退けるという役割を持ち、このほか道案内の神といわれています。
 
(私)『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。『古事記』でも、上述のイザナギの禊の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、御袴から道俣神(ちまたのかみ)が化生している。ここで、「ふなどのかみ」と「くなどのかみ」は同神とされている。
道俣神と八衢比古命・八衢比売命が同神とされている。八衢(やちまた)とは、道が八つに分かれている所。また、道がいくつにも分かれている所。分かれ道が多くて迷いやすいことにたとえる。
 
塞神(さいのかみ)は、日本古来からある原始神である。天孫族ではない土地の神様も、数多い。そういえば天神様も、怨霊となって災いを防ぐために、祀られているのである。
 
神道とは、それらも抱擁している所に凄味があるのだと思う。
 

塞三柱神社

塞三柱神社

塞三柱神社(下西山神社)

ご本尊が大岩である。邪気から道をふさぐという事なのだろう。

五方殿
(広助さん)五方とは天と東西南北をあわせたすべての方向を意味し、あらゆるものという意味で集められた神が合祀された神社です。
 
(私)調べてもよくわからない。祀られているのは鳥居だろうか。お稲荷さんの使いの狐も置かれているし、謎である。
 
しかし、辞書には、中国および周囲の異民族。「五方の民」とあるので、中国由来の言葉のような気がする。中国人も長崎にはたくさん住んでいるので、あり得ると思う。
 

五方殿

五方殿

大学稲荷社
(広助さん)大学稲荷神社/小学稲荷神社は福岡県久留米にある高良大社の末社で、明和8年(1771)に京都伏見より勧請された稲荷神社です。松森神社にある同神社は付近で個人崇拝されていたものを昭和40年(1965)ごろ移されたもので、祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)です。
 
(私)大学なんてふざけた名前だなと思っていたら、ちゃんとした福岡県久留米にある高良大社(こうらたいしゃ)の末社であることを確認。
ただ、本来は商売繁盛、開運の神なんだけど、やはり大学という名前から、学業成就、試験合格の祈願が増えているとのこと。私と同じように思う人が多いのである。上社、下社があり、上社が大学稲荷で下社が小学稲荷という。
垂れ幕に「丸に十の字」(薩摩、島津家の家紋)がある。高良大社にもあるので、そのまま真似をしたのかもしれない。
 

大学稲荷社

 
炉粕町稲荷社
(広助さん)同神は岩秋社の東隣で勧請は大正4年(1915)。祠には「爐糟町鎮守」と刻されています。祭神は倉稲魂神。
 

炉粕町稲荷社

炉粕町稲荷社

玉崎稲荷社
(広助さん)玉崎稲荷神社は社殿の北側に位置し、文化13年(1816)中村盛右衛門父子によって勧請したもので、祭神は倉稲魂神。
 
(私)由緒は不明。東京都江戸川区にあるのが有名のようで、江戸の人が持ち込んだかと思う。
 

玉崎稲荷社

猿田彦神社(老松神社 白太夫神社)
 

猿田彦神社(老松神社 白太夫神社)

(広助さん)猿田彦命神社は社殿の西方に位置し、正徳3年(1713)本大工町によって勧請した同町の鎮守神で(文政8:1825年改修)、祠には「猿田彦命神社」と刻されています。
 
(私)猿田彦とは天孫降臨の際、瓊瓊杵尊を道案内した神様で、島原の街道にもおおく祠が建てられている。道案内という事で、交通安全・方位除けの神社として信仰されている。本大工町の鎮守神の理由は、建物を建て、長崎の将来の道を開くといったところか。
 
(広助さん)老松神社は寛延3年(1750)に尾里傳左衛門によって勧請され(寛政6:1794改修)、のちに猿田彦命神社に合祀されました。祭神は島田忠臣命と野見宿禰命。
 
(私)祭神の島田忠臣命は平安時代前期の貴族・詩人なのだが、菅原道真の師として知られている。野見宿禰命は土師氏の祖と角力の神様だ。野見宿禰命は「のみのすくね」と読むので、職人が使う大工道具の「のみ」と関連があるとされている。松森神社には職人尽くしがあるので、その関連かと思う。
 
(広助さん)白太夫神社の勧請は不明で安政4年(1857)に改修。のちに猿田彦命神社に合祀されました。祭神は度会春彦命。
 
(私)白太夫神社は菅原道真の御守り役の、伊勢神宮外宮神官 渡會春彦(度会春彦)が白髪頭だったので白太夫という。
 
水神様
 

水神様

 
神社の解説は、広助の『丸山歴史散歩』から、コピーさせていただいた。自分でも調べたのだが、わからないのも多く、さすが広助さんだと脱帽。
 
という事で、まさにてんこ盛りの寄せ集め状態である。
 
諏訪神社が、国の使命を受けて活動しているのに対し、松森神社は、地域の信仰を支えた神社と言えるだろう。
 
さらに大クスがあり、職人尽もプラスされて、見どころ満載の神社である。
 
江戸時代は、町の顔役などが、松森神社で神事を行い、帰りに富貴楼で、会合を兼ねた酒盛りだったのだろう。
 
今、ちょうど梅が咲いている。なかなかの風情だ。
 

松森神社