深堀神社 縄文から続く奇跡の聖地にある庚申信仰の猿田彦
長崎市深堀町5-181
場所は深堀小学校の近くなのだが、私が深堀地区をよく知らないので、わかりにくかった。
町にある神社を探すとき、車では出かけない。いつも原付バイクである。でないと、駐車場所を探すのに手間取るし、知らない町をうろうろするには、バイクが最適だからだ。
近くには、深堀貝塚遺跡資料館や武家屋敷跡もある。これだけでも深堀の特殊な地域性がわかる。
深堀神社は高台にあり、入り口には大きな鳥居がある。
その鳥居は市指定有形文化財の明神鳥居(旧幸天宮石神門)という。文字がたくさん書かれていて、やや不気味。
耳なし芳一の話に、体中にお経を書き込み悪霊から身を防いだというシーンがある。そのシーンを思い出してしまった。
この文字を書きまくるスタイルは、佐賀藩独特らしい。生真面目な佐賀県民の表れか。
境内は広く、木々が多く鬱蒼としている。いろんな場所に石灯篭や祠、併設の神社などがあり歴史を感じる。
社殿は新しい雰囲気で、神社らしさがあまりない。
祭神は猿田彦命、天鈿女命(アマノウズメ)。
この神様を長崎で祀っているのは、私が知っている範囲だと、長崎市上西山町の祠と、松森神社の祠だけだと思う。(探せばまだ有るかもしれないが・・)
猿田彦とは天孫降臨の際、瓊瓊杵尊を道案内した神様で、道案内の神として島原の街道におおく祠が建てられている。
天鈿女命(アマノウズメ)は、「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。
天孫降臨の際、天鈿女命は、天孫降臨に随伴して天降りし、その縁で猿田彦と結婚したとされている。
一般的に言えば、夫婦の神様である。
その猿田彦の容貌がすごい。
「日本書紀」では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いていると書かれている。
ざっくり言えば、天狗のようなので、山伏や烏天狗と混同されやすい。
猿田彦への信仰は様々だが、長崎だと島原に多く見られる。
長崎市の鳴見町のバス停「白髪」や、市内の病院に「白髭」のつくものがあるが、これは猿田彦の事である。
また「サル」の音から庚申講と結び付けられている。
庚申講(こうしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰とある。
庚申は「かのえさる」と読み、干支(えと)の60通りある組み合わせのうちの一つである。
「三尸(さんし)」とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。
中国の王朝、晋の抱朴子(ほうぼくし)という本には『人の体内に潜む三尸は形はないが、実は鬼神や霊魂の類である。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げる』とある。この為、庚申の夜には慎ましくして眠らずに過ごすという風習が根付いた。
この不思議な信仰は、神道や仏教と結びつき色んなところに顔を出す。
八天狗
諌早と飯盛の間の土師野尾(はじのお)という場所付近に「八天狗」と記された大きな鳥居がある。
鳥居の足下には「申・天狗と太蔵の里」の立て札がある。
この申は、十二支のさるであり、この境内の中にある十二支公園は庚申信仰から来ている。
そして八天狗とは、猿田彦の子孫であり修験者とされている。
飯盛八天狗の鳥居の謎。松浦水軍と猿田彦伝説のつながり
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1593
ちなみに長崎の愛宕の山の上の愛宕神社の裏に天狗を祀る神社がある。
長崎県諫早市の町中に八天神社がある。
由緒によれば、この八天神社の八天狗信仰の流布は不明であるが、諫早領内には諸方に八天狗石碑の建立あり、これら修験者山伏によって火難消除の守り神として信仰を広めた。
この永昌の地は小倉を起点とする長崎街道、佐賀藩からの諫早浜街道、島原藩からの三街道の合流する処で、佐賀本藩の代官所もあり諫早の宿場であると共に諫早抑えの拠点としての重要の地であったとある。
ここで、佐賀藩が出てくる。
佐賀藩と庚申講のつながりを探すと、
佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳
https://saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2036
というページに、「佐賀県においても江戸時代になると各地に講が結成されたことが、各地に建立されている庚申塔によってうかがわれる」と載っている。
ここで、深堀神社の祭神、猿田彦と佐賀藩の関係が理解できる。
昔の事である。佐賀藩から長崎の深堀までの道のりは、大変だったと想像できる。
なので、道案内の猿田彦を信仰した理由もわかるし、佐賀ではやっていた庚申信仰の影響も多大だったと思う。
だから深堀神社の祭神は猿田彦だったのだと一人で合点した。
また、庚申信仰は俗信である。なので日本の神社のつくりとは、一線を引いていたのだろう。
深堀神社の第一印象が、神社らしくないと感じた理由はそこにあったのだ。
武士道とキリシタン信仰
余談だが、色々調べていった時、
「切支丹信仰と佐賀藩武士道、筝曲「六段」の歴史的展開 伊藤和雅著
http://seibundo-pb.co.jp/index/ISBN978-4-7924-1102-2.html
という本を見つけた。
佐賀藩はキリスト教に寛容だったという指摘がある。そして善長谷教会の隠れキリシタンの話がある。
不思議な感じがする。なぜなら佐賀藩といえば、武士道の葉隠れという教えが有名で実に日本的だ。
しかし、幕末の長崎の外海には 大村藩領と佐賀藩領が混在し、佐賀藩領では取締りが比較的緩やかであったという記録がある。
外海といえば、遠藤周作の「沈黙」の舞台である。この地にキリシタンが多い理由が腑に落ちた。
佐賀藩の侍が理想とする葉隠れは、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が有名で、キリスト教の殉教とどこか通じるものがあると推測できる。
これに関しては、後程調べてみたいと思う。
俵石山八幡宮の常夜燈
俵石山とは、鎌倉時代前期に、長崎にやって来た深堀能仲(ふかほり よしなか)が、城を作った城山の事である。
俵石と名前が付くのは、円柱状の石がたくさんあるので、その名が付いた。この地に鶴岡八幡宮の分霊として、山頂に神社を立てられたのが、俵石八幡神社である。
神社を立てたのが、長崎にやって来た深堀氏だ。
深堀氏は、上総(かずさ)(千葉県)伊南荘深堀を本拠とし,御牧別当職を相伝。建長7年(1255)肥前彼杵郡(長崎県)戸町(戸八)浦の地頭に任じられた、と辞書にはある。
そして戸町より以南野母まで散在する島々含めて「戸八ヶ浦」だったのだが、地名を深堀と改め、16世紀後半まで代々統治している。その後、江戸時代は佐賀鍋島深堀支藩となった。
深堀氏は、1221年承久の変(じょうきゅうのへん)という、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱の事を言う。
北条氏という武士が、朝廷軍を武力で制圧した事件なので有名である。
そして、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。
これが九州に中央の武士たちがやってきた理由である。
「戸八ヶ浦」も肥前彼杵荘という、九条家(藤原氏北家の嫡流)の荘園だったが、その土地をもらったという事だ。
その経緯だが、最初は違う土地を示されたのだが、深堀能仲は恩賞地の変更を幕府に要求している。
つまり長崎がよかったのだ。その時代から、長崎は有名な貿易港だったことがわかる。
時がたって、戦国時代の頃には、深堀氏には長崎港を利用する貿易船から関税を徴収し、拒否されると船を襲い積荷を強奪するといった海賊のような側面もあった。
なかなかの悪人、武人である。
深堀神社の創建の時期は不明であるが、深堀氏がこの地にやって来た時にはすでに鎮座していたという。
それまでの長崎は、丹治比(たじひ)一族が長崎を支配していた。
いきなり深堀氏が長崎にやって来た時には、戸八浦は丹治比(たじひ)氏の血筋の在地豪族の戸町氏が治めていた。
深堀氏は、その豪族らと抗争を繰り返しながら所領を拡大していったのだ。
なので、深堀神社の祭神である猿田彦は、深堀氏が来る前の戸町氏達の信仰だったと思われる。
長崎にやって来た深堀氏は、鎌倉武士なので、当然八幡様である。なので城を作った俵石山に八幡宮を作ったのだ。
しかし、深堀神社の場所をおろそかにはしていない。
この場所には、深堀氏の祖先とされる三浦氏を祀った三浦神社というものがある。
つまり、この場所ははるか古代より神々を祀る聖地として、存在したのだ。
深堀神社の建てられた場所を見れば、山の入り口のような場所である。
現在は埋め立てられているので、元の地形がわからないが、近くに貝塚遺跡があるので、たぶん深堀神社の近くまで海が来ていたのだろう。
俵石山八幡宮の常夜燈は、その海を行きかう船の為に、灯台のような役目として建てられたと推測する。
長崎の渕神社にも、同じような燈籠がある。
深堀氏は長崎港を利用する貿易船から関税を徴収していたとあるので、その為じゃないのかなとおもう。
境内の祠群
境内社は稲荷神社、天満宮、三浦神社、土神、大神宮、粟嶋大明神、荒人神社などがある。
長い間にいろんな神様の祠が建てられたと思う。
だた、これらの神社を調べれば、この土地の由来がわかるようである。
三浦神社
三浦神社だが、深堀氏の祖先なので祀っている。となれば深堀氏もこの神社を大切にしたと思われる。
粟嶋(あわしま)大明神
粟嶋(あわしま)大明神だが、粟嶋は淡島の読み替えだろう。
淡島は、イザナギ、イザナギの神生みの時に、2番目に生まれた神様で、ちゃんと生まれなかったので流した子供である。
本家の和歌山市の淡島神社は少彦名命(すくなひこなのみこと)大己貴命(おほなむじのみこと)息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)が祭神で、ここに息長足姫命つまり神功皇后がいる。長崎には神功皇后伝説があるので、その為かなと思う。
土神
土神だが、長崎の墓には、この土神が一緒に祀られている場合が多い。
長崎の館内に、唐人屋敷の土神堂がある。中国の道教の神様なのだが、土地や家を守ると信仰されている。
神社に道教の神様が祀られているのも不思議だが、この深堀の地には、中国からの貿易船がやって来たと思われるので、この地に住み着いた唐人たちがいたのかなとも思う。
荒人神社
荒人神社はこうじんと読むのだろう。
荒人という神様はいないので、これは庚申信仰(こうしんしんこう)の読み替えだと思う。
庚申信仰は前述したとおり、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」であり、庚申の申をサルと読む。つまり、猿田彦信仰につながるのである。
となれば、この小さな祠が、深堀神社の祭神の大元だったと推測できる。
ただ、この祠は、島原の街道に作られている道祖神の祠とそっくりなのだ。たぶん荒人神社は島原からやって来たのかもしれない。
深堀神社の境内の祠だが、これらには作られた時代があるはずなので、推理してみる。
古い順番から並べてみる。
大神宮、粟嶋大明神は神道の神様なので、とりあえず一番古い。
その後、中国との貿易が栄えたので道教の土神がある。
平安時代の天満宮
そして鎌倉時代の深堀氏の祖先である三浦神社
そして猿田彦の荒人(庚申)神社。
稲荷神社は、よくある神様なので時代は不明だが、特別な意味はないのかと思う。
こんな感じである。
あちこちに話が飛んだが、深堀の土地は、縄文時代から人が住み着いて、現在まで来ている特別な地区である。
深堀神社も、様々な経緯を経て今の形になったのだ。
この地は高台だったので、昔から聖地(墓場)だったのだろう。
縄文、弥生と人が住み着き、大陸との貿易港として人が集まり、開発が進む。
そして、地元の豪族戸町氏が開墾し、鎌倉時代に深堀氏が上総からやってくる。
この深堀氏は海賊のような武闘派で、長崎氏を散々攻め立てている。
その後秀吉の時代に、その暴れん坊ぶりを咎められ、佐賀藩の養子に入り、佐賀藩の深堀となったのである。
なのでこの深堀神社には、様々な神様が祀られているのだと推測する。
キリシタンがやって来た時代から、長崎を語ることが多いのだが、本当の長崎は、もっとはるか昔から、栄えていたのである。
その事を再度伝えたいと思う。
昔深堀に関して書いた文章がある。興味のある方はどうぞ
深堀人は土蜘蛛族 アートワークス
https://artworks-inter.net/2018/12/16/深堀人は土蜘蛛族/