「大一」紋章の謎を解く 伊勢宮神社

伊勢宮神社

今の高麗橋の隣に伊勢宮神社がある。

隣の大きな伊勢宮会館が、境内にせり出していて、神社が目立たない。せっかくの神社の趣が半減されていて、残念である。

この場所に、伊勢宮神社が建てられた理由がある。

それは、他の神社と同じく、対キリシタン政策の為である。

高麗橋

高麗橋は、1652年(承応元年)12月に興福寺の檀徒で蘇州府出身の者らが寄付する形で石造アーチ橋を架設した記録があり、1982年の長崎大洪水後に河川の改修のため、旧高麗橋は、移築され、現在の新高麗橋が架設されている。

高麗橋

橋の名前の高麗は、朝鮮半島の国の名である。なぜこの橋の名前があるのか、過去に調べている。

長崎の朝鮮人たちとキリスト教 アートワークス
https://artworks-inter.net/2018/08/20/

なぜ中国人が作ったかというと、興福寺の山門に通じる参道として架設されたものだとされている。つまり、興福寺へ参拝しやすくするために、興福寺の檀徒が金を出し合って作ったのである。

興福寺 日本最古の黄檗宗の寺院

その橋が、なぜ高麗橋というのかというと、この橋があった鍛冶屋町付近は、豊臣秀吉の朝鮮の役後、長崎に移住した朝鮮人は、最初、鍛冶屋町あたりに住み、その後万屋町に移ったという。

つまり、朝鮮人がたくさんいたので、後年、西道仙(にし どうせん)という明治時代の長崎区議長が命名している。

つまり、橋は中国人が作ったが、橋の名前は明治時代、長崎区議長がつけたのである。

まあ、名づけはかなり新しいので、昔から高麗橋に近い名前だったと思う。

そして、高麗橋は、伊勢町の今の場所に移動する。なぜかというと、町の拡張の為、朝鮮人たちが伊勢町あたりに移り住み、新高麗町となっていたからである。

朝鮮人が、長崎に移住したと書いたが、朝鮮出兵の際、強制的に連れてこられた人も多かっただろう。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年作)新撰太閤記の一場面

ここで少し解説をしたい。

秀吉の朝鮮出兵だが、別に朝鮮を征服しに行ったのではなく、その当時の中国王朝「明」に行ったのである。なので当時は「唐入り」などと呼ばれていた。

これまでの歴史家は、秀吉がぼけて、中国征服の野望の為に行ったとする人が多いのだが、最近は見直され、西洋のアジア進出の防衛ラインを築くためであるという評価も増えてきている。

その当時の朝鮮は、李氏朝鮮であり、明の臣下としての立場で存在していた。

そしてスペインの脅威があった。スペインは大航海時代に世界の約8割を植民地にしていた。そして、アジアで侵略されていなかったのは、中国の明国と日本だけだったのだ。(李氏朝鮮は中国の属国)

文禄5年(1596年)に、スペインのガレオン船が土佐の浦戸に漂着し、救助した乗組員から、「スペイン王のフェリペ2世は、宣教師を使ってアジアを侵略している」という話を聞きだし、秀吉の態度は決まったと思われる。

朝鮮出兵の公的な理由は、明国を取り込み、アジア防衛網を築こうとしたのだが、大人数を海外派遣することで、西洋に日本の力を誇示したとも思われる。

この作戦は、その後西洋のアジア侵略の歯止めとなっている事から、後年考えると成功だとされている。

しかし、未だに悪く言われるのは、通り道だった朝鮮での戦闘行為のせいである。

当時は乱世の時代である。武力で他国を従えることは正義だった。

しかし、現在の価値観では、侵略であり悪である。これはどうだろうか。

時代を考慮に入れない価値観による判断は、正しいのだろうか。

人類の歴史は戦争の歴史である。いまだに思うのだが、なぜ人間は戦争をするのかという問題を学校で議論して欲しい。

まあこの問題は置いといて、話をもとにもどす。

豊臣秀吉

そんな大胆な行動を考え出した秀吉だが、何も考えていなかったわけではない。

軍隊が朝鮮を通る事で、武将へ禁止令を打ち出している。

①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。
②飢餓に苦しむ百姓を助けること。
③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。
④法令順守の徹底。
「毛利家文書」

しかし、現実は、「乱取り」と呼ばれる、略奪行為が行われていた。

雑兵たちにとって、見返りのない戦闘は、ただ働きであり、いかに戦利品を得るかが重要であった。そして、それは武将たちも黙認せざるを得ないのである。

そんな中で、秀吉は「捕らえた朝鮮人の中で、細工のできる者、縫官、手先の器用な女性がいれば、進上すること。召し使うようにする。家中を改めて、こちらに遣すこと。」という触れを出す。

略奪や誘拐を禁止した秀吉だが、奴隷として日本に連れられている実態を知り、有効活用しようと方向転換をしたと思われる。いかにも秀吉だ。

これが一方の歴史の事実であるが、それ以外の事実もある。

日本人に味方をする朝鮮人

李氏朝鮮の身分制度の厳しさは類を見ない。その最下層である奴婢の供給が無ければ国が存続しない奴隷制国家だった。

その中の白丁は最下層で、屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことを禁止されていた。

そして、その強烈な身分制度で苦しんでいた朝鮮人も多く、秀吉が朝鮮に出兵した時に、秀吉側について明と戦った朝鮮人がたくさんいたのも事実である。(ルイス・フロイスの著作にあり)。

朝鮮の史料においてすら、宣祖実録(25年5月の条)には「人心恨叛し、倭と同心」と認め、宣祖が「賊兵の数、半ばが我が国人というが、然るか」と臣下に尋ねたと記述されており、王都を捨てて逃亡する王に非難が集まり、投石する百姓が絶えずに衛兵もこれを止めることができなかったという。

結果的に、朝鮮人を日本に連れてきてしまった。(奴隷狩り、拉致)

その朝鮮人の数だが、総数は不明だ。推測される人数は、鍋島藩で150人くらいと言われている。いろんな藩が参加していたので、そこから推定するしかないだろう。

李氏朝鮮では職人や技術者は差別の対象なのだが、日本では技術者は尊敬すらされているので、多くの朝鮮人技術者は喜んで日本にやって来たと伝聞にはある。

徳川時代になると、国交回復のための朝鮮通信使が始まり、計12回に及ぶ。
その目的の一つに、朝鮮出兵で日本に来た朝鮮人の帰国で、第1次で約1300人が帰国したと記録にある。

とりあえず記録に残っているのは7500人である。

壬辰・丁酉倭乱における朝鮮人被虜の末育-乃木希典の由緒- 添田仁 著(神戸大学大学院文化学研究科 日本史専攻)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/80030010.pdf

上記の論文より帰国者の数字は引用している。

この数が多いか少ないかは不明だが、学者が言う何万人とかいう記録が事実とすれば、多くの朝鮮人たちが日本に住み着いたと思われる。

キリスト教徒となる朝鮮人

そんな秀吉の朝鮮出兵政策を非難したのが、長崎のイエズス会の宣教師たちである。

長崎のイエズス会

そのイエズス会の宣教師たちの尽力で、朝鮮人たちは、町を作り住む事とが出来るようになる。

一言余計な事を言えば、世界中を荒らしまわったイエズス会が、それほど人道的とは思えないので、信徒にする目的があったと勘ぐっている。

そして、朝鮮人たちは、ほとんどキリスト教徒になってしまうのである。

ついに、キリスト教徒になった朝鮮人は、教会を作ってしまう。

サン・ロレンソ教会という。

その教会の場所が、伊勢町だったと言われているのだ。

だから、伊勢宮神社は、今の場所に建てられたのである。

神明神社

神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。

長崎の伊勢宮神社も、神明神社に入る。

神明神社の祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、鳥居の形は主に「神明鳥居」であり、素朴な形式で全体的に直線的である。建築様式は神明造であることが多い。

伊勢神宮

長崎の伊勢宮神社

実際の伊勢宮神社も格調高く作られている。

伊勢宮神社は、諏訪神社、松森神社(天満宮)とともに長崎三社と呼ばれ、長崎県内で最初に人前結婚式が行なわれたことでも知られる神社だ。

伊勢宮略歴

當伊勢宮は今を去る三百六十余年前の寛永六年に天台宗修験南岳院存祐と云う人が長崎の繁栄天下泰平諸人安全祈願の為に外宮長官檜垣常晨の許状を得て今の地に内宮を鎮座奉斎し後、寛永十六年に幕府及伊勢神宮に請ふて外宮太神宮を併せ鎮座奉祀して此の年に長崎奉行を始め市民一般の寄付に依り宮殿が建てられ伊勢宮と称せられるやうになったのであります。(略)

つまり、寛永六年に、唐津出身の天台宗修験南岳院存祐と云う人が、今の地に内宮を鎮座し、幕府と長崎奉行が作ったとある。

出来方は諏訪神社と同じである。

伊勢宮神社の最初の神主は、唐津出身の仏教の天台宗修験者だった。

諏訪神社も松浦一族で唐津の修験者である。

その当時の長崎は、キリスト教であふれ、神社仏閣の神主や僧侶たちは、逃げ回っていて、修験者のような武闘派でなければ、神主の成り手はなかったと思われる。

そして新高麗町という町名が、伊勢町になったのは延宝8年(1680)のことである。

伊勢宮神社の外観

伊勢宮神社

伊勢宮神社

本殿には紀貫之らが詠んだ36人の歌と肖像絵が描かれた「三十六歌仙絵」が飾られいる。

楠稲荷神社

伊勢宮神社

境内には「くすの木」をご神木とする末社 楠稲荷神社がある。これも奇麗である。

社殿をぐるり回ると、後ろには小さな神殿が並んでいる。神様名はわからないが、たぶん伊勢神宮にならったと思われる。

伊勢宮神社

伊勢宮神社

「大一」紋章の謎

伊勢宮神社

伊勢宮神社

拝殿に、お宮の紋章がついた幕が掛かっていて、その紋章が「大一」である。

いろんな解説を調べても、ネットの場合はコピペが多く、詳しく調べている人がいないようだ。

そこで、調べてみた。

伊勢宮神社

「大一」が、道教の影響を強く受けたとは書かれている。漠然と道教では何のとっかかりもないので、紋章の雰囲気から攻めてみた。

この紋章は、石田三成の「大一大万大吉」は旗印に似ていて、上の部分は同じである。

石田三成の旗印は『大一大万大吉』

この旗印は有名なので、これを調べると、

「大」とは天下を意味し、大(天下)のもとで、一(一人)が万人のために、大万(万民)が一人のために命を注げば、すべての人間の人生は吉となり、太平の世が訪れるという意味となります。

とある。

そんな意味があるとすれば、「大一」だけでも、天下となる。

違う解説では、

地上を支配する「太」=「大」=「天」は、具体的には高天原であり、唯「一」の存在である「神」は天照大神であり,そして「神」=唯「一」の存在は天皇である。(略)

これだと思う。道教は中国のものなので、日本風に解釈されたのである。

これだと、「大一」とは、この伊勢宮神社の祭神、天照大神の事となり、納得できるのだ。

納得はしたのだが、「大一」はいかにもわかりにくい。

伊瀬神社の紋

菊の紋章の方が、一発でわかるのにと、一抹の思いがあったので、じっとこの紋章を見ていてふと気が付いた。

伊勢宮神社の紋

下の一の字を上に持ってくれば、「天」という漢字になる。

伊勢宮神社の紋

ここからは推測なのだが、皇室の紋は、格調が高く、

明治2年8月25日(1869年9月30日)の「社寺菊御紋濫用禁止ノ件」(明治2年太政官布告第803号)で、社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺を除き一切の使用が禁止された。

という法律が出たくらいだ。

現在では、ある程度自由に使えるのだが、やはり長崎の伊勢宮神社は気を使ったと思うのだ。

そこで、「大一」を紋にした。

一度この紋のカラクリがわかれば、みんな納得するからだ。

この謎が解けて、すっきりしている。

伊勢宮神社

伊勢宮神社

コメントを残す